小田垣雅也先生の思い出
小田垣雅也先生が逝去された。先月のことだと言う。
小田垣先生は若いころ肺を病まれ、同年代からだいぶ遅れて大学生活を送られた。そのため、A山学院では年のそれほど離れていない野呂芳男先生に師事されることになったが、アメリカ帰りのこの新進の神学者から多大な刺激を受けられた。『実存論的神学』(1964)が世に問われたまさにそのころのことである。野呂先生の退官祝いの席で、小田垣先生が「野呂先生は私の青春でした」と言われていたのを印象深く覚えている。
しかし小田垣先生は野呂神学を受け継がず、全く独自の神学を展開された。私はR大学でこの異なった個性をもった二人の神学者から、「現代神学」の講義を計3度受講した。そのうち二度は小田垣先生だった。実を言えば学生時代には小田垣先生からより強く影響を受けた面がある。ブルトマンを通して神学的解釈学に関心を持っていた私は、当時民衆仏教とキリスト教との対話の課題に入り込んでおられた野呂先生よりも、エーベリンクやフックスなどの新解釈学を咀嚼しつつ、さらにそこから現代思想の最先端とつながるような形で自らの神学的思索を展開されていた小田垣先生に惹きつけられた。(野呂先生のやっておられたことの重要性がわかってきたのは、もっとずっと後で自分が大学の講壇に立つようになってからだ)。
小田垣先生の講義は独特で、後にも先にも類似した講義を見たことはない。その講義法を、先生は「口授(くじゅ)」と呼ばれていた。まずその日の最初の主題となる内容について、ノートも何も見ないでざっくばらんに話された後、「では、今話したことをまとめます」と言って、A4くらいの紙に書かれた文章を見ながらより整った著作のような文体で語られる。受講者はそれを一所懸命ノートに書きとる。それが終わるとまた、次の話題について先生のお話が始まる、といった具合である。こうしたいわば口述筆記のような講義スタイルは、先生が若いころ治療のために行った投薬の影響で難聴であられたことと関係があると思うが、受講者としてはかえって授業内容がとても頭に入りやすく、ノートの整理もしやすい、実にありがたいやり方だった。おかげでその時のノートは今でも十分に利用出来る形で手元にある。開いてみると、本当にきちんとまとまっており、ほとんどこのまま一つの著作になるような文章が書き留められていた。(といっても、完全に出来上がった文章を読み上げるのではなく、ところどころ会話調がまじるのだが)。
小田垣先生はとてもダンディーで、同年代のふつうの会社員の男性とは明らかに異なった、スタイリッシュな、といっても決して派手ではなく、何とも趣味のいいスーツを着こなしておられた。講義ではしばしば片手でチョークを数センチばかり放り上げては受けを繰り返しながら、低いがよく響く声で話された。そのお話は、四方八方から押し寄せる膨大な知識を前にあるときには右往左往しあるときにはいかんともしがたい閉塞感を感じていたわれわれ学生に、一言ですっぱっと新しい地平を切り開いて見せてくれるように思えた。それは新たな知識の伝授というよりも、一つの発想の転換という方がふさわしいものであった。
2度目の「現代神学」を受講したのは学部4年の時だ。キャンパスの端にある古い小さな離れのような教室で、受講者は10数人だった。ちょうど『現代思想の中の神』(1988年、新地書房)を上梓されたところで、講義の後その本を購入して持っていくとサインをして下さった。(今見直すと、「著者」としか書い下さっていないところが、何とも小田垣先生らしい)。当時ポストモダン思想流行の真っ只中だったが、この新著ではバルト、ブルトマン、ティリッヒら馴染みの神学者の名とともに、ハイデッガー、ガダマー、デリダといった当時流行の哲学者の名が頻出し、自分が学ぶキリスト教神学と現代思想の最先端の主題が全く同一平面で議論される知的空間に魅了された。ポストモダン思想について巷のどんな一般的な解説書を読むよりも、現代神学とからめた小田垣先生の議論の方が腑に落ちる気がした。このような本を書く先生の話を直接聞けることは大変な贅沢に感じられ、この教室にいる数人にしかゆるされない特権のように思えた。
知的で洗練され成熟した雰囲気を漂わせていた小田垣先生には、若く未熟な私ども学生から見れば、どこか近寄りがたいところがあった。だから、ある日の授業の後で、図書館の階段を登っていくところで先生と一緒になった時はとても緊張した。K音大から非常勤で来られていた先生は、R大の図書館に行くのは慣れないのだが、オルテガ・イ・ガセットの本はあるだろうかと尋ねられた。私はその思想家の名をついこの間知ったばかりだったが、たぶんあると思いますと答えた。先生はいつもの講義の時とちがって、とても優しく穏やかな表情でお礼を言われ、静かに図書館のゲートに入っていかれた。今思えばその本があることは当然ご存知だったが、学生の私を気遣って声をかけてくださったに違いないと思う。
だが、激しい面もあった。ある時、受講者の一人の男子学生が、授業の途中で教室を出た。まずいことにその教室は前方に出入り口があったため、講義されている先生の横を通って出て行くことになった。その時、先生は呆然とされ、彼が去っていく後ろから大きな声で、「君、失礼だろう!」と叫ばれた。自分の講義に対して情熱をそそぎ、誇りをもっておられたからこその激しい態度だったと思う。その男子学生は私の友人でTという男で、決して悪い奴ではないのだが、自分の感覚的な思い込みで行動するところがあり、先生に大変嫌な思いをさせてしまったと思う。
私の同年代には、小田垣先生に心酔し、小田垣先生の神学を深く学んだ人は多い。先生が、第一線を退かれてからは、月に一度みずき教会という小さな家庭集会をされていたが、そこにはかつてK音大で学んだ学生の方々をはじめ、先生を慕う何人かの方々が毎月集われていたようである。その方々に比べれば、私は先生との個人的な付き合いはなく、たぶん先生も私をご記憶にないと思う。しかし、私にとっては忘れがたい恩師の一人であり、『解釈学的神学』(1975年)は、学問的に私が最も影響を受けた本の一つである。
神学的解釈学に関して小田垣先生のこの本から漫談だ内容について、今簡単に述べることはとてもできない。しかし、この本からさらに『知られざる神に』(1980年)、『哲学的神学』(1983年)、『現代思想の中の神』(1988年)、『ロマンティシズムと神学』(1992年)、『憧憬の神学』(2003年)と続く一連の著作を見渡す時、本当にオリジナルな思想を提示した数少ない日本の神学者の一人であったと思う。
今準備中の論文では小田垣先生の業績を随分参照させていただた。先日、先生の著書を引用した箇所を校正している頃、もう先生はこの世を去られていたのだ。必ずしも先生の主張を引き継ぐ形にはならなかったが、改めて先生から受けた学恩の大きさを感じている。
小田垣雅也先生に、感謝をこめて、心からの追悼を捧げます。
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