2015-12-19

民衆の神 キリスト

 前回紹介した本が18日についに出版されました。野呂芳男『民衆の神 キリスト:実存論的神学完全版』ぷねうま舎(5600円+税)です。

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 1964年に出版された名著『実存論的神学』の再刊です。2001年に著者自身が『実神』の改訂版を計画し、出版の手前までいっていましたが、諸般の事情により実現しなかったものです。今回は旧版出版から41年、改訂版の執筆からは約15年の月日を経て、旧版とがらりと雰囲気を変え、読みやすい形での出版となります。


 一番大きな変化は、旧版にはなかった二つの章が書き加えられた点です。この二つの章には、『実神』以降に生じた野呂神学の大きな転換によって、著者の神学思想にどのような変化が起こったかが存分に語られています。

 それだけではなく、全体が二段に組まれた上、こまかい節に分けられ、それぞれにタイトルまでつけられています。言葉づかいや漢字なども現代風に改められました。初めて読む人にとっては、かなり読みやすくなっていると思います。

 私のように旧版に親しんだ者にとっては、別の本を読んでいるかのような印象です。私の持っている『実神』(旧版)は、赤や青や黄色の線や書き込みでいっぱいで、どこを開けてもすぐに「ああこの箇所か」とわかるようになっているのですが、この新版ではそういう見当がつかず、まるではじめて見た文章のように思えます。もういっぺん新しい気持ちで読むよい機会かも知れません。

 詳しくは解説に書いていますので、それを読んで下さい。林昌子さんの「後序」では、野呂先生の生涯と思想が短く語られています。各図書館に1冊、各家庭に1冊。みなさんどうぞ買ってくださいね。

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2015-07-04

民衆宗教へ

 野呂芳男『実存論的神学』(増補改訂版)の解説を書き終えた。

 この本は現在、出版をめざしてユーカリスティア協会の林さんが奔走しているもので、今回というネットで資金をつのるready forというシステムを使って、不特定多数の方々にご協力をお願いするという方法をとっている。長くほったらかしにしているこのブログが誰かに見られているとも思わないが、もし何かの偶然でこの記事を見られた方は、今回のプロジェクトの頁をのぞいてみていただければ幸いです。

 ところで今回、解説を書いてみて、後期野呂神学の特徴は「民衆宗教へ」ということに尽きると感じた。前期とは異なった点が後期野呂にはあって(いわゆる「後期野呂問題」)、それが前期野呂に影響を受けた多く人たちにとってのつまづきとなっているのだが、後期野呂の全ての主張は民衆の信仰を神学に取り戻そうという意図に貫かれていることを知るとき、少なくともその主張の真意が理解されるのではないだろうか。

 私は林さんのご好意で、野呂先生の昭島の書庫(現在は撤去)を見せてもらったり、晩年の先生が毎週続けておられた講義の録音を聴かせていただくという特権にあずかったが、おかげで「晩期野呂神学」ともいうべきものにも触れることが出来た。亡くられる前の10年間のこの思索は、今回の増補改訂版以後の神学的発展ということになり、原稿という形ではほとんど残っていないものだ。それでもいくつかの手書きの草稿が「遺稿」という形で存在し、林さんの構想では、今回出版されるはずの書物の次に来る書物にまとめられる予定である。そして、それはそれで極めて魅力あふれる代物である。

 ただし、それらは十分に遂行されまとめられたものではないし、晩年の先生が考えておられたことを網羅しているわけでもない。晩期の野呂神学は、むしろ日々なされた講義の録音の中にこそある。私はそのデータをSDカードに入れてカーステレオに差し込んだままにしているので、車のエンジンを入れるたびに野呂先生の声が聞こえてくることになる。この1年そのようにして講義を聴き続けている。

 私はその講義を、時に共感し、時に驚嘆し、時に疑念や反発を覚えながら、深い感慨をもって繰り返し聴いて来た。神学とは一体何なのか、キリスト教とは何なのか、信仰とは何なのか。既成の教会から全く自由になったこの一人の高名な神学者は、一体どのような意味でなおキリスト教神学者であり、キリスト者であると言えるのか。今日の教会は、この人とその思想をどう受け止めるのか。私は、車を運転する度に、深く考え込んでしまうのである。

 このような研究生活のはじまりの一歩で、このような規格外の神学者と出会ってしまい、さらにその晩年の教えに接し遺稿の整理や出版にも関わることになった者の責務として、私なりに上のような問いを問うてい来たいと考えている。

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2015-04-26

野呂芳男5周忌

なんとか間に合った!

野呂先生が亡くなられて5年。
今日中に更新しておきたかった。
更新したという事実だけで今はよい。
ほったらかしで、もはや誰も見なくなったこのブログも、
決して放棄したわけではない。
いつも気にしてはいるし、そろそろ再開しようとも思ってはいる。
そう書き留めておくだけで今はよい。

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