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2006-03-29

野呂―日比野論争(1) 「有り難いことがある」 

 先日、野呂先生のかつての弟子である日比野英次さんが15年前に書かれた書評に対して、先生が反論する文章を書かれ、両方が同時に野呂先生のHPに掲載された。 HPの管理をしているのは私なので、「掲載した」と言うべきかも知れない。

 先生が、自分の立場をきわめてよく理解している書評であると書かれているように、この書評は先生の思想を深く理解した弟子ならではのものであり、だからこそ通り一遍の紹介や、賛辞ではなく、非常に深いレベルでの議論になっている。日比野さんは野呂先生の立場を、かなり辛辣に批判されているのだが、今回それに対して野呂先生がやはり根本的な反論をされている。

 日比野さんは、野呂先生の反論を読み、またさらに反論を書くと言っておられるので、最終的にはそれを読まないことには決定的なことは言えない。また、日比野さんの叙述が野呂先生を正確に理解していることは、すでに先生の言葉によって確証済みだが、反対に先生の叙述が日比野さんの思想を正確にとられているかどうかは、日比野さんの反論が出てみないと何ともいえない。ただ、今回先生がお書きになった反論の中には、野呂神学を理解する上で鍵となる事柄が浮き彫りにされているように思うので、まずはその点について確認しておきたい。  野呂先生の反論の文章の中で、ひときわ私の目を引いた言葉がある。それは「有り難い信仰」という言葉だ。引用しよう。

この(アルタイザーの)立場では、これまでのキリスト教が与えてくれていた―私たちと対面する―人格神が失われてしまっている。神の恵みが人間の生死を超えて、初めから終わりまで、人間の内外にかかわらず、一人ひとりに対して完全であるという有難い信仰が、アルタイザーにはない。アルタイザーの場合には、正(人格神)・反(人格神の死)・合(人間性の奥底に内在するに至った神)というヘーゲル哲学的思弁に陥ってしまっている。この立場では、内在の神と尽きざる対話をし、自分の力で、その既に死んでしまった神の命令を自分の生や世界の中に実践しなければならないという仕方で、律法主義が入り込んでくる。

                           ※ 括弧内、強調は引用者による

  ここで先生は、日比野さんが今も依拠されているというアルタイザーの「神の死の神学」が、結局は合理主義の哲学であると主張されている。そして、そのような「合理的立場」には、「有り難い信仰ががない」と言われているのである。

 「有り難い信仰がない」。これはむしろあたりまえのことである。「ある」ことが「困難」であるのだから、合理的に考えれば、それが「ない」のはいわば当然のことなのである。ところが、そのような「有り難い」ことが「ある」というのが、キリスト教信仰の究極的な主張なのである。(ブルトマンは、それを「真のつまづき」と呼んだ)。神学はたしかに信仰を理性的な言語で説明する営みである。だから、やみくもに合理性を無視していては神学にならない。しかし、究極のところでそれは合理性を踏み越えたところに立脚点を持っている。ところが、アルタイザーの神学には、そのような踏み越えがないと、野呂先生はおっしゃるのである。

 かつて『実存論的神学』に傾倒したことのある一人の著名な学者が、その後の野呂先生の思想の展開を見て、「野呂先生は結局、ありがたい話になっちゃうんだよなあ」と言われたことがある。だから、自分のような理性的な人間にはついていけないという意味だろう。「ありがたい」ということを、人はすぐに迷信深いということと結びつけてしまう。しかし、ありがたいということは、ありえない奇跡がたくさん起こるということではない。われわれの存在を支える最も根源的な事実が、あり得ない事態によって成り立つということではないか。

 野呂神学に深く傾倒しながら、野呂神学を最後のところで受け容れることができなかった多くの立派な思想家の方々がおられるが、彼らにとっての最大のつまづきは、この「有り難い信仰」にあくまでも立つという野呂神学の強固な姿勢にあったのではないだろうか。私は、今回この先生の文章を読んで、そのことにはたと気がついた。しかしこの言葉ほど、野呂先生の神学を神学として輝かせていく言葉はないと私は思う。ありがたくないような宗教は、もはや宗教ではない。有り難いことがあることへの驚きが、神学を根本的に支えるものでなければならない。

 ただし日比野さんの思想が、野呂先生がおっしゃるとおり「合理的立場」に立つものであるのかどうか、さらなる反論を待たねばならない。

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コメント

野呂-日比野論争、本当に興味深いです。

しっかりしたコメントをつけようと思って、この議論の出発点になった『キリスト教と民衆仏教―十字架と蓮華』を注文しています。
しかし、入荷を待つのももどかしいので、感想程度の簡単なコメントをつけます。

まず、驚くのは、野呂先生が、15年前と今とで、ご自身の思索のうちに変化・発展とともに、継続性というか、同一性というか、変化しないものをしっかりと保持しておられる点です。
反省の深まりはあっても、内容のブレがありません。

実存論的神学の提唱から民衆宗教へと向かわれた野呂先生の変化に、多くの神学者が驚き、野呂神学から離れていったようですね。桶川さんも、この変化に関心を寄せておられますが、最初の実存論的神学に魅了された読者にとっては、その後の野呂先生が歩まれた方向に驚きを感じるのは当然でしょう。
けれども、野呂先生の最も新しいコメントに触れて僕が驚いたのは、この数ヶ月読み続けてきた初期の『実存論的神学』から今日まで野呂先生の主張の核心にあるものが、ブレずに一貫して継続している点でした。

この核心を一言で言い表すのはとても難しいのですが、その一端は、桶川さんがいみじくも指摘された「われわれの存在を支える最も根源的な事実が、あり得ない事態によって成り立つということ」だといえます。
そして、この宇宙のただなかに放り出されたわれわれの存在の孤立無援に気づくとき、このあり得ないにもかかわらず根源的な事実とのつながりが切に求められるという点が、実存論的神学の実存論的な特質であり、この求めに応じるところに宗教のいわば生きた本質があるという点は民衆宗教へと展開されてからも変わらないと思います。

変化と、変化を貫いて変わらないもの、あるいは変化を通じて深まるものが、野呂神学の展開のうちにあるように思います。
このあたりを掘り下げてみたいですね。

こちらで桶川さんがホットな神学論争についての研究発表をされたので、白頭庵の方でも、これほどホットではありませんが、プロセス神学について発表したいと思い、準備しています。

投稿: 白頭庵 | 2006-03-31 11:36

桶川利夫です。

 コメントを書くために(だけではないでしょうが)、本まで注文していただいて恐縮です。ところで、この本は著者の他の著作と比べると、とてもエンターテイメント性の高い本と言えます。特にこの本の目玉とも言うべき第四章は、ふつうの論文形式ではありません。「探偵小説」というジャンルに入れてもいいのではないかとさえ思います。ネタバレになるので、これ以上は言いませんが、かなり楽しんで読めますよ。

 さて、初期の野呂先生の本を熟読されている最中の白頭庵氏ならではの含蓄のあるコメントをありがとうございます。先生が「有り難い」と言われていることが正確にはどのような意味なのかは大変重要な点だろうと思います。「われわれの存在を支える最も根源的な事実が、あり得ない事態によって成り立つ」と書きましたが、これは一つの解釈であって、野呂先生がこういう言い方に同意されるかどうか分かりません。また、この「あり得ない事態」が、野呂神学の場合、何を指すのかということは、後期野呂問題を考える上で重要ではないかと思います。いろいろ思考をめぐらせて見ましたが、かなり難しい問題をはらむので、もう少し考えを整理してから発言したいと思います。(じっくり考えてから発言できるところが、こういう形式の利点ですね)。

 プロセス神学についての発表、楽しみです。ご存知のように、野呂先生もプロセス神学については書かれていますし、青山時代に、ある親しい貿易商の方から、そのころあまり知られていなかったホワイトヘッドの本をどっさりともらい、面白くて夢中で読んだというお話もお聞きしています。野呂神学とプロセス神学の相性は決して悪くないように思います。

 先日、ホワイトヘッドには神論があってもキリスト論がないという白頭庵氏のお話を聞きましたが、『実存論的神学』の「あとがき」を読み返していて、意外なことに、野呂先生も最初は神論の方に主な興味があったと書かれていることに気づきました。(429頁)このことは、野呂神学において神論がキリスト論より優位に立つということを示しているのかどうか、またそれは最近の先生の史的イエスへの執着心のなさと関係あるのかどうか、そしてまた、野呂神学における「有り難い信仰」も、キリスト論的な意味よりも、神論的な意味が強いのかどうか……重要な問いが次々に呼び覚まされます。 

投稿: 桶川利夫 | 2006-04-01 12:40

こんにちは。ご無沙汰しております
アメリカに留学中のSHです
桶川さんと白頭庵さんのやりとり、
そして、野呂先生と日比野先生との間の
論争について興味深く読ませて頂きました。
狭い神学上の問題にとどまらず、
価値相対主義と、絶対主義の問題や、
人間の理性とそれを超えた宗教的体験の関係等、
様々な普遍的テーマに発展していくであろう
論争だと感じました。
私は、野呂先生の神学を体系的に勉強したわけでもなく、
また、私自身の院での専攻は社会思想であるため、
神学上の論争に対しての理解が不十分であると思いますが、
自分なりの視点で、コメントさせて頂けたら、と思います

ここでは桶川さんが引用された、野呂先生の立場に対して、
主に批判的な視点から、コメントしてみようと思います
野呂先生は、アルタイザーの神学が、合理主義哲学に依拠しており
そこには「有難い信仰がない」と批判されております。
確かに桶川さんがおっしゃっているように、
「ありがたくない宗教はもはや宗教ではない」、
人間の理性を超えた、究極的リアリティを開示しないような
宗教は、宗教とは呼べないのではという立場に私も賛成です
キリスト教をはじめ、仏教や、イスラム教もそれぞれ
異なった立場、狭義から、この「ありがたい」
究極的な神的存在をを解釈・言語化しようと
努めてきたと思います。
しかし、一方で、この野呂先生の議論に対し、
三点ほど、疑問点を挙げてみたいと思います

まず第一に、現代社会における宗教多元主義の状況において、
キリスト教的信仰を無前提に「ありがたい」ものと
解釈するのは問題があるのではないでしょうか。
(野呂先生はそうした立場ではないかもしれませんが..)
例えば、仏教的な立場は「空」や「無」という表現を使って、
そうした究極的な神的存在さえも、時間の流れの中で
無化していくという立場を取っているのではないでしょうか?
キリスト教的な啓示体験を無前提に「ありがたい」と
捉えることは、他の宗教的伝統との対立を招くことに
つながらないでしょうか?野呂先生は、「諸宗教を統合する
原理には私は興味はないし無縁」と文中でおっしゃっていますが、無意識のうちにキリスト教な啓示体験を宗教統合の原理
に据えてはいないでしょうか?日比谷先生が批判されている、「キリスト教的立場を日本文化に土着させたい」という
野呂先生の希望は、他の宗教的体験ををキリスト教的な啓示の
元に包摂する悪い意味でのInclusivismにつながる
危険性はないでしょうか

第二に、そうした「ありがたい」宗教的啓示体験が
絶対化される、あるいはイデオロギー化する危険性については
どのように対処するべきなのでしょうか?
キリスト教が民衆に対して、生きる希望や意味を与えてきた
一方で、そこに内在する帝国主義的側面に関しても無視
出来ないのではないのでは、と私は思います。
古くは十字軍、また現在のアメリカにおける、
キリスト教右派の人々による、原理主義的な立場は
他宗教の存在価値、および、他の世俗的価値を認めない、
絶対化されたイデオロギーに基づいてはいないでしょうか?
野呂先生は、現代神学が人間の理性に
立脚して、根本的な宗教的、美的経験を見失う危険性を
批判されているようですが、
キリスト教、および、宗教一般のイデオロギー性を、
人間の限定された理性を通じて、警戒していく必要があるのではないでしょうか。

第三に野呂先生は、「諸宗教を統合する原理」よりも、
「個々の宗教が咲かせる美しい花」つまり諸宗教の個別性
に関心をお持ちのようです。或る面では自分もこの立場に
賛成です。しかし一方で、現代の社会状況において、宗教的
個別性を重視しながらも、そうした個別性をある面で
超えうる、公共的な空間の構築が必要なのでは
ないでしょうか。例えば、グローバリゼーションの時代に
おける、宗教間対立、民族間対立、また人類の生存を脅かす
環境問題や核戦争の危機等を克服するために、
諸宗教がそれぞれ異なったアプローチから互いに協力しあう
学びあう必要があるのではないでしょうか。
野呂先生が強調しておられる、
キリスト教が歴史的に持っている「人間解放のための視座」
を、他宗教との創造的な対話を通じ、
現代社会に生かしていく可能性があるのではないでしょうか。
それぞれの宗教の個別性と、(その個別性を生かした上で)
個別性を超えたグローバルな公共空間を樹立する必要性..
こうした問題に対し、野呂先生はどのようにアプローチされるのでしょうか?

長々と、疑問点を書き連ねてしまい申し訳ありません。
自分自身の専攻の立場から、コメントしてみました。
野呂先生の神学を間違って解釈した部分もあると思うので、
批判も含めて、ご指摘頂けたらと思います

投稿: SH | 2006-04-07 13:42

 SHさん。さっそくのコメントをありがとうございます。最初からこのような本格的なコメントをいただけて、感激しております。

 キリスト教神学を前提とした議論であり、「文明と宗教」研究会の議論としてはどうかなと思っていたのですが、SHさんからコメントをいただいたことで、こうした議論でも今後どんどん出していけば何かが得られるという明るい見通しを得ることができました。逆にSHさんをはじめとして、今後加わってくださる方も、専門外だからどうとかといったことは抜きにして、思ったことをどんどんコメントして下さればよいと思います。

 さて、SHさんのコメントは、野呂神学に対してもさることながら、啓示宗教としてのキリスト教のあり方そのものに対するたいへん多くの重要な問題提起を含んでいるように思います。返答を書きかけましたが、時間がかかりそうです。しばらくお待ちいただくことにして、さしあたりはコメントへの御礼だけ申し上げておきます。

投稿: 桶川利夫 | 2006-04-08 08:28

白頭庵です。

アメリカから参加されたSHさんの、実に内容の濃いコメントに触れて、オンライン研究会の面白さを実感しています。
SHさんのコメントは、「文明」と「宗教」を横断的に議論できる研究会を開きたいという、この研究会の最初の意図が見事に実現しつつあることを教えてくれました。
お元気そうで、なによりです。

多くの議論へと発展しそうなSHさんのコメントの中から、ひとまず一点を選んで、再コメントしてみます。発展的な議論へとつなげられたらいいのですが・・・

野呂先生の議論に対してSHさんが投げかけた3つの論点のいずれも、鋭いものです。
今は、第一点目を取り上げて、今の時点での僕なりの野呂神学・実存論的神学の理解を述べます。

野呂神学のうちに、おそらくは自覚されないままに、キリスト教ないしは啓示宗教を諸宗教統合の原理とするような立場がかくされていないか、というのが、SHさんの問いかけだったかと思います。

これは、現代のキリスト教神学において、ほとんどあらゆる神学者が直面する問いだと言えます。
そして、この問いは、野呂先生自身が何度も自問しつつその実存論的神学を展開していった問いでもあると、僕は思っています。野呂先生は、恐らく、この問いに直面するたびに、この問いに対して確信ある何かをもっておられ、それを言葉にするたびに、より深くこの問いに直面し、そしてご自身の確信をより深く洞察し直す、ということを繰り返してこられたように思うのです。
次第に掘り下げられつつも、根幹は決して揺るがないその確信は、桶川さんが取り出した「有り難い信仰」という言葉のうちに表現されている何かです。

ここには、宗教多元論の問題について十分な理解と洞察をもった上で、それでもこのように表現せざるを得ない、このようにしか表現し得ないような、ひとつの答えがあると思うのです。
それは、野呂神学が提示する最終的な答えではないでしょう。常に掘り下げられ開け広げられていく探求の中での、この時点での表現ではないかと思います。

もうちょっとコメントに即して話しますね。
SHさんは野呂神学の中枢となる(と思える)「有り難い信仰」という言葉のうちに、「他の宗教的体験をキリスト教的な啓示の元に包摂する悪い意味でのInclusivismにつながる危険性」がありはしないか、と指摘しています。

この指摘には、十分に根拠があるように思います。
そして、野呂神学には、この指摘とは、表現上は正反対に見える特質もあるように思います。

百花繚乱の宗教多元的状況においてその共通の根を探るという議論に対して、野呂先生は、これを放棄し、批判しています。そして、それぞれの花そのものを見ていくわけですが、このような野呂神学の姿勢には、むしろ、ある意味で根源的な排他性があるように思われます。
それぞれの花は、それぞれに美しく、他に対して排他的に、美しいのです。

信仰には、排他性がある。そして、排他性において確立している信仰が、その排他性を自覚しないままに諸宗教との対話や統合へと踏み出すと、SHさんが指摘されるInclusivismになっていくのだといえます。

野呂神学は、信仰の排他性を敢えて否定しないことで、それぞれに排他的な信仰の花を、それぞれに咲くままで、受け容れようとしているように思えるのです。

野呂神学は、「実存論的」であることを標榜していますが、それは、咲きほこる諸宗教の花々を俯瞰する傍観者の視点には立たないということを意味していると言えるでしょう。
実存論的神学は、特定の一つの信仰の花に生きることを通じて、つまり、「そこにひとつの花があること」をではなく、「ここでひとつの花であること」を通じて、花々を見る、という視座に立っているのです。

それぞれの花が花であること、それぞれの信仰がそれぞれ切実でかけがえのない信仰であることを理解する視座は、自らが一つの花であること以外にありえない、というのが、その根本的な立場なのでしょう。

自分にとっては、ただキリスト教の信仰のみが「有り難い」、という排他的で実存的な告白を通じてのみ、諸宗教の信仰生活の唯一独自の切実さが理解されるのではないか。

そこには、SHさんが指摘されるような限界があります。
しかし、この限界はキリスト教絶対主義の包摂主義的な傲慢さからくるのではなく、排他的な実存というあり方でしかありえないひとりの人間であることの限界、誠実にひとりの人間であり続けることがもっている根本的な限界だといえます。

僕のこの乱脈なコメントを要約すれば、包摂主義的に見える議論のうちに、むしろ信仰の排他性という問題がひそんでいるということ、そして、実存論的神学は敢えてこの排他性を生きることで、われわれの現実世界ではただ排他的にしか咲きほこることのできない諸宗教のそれぞれの信仰の切実さを理解する立場であること。そこに野呂神学のもつ切実な意味と、その限界があるということ。そしてそれは、ひとりの人間であることの誠実さがもつ限界であること。そこには、限界と共に、実に豊かな可能性もあるのではないかということ。
そんなふうに僕は野呂神学を理解しています。

ただし、この理解は、あくまで僕の今の理解であって、まだ足りないなにかが野呂神学のうちにありそうな予感をもっていることを付け加えておきます。

投稿: 白頭庵 | 2006-04-10 03:19

桶川さん、白頭庵さん
お返事頂き、どうも有難うございます
キリスト教神学は私にとっては、専攻外であるために、
充分な、的を得た議論が出来るか不安もあったのですが、
問題提起を出来たようで、安心致しました。
桶川さんがおっしゃるように、この「文明と宗教」オンライン
研究会は、皆さんの専攻分野の独自性を大事にしながら、
その垣根をこえて、境界横断的に様々なテーマについて
問題意識を深め合っていく所に意義があるのでは、と思います
私も近々、ブログを開設して、何か発表して貢献出来れば、と
思っております。どこにいようが、好きな時に
意見交換出来るのが、ネット社会のいい所ですよね!

さて、白頭庵さんから頂いたコメントの中で、
キリスト教神学が本来的に持つ排他性、
しかし、その排他性を真摯に生きることによってのみ、
それぞれの信仰の独自性を理解することが出来るという点、
つまり実存論的視点から、野呂神学を解釈することの意味について主にご指摘して頂いたように思います。
キリスト教が持つ排他性から出発する事によってのみ、
他宗教の独自の存在意味をも理解することが出来る..
(神の視点には立てない)人間存在が本来的に持つ
有限性に立脚してのみ、白頭庵さんのお言葉を
借りれば、「諸宗教の信仰生活の唯一独自の切実さを理解
することが出来る」のかもしれない。

こうしたポイントをご指摘して頂いて、野呂先生の神学を
単にキリスト教の包摂主義に基づいていると批判するだけ
だけでは批判として不十分である、と思いなおしました。
先生の神学が訴えておられる、それぞれの
の信仰生活の独自性と、その独自性に立脚する事により、
それぞれの花が美しく共存し得る可能性..
(先生はそこまで明示的に議論していないかもしれませんが)
を積極的に認識することが必要なのかもしれません。
野呂先生のHPにある諸論文をもっと精読してみたいと思います
一方で、私が持っている問いとしては、
そうした信仰の独自性を踏まえながらも、どのように、
諸宗教が、現代社会の抱える諸問題、人類の諸危機の解決に向けて互いにcomplementしあえるのか、という問題
(私の議論の三番目のポイント)に対して、
野呂先生は、どのようにアプローチされるのかという点です。個々の宗教の独自性、実存性を生かしながらも、
それぞれの独自性をconnectし得る
公共的討議の空間を構築する必要性..
こうした問題は、また野呂先生の議論とは、また
別のテーマであるかもしれませんが..
野呂先生が言う宗教的体験がもし「ありがたい」もの
であるならば、どのように、そうした「ありがたい」宗教的体験が、現代社会の抱える危機を克服する視座を与え得るか
についても議論していく必要があるのではないでしょうか。

まとまりのない文章で恐縮です。この野呂先生と
日々野先生の論争は、神学のみならず、
様々なテーマに発展しうる議論だと感じております。


投稿: SH | 2006-04-10 10:36

白頭庵です。

SHさんも、ブログ開設の準備をするとのこと、オンライン研究会が本格的な討論の場になっていくことを実感し、嬉しいかぎりです。

SHさんが野呂神学に対して3つの論点から問いをかけた最初のコメントと、それに対して桶川さんが「啓示宗教としてのキリスト教のあり方そのものに対するたいへん多くの重要な問題提起を含んでいる」と答えたやりとりがありましたね。
先ほどの僕のコメントは、野呂神学の言葉を手がかりにしながら、かなり僕自身のキリスト教理解を含んだ内容でした。
実存論的な視座に立って、信仰の独自性、排他的なまでに独自なあり方と、そこに自覚的に立脚することによって初めて諸宗教の独自性を認めることができるのではないか、というのが、僕のコメントの骨子でした。
SHさんは、その主旨をしっかりと受け止めながら、新たな問いをかけています。
現代社会の危機的状況の中では、個々の宗教の独自性と実存性を独自性を結びつけるような「公共的討議の空間を構築する必要性」があるのではないか、という指摘です。
野呂―日比野論争、あるいは野呂神学そのものについての議論から少し離れますが、この点について、キリスト教のあり方そのものを少しでも深く問い直すことをめざして、今の時点で僕からの簡単なコメントができればと思います。

SHさんの問いかけは、SHさんのご専門の領域に直接関わってきますね。むしろ、SHさんの研究テーマそのものが、多元的な社会状況において、おのおのの立場の独自性を生かしつつも公共的な討議の場を作っていくことが、対立と混迷の度を増していく現代社会において最も重要な課題だ、ということだったかと思います。
キリスト教神学にひきつける方向でいえば、この問いかけは、先ほどのコメントで取り上げた実存論的な議論に対して、制度的なものの位置づけはどうなっているのか、という問いになると思います。

これは、独自性を主張する実存的な信仰が、多元的状況において自らを原理として自己絶対化し、イデオロギー化していくということを指摘した、SHさんの最初のコメントの2つ目の論点に関わってきます。それだけでなく、この2つ目の論点に対して、実はSHさん自身の答えとして提示された、3つ目の論点にも、つまり、有限の理性によって絶えず自己の絶対化を警戒しつつ、他者との公共的な討議へと参与するための空間が必要ではないか、という議論にも、つながります。

SHさんが最初に提示した3つの順序に沿って、信仰がイデオロギー化していくということを、制度という側面から考えてみたいと思います。

実存的なレベルでは、信仰は、人間にはとてもできそうにない決断を、つまり、あれかこれかの排他性を含み、しかもそこに自己の全実存がかかっているようなものへの決断を含みます(と、僕は確信しているのです)。
信仰生活というのは、この不可能に近い決断を絶えず行うことだといえます。

そこには、まず、この決断がひとりの人間にとってあまりにも厳しく、不可能に思えるという切実な問題があります。信仰が決断であるがゆえに、それを保持することは、そのつどの自己のあり方を「あれではなくこれ」として排他的に選び取っていくということでもあります。「有り難い信仰」というのは、この決断が、私の生ばかりではなく全宇宙の進行をも後戻りできないような仕方で決定してしまうという重さをもって迫ってくる中で、あれにもこれにも行けず身動きできなくなった私に向けて、何といったらいいか、要するに「大丈夫だからここに来なさい」という呼びかけがある、という確信だと思います。
この決断を受け止め、全宇宙が破局へと向かうことなく導いてくれるものがある、という確信が、「有り難い信仰」だ、というと、もうすでに野呂先生の文脈を超えているでしょうか(僕はそれこそ野呂神学の核心だと思うのですが)。

こうした排他的な決断と、包摂的な受け手がいるという確信が、信仰の核にあるとして、次の問題は、それが制度的に固定されていくプロセスが、宗教の歴史には厳としてあったということです。

信仰の告白、つまり決断しつつ、それを受け止めてくれる「主なる神」の存在を告白する、という行為は、啓示宗教のもっとも原初的な営みだといえるでしょう。しかし、その告白は、公に対する告白として、同時代や後続する世代に向けて、当然、「再帰的」に作用するのです。
宗教の公共性、というよりも宗教の共同性は、再帰的に作用する信仰告白によって制度化されていく営みのうちで形成されるといえます。
そのプロセスでは、あれかこれかの決断は、その実存的意味よりも、むしろ他に対する排他性をより強く保持するような教義的確信へと、あるいは、決断を受け止めてくれるものへの確信は、自らの立場をより強く正当化するような原理主義的確信へと、強化されていくかもしれません。

制度化された宗教は、その源泉を実存的な信仰のうちにもちながら、絶えずそれを自己絶対化する方向へと向けつつ、共同体的なバンドを形成していく、というのが、宗教の歴史の傾向というか、趨勢だったといえます。

だから、僕らは今では、宗教について考えるとき、その実存論的で宇宙論的なレベルと、その制度的で教義的、共同体的なレベルとを完全に分けて考えるようになっています。しかし、SHさんが指摘されたように、実存論的な議論は、制度的な議論を避けて通ることはできません。
実存的に真摯な信仰ほど、制度化される過程で、原理的で排他的な攻撃性をもってくるということは、一般にいえることでしょう。

と、ここまで書いたところで、今手もとに野呂先生の本がないことに気づきました(研究室だ)。

野呂神学ではこの問題をどう捉えているか、読み返してみなければなりませんね。コメントの続きは、それからにします。

制度というものについて、SHさんは、そして桶川さんは、どうお考えですか。

投稿: 白頭庵 | 2006-04-11 23:16

こんにちは。SHです。
白頭庵さんには、実存論的な宗教理解と
制度論的な宗教理解の動的関係性について、
私の専門にも引き付けて議論して頂いたと
思います。お陰で、ここで論じられている
問題が、私の中でかなりクリアになってきました。
どうも有難うございます。

白頭庵さんがおっしゃっているように、
「宗教の共同性は再帰的に作用する信仰告白に
よって制度化される営みのうちで形成されていく」。
つまり、個人の実存的な信仰的決断は、
彼の同時代の人々、あるいは、後の人々によって、常に
捉え返され、再解釈され得る。そして、その結果として
ある一定の信仰共同体が時間の中で変容を蒙りながらも、
再生産されていく..個人の実存的宗教体験と、
宗教的共同体との相互的関係性をご指摘頂いたかと思います。

また、白頭庵さんのお言葉を借りると、
「実存的に真摯な信仰ほど、制度化
される過程で、原理的で排他的な攻撃性を持ってくる」
可能性が存在する。こうした、信仰の絶対化、
イデオロギー化という現象は、キリスト教に限らず、
宗教が特定の教義という形で体系化、制度化される
過程の中で起こるジレンマ、なのかもしれませんね。

ただ、一方で私の中に問いとしてあるのは、
この実存的信仰、制度的教義の
イデオロギー化という問題に対して、
唯一の神の存在を信ずるキリスト教は、
どのようにこの問題を自省する事が出来るのか..
例えば、そうした唯一神の存在の自明性を否定する
仏教的伝統や、あるいは、他の多神教的伝統とどのように
折り合うことが出来るのか。こうした問題に対し
野呂先生はどのように、
アプローチされているか、勉強してみたいです。

ここでの問題は、桶川さんが、「文明と宗教」研究会の一番目のテーマ案として出された「多神教と一神教」の問題に
関わってきそうですね。
もちろん、一神教はイデオロギー化しやすく、
多神教は平和的な宗教といった
単純な二分法的理解は断固避けるべきだと思います
また、キリスト教神学の内部でも神の観念に関して多様な
解釈があるかと思います。例えば、白頭庵さんがお詳しい
プロセス神学は、神と世界とのダイナミックな相互性
や、他宗教との対話の可能性について、
より詳しく論じていたのでは、と思います。

大切なのは
それぞれの宗教が、それぞれの信仰の独自性、差異性を
尊重しながらも、一方で、現代社会において人類が
抱える諸問題を解決するために、互いの知恵を生かしあって
行くことなのだと私は信じています。ただ、
「どういう風に知恵を生かしあっていくか」は、また
大きな難しいテーマで、議論のあるテーマっでしょうが..
(それ自体で一つ論文書けそうなテーマですね)

少し野呂神学に関する議論から
ずれてしまったかもしれず、また、まとまりのない議論で
恐縮です。
信仰の制度化に伴う宗教のイデオロギー化の問題、
また、この問題に関連するかもしれない、一神教としての
キリスト教の特性、更に一神教と多神教の創造的共存の
可能性..こうした問題に対し、お二人はどのように
アプローチされるでしょうか。

投稿: SH | 2006-04-14 17:16

 桶川です。

 議論を提示しておきながら、長らくコメントもせず失礼しました。SH氏の問いに対する回答を保留している間に、『実存論的神学』の卓抜な読み手である白頭庵氏から見事な回答がよせられました。ようやく先日、忙しさを脱したので、主にSH氏の(1)と(2)の問いに関してコメントを書いて投稿しようとした矢先、白頭庵氏とSH氏によって主に(2)、(3)の問題に関するコメントが追加されていることに気づきました。活発な議論を感謝すると共に、まずは追加されたばかりのお二人のコメントに対してコメントを付けることにします。先に作成したコメントは、ややこの議論の流れからそれて、(1)の問題を蒸し返すような形になりますが、最後に(3)の問題にも触れることになるので、別のコメントとして後から追加したいと思います。

 先ほどのコメントにおいて、白頭庵氏は、宗教の自己絶対化を宗教的経験の「制度化」、「共同化」のプロセスで生じる必然的な過程と論じられ、SH氏はこれに同意しつつ、しかしとりわけ唯一神信仰はこうした自己絶対化への自己批判が困難なのではないかと(言外にではあるが)問うておられるように思われます。お二人のご意見に触発されて思い浮かんだことをコメントしておきたいと思います。

 まず白頭庵氏は、SH氏の(2)の問いに対して答える形で、宗教のイデオロギー化のプロセスを論じておられます。私は氏の説明の中に、「実存的なもの――制度的なもの」、「個人的なもの――共同的なもの」という二つのベクトルがあるように感じました。白頭庵氏は、一方で宗教のイデオロギー化が、信仰の核となる経験の客体化(制度化)から生じると述べられつつ、他方でそれが互いの経験の共同化によって強化されることを指摘しておられます。おそらくその両者は、分離できないものとして捉えられるべきなのでしょう。

 白頭庵氏は、「信仰の核にある」経験が告白されるとき、イデオロギー化の第一歩が始まると主張されていると見てよいと思います。告白とは、一方では自己の経験を外化しつつ自己自身で把握することです。ここに経験の客体化が生じ、それが「再帰的」にそのような経験をした自己自身の理解としてフィードバックされる。そして、このような自己理解は、たとえば啓示的な経験をした自己を他者に物語るといった形でさらにより確固たるものとなるわけです。語ることによってあの啓示的な経験は具体的な有意味性を与えられ、そのことがその経験をもとにした自己の新しいアイデンティティーの形成を可能にしていきます。しかし、「語る」ことは常に「騙る」ことを含んでいます。「信仰の核にある」経験をもとに、一つのアイデンティティーが形成されることは、形成されたアイデンティティーにとってその経験が絶対的で不可欠のものになっていくことです。このようにして、物語られて客体化された経験は、自己のアイデンティティー保持のためのイデオロギーとしての役割を果たすことになります。

 白頭庵氏が言われるように、「告白」は宗教の原初的な経験ですが、その経験においてすでにイデオロギー化の芽はあるわけです。そのように、宗教的信仰がイデオロギー化への傾向を必然的にともなっているのだととすれば、これを批判的に乗り越えるためには、この原初的経験→客体化/共同化→制度化というプロセスを、常に逆にたどる回路を開放しておくことが必要なのではないでしょうか。客体化/共同化それ自体は、経験されたものを理解し、共有するためには必要なプロセスであり、それ自体が批判されるべきものではありません。ただ、客体化され共同化されたものが、それ独自で閉鎖系を作り、それが本来の生き生きした経験を疎外するところに問題が生じるわけです。だとすれば、客体化/共同化されたものを通して、常に最初の経験に立ち戻ることができるような解釈学的循環を絶やさないことが重要なのではないでしょうか。

 ところで、宗教の命が制度的なものの背後の「核にある経験」にあり、それが告白されるところに客体化/共同化への第一歩があるのだとすれば、核となる経験がどのようなものであろうとも、さらに進んでイデオロギー化へと進み行く危険に関しては、それが「一神教」的な神であるか「多神教」的な神であるかということは関係ないのではないでしょうか。もっとも、「実存的に真摯な信仰ほど、制度化される過程で、原理的で排他的な攻撃性をもってくる」という白頭庵氏の見解は正しいように思います。そして、そのように真摯な信仰が排他的になってしまうことへの批判的な姿勢が、「一神教」において保持しにくいのではないかというSH氏の疑問に関しては、必ずしもそうではなく、「一神教」の徹底した形――つまり「徹底的唯一神論」――は、信仰者の自己相対化を強力に要請するものであるがゆえに、自己の立場のデオロギー化に対して、たとえば偶像崇拝の禁止という形で厳しく批判的な目を向けていくように思われます。

 しかし、この問題に関しては、SH氏も言われるように、「一神教と多神教」というカテゴリーを準備中ですので、そちらの方で改めて問題提起しなおしていきたいと思っています。このようなカテゴリー名をつけてはいますが、私は「一神教」対「多神教」という二者択一的な問いの立て方には疑問をいだいていて、議論はそうしたところから始める必要があろうかと考えています。

投稿: 桶川利夫 | 2006-04-15 12:24

 続けて桶川です。

 SH氏が挙げてくださった問いの中で、私は特に(1)を重視しています。というのは、(1)の問題を抜きにして(2)や(3)を論じても、空虚な議論にしかならないと思うからです。

 したがって、(1)に対して向けられた白頭庵氏の最初の回答はきわめて重要なものです。氏は、野呂神学が「実存論的」神学であるという点に焦点をおきながらSH氏の問いに答え、そのことで初期の頃から変わらない野呂神学の基本的な姿勢をくっきりと浮かび上がらせてくれました。白頭庵氏はいろいろと素晴らしい言い回しで野呂神学を表現されていますが、それらの言葉を借りて述べれば、野呂神学が「実存論的」神学であるということは、「咲きほこる諸宗教の花々を俯瞰する傍観者の視点には立たない」ということを意味しています。そうした態度から、野呂先生は、宗教間の対話の問題に対して、「『そこにひとつの花があること』をではなく、『ここでひとつの花であること』を通じて、花々を見る、という視座」に立たれるわけです。

 私は一方でSH氏が言われる公共の空間の必要性を感じると共に、各宗教、各信仰者のレベルでの実存論的な対話空間というものが必要であると感じます。野呂先生の民衆宗教との対話はそのようなものでしょう。そして、前者は後者を十分に尊重する必要があると思うのです。

 少し話を蒸し返すことになりますが、(1)の問題について白頭庵氏が語られたことを、キリスト教神学にあまりなじみのない方に実存論的神学について紹介する形で、私なりに繰り返してみたいと思います。「実存論的神学」の水源は、20世紀前半に活躍したドイツの新約聖書学者ルドルフ・ブルトマンにあります。すでにブルトマン以前に聖書の史的研究は高度な達成を遂げていましたが、中でもブルトマンが属した「宗教史学派」は原始キリスト教をオリエント世界の文化的・宗教的な環境の中に置き、周辺諸地域の非キリスト教的な世界との深い関連の中ででそれを把握しようとする点で、当時としては最もラディカルにキリスト教を相対化する立場にあったと言えます。

 こうした立場から、キリスト教の絶対性の問題に生涯取り組み続けた人物として、エルンスト・トレルチがいますが、トレルチは、単に聖書の史的研究がキリスト教の教義の根幹をゆるがすということ以前に、史的研究という方法自体が特定の歴史を絶対化することを赦さないものであるという点を明確に示した点で、特筆に値する人物です。自身は、あくまでもこの史的研究の方法論を採用しながら、ヘーゲル的な意味でのあらゆる文化を綜合するような絶対性をキリスト教のうちに求めることは断念し、それぞれの文化圏におけるそれぞれの宗教の相対的な妥当性を追求していく方向をたどりました。ブルトマンが新約聖書学者として出発したのは、このような学問的環境においてでした。つまり、ある意味ではキリスト教の歴史の中で最も自己相対化が進んだ時期であり場所であるとも言える当時のドイツで、実存論的神学は誕生したわけです。

 したがって、実存論的神学は、史的研究のレベルにおける態度において、キリスト教が全く相対的な現象にすぎないことを積極的に認める立場を取ります。野呂先生ご自身が、ご自分の歴史へのアプローチは宗教史学派のものであると言っておられますが、最近の先生のお話をお聞きしていると、そのことが中途半端な言明でないことがわかります。『ナグ・ハマディ文書』や『死海文書』をはじめ、聖書に採用されなかったキリスト教周辺文書、いわゆる偽典や外典に対する先生の情熱は、聖書に正式に採用された文書に対するものと同じか、それ以上であり、聖書の思想が聖書外と考えられているギリシャ、バビロニア、エジプト、場合によってはインドなど周辺地域から入ってきた様々な思想を取り入れることで成り立っている可能性に対して完全に開かれていて、そこに防波堤のようなものが全くありません。これについては、こちらの方が不安になってくるほどです。しかし、史的研究を採用するということは本当はそういうことであって、トレルチが言うようにひとたび採用すれば、それはパン種のように勝手に広がっていくのです。研究者が自らの思いこみや価値観を持ち込んで、史的研究にどこかで限度を設けることは出来ません。密かに「聖なる島」を設けることはできないのです。

 もしSH氏が言われるように、キリスト教の啓示体験がイデオロギー化される危険があるとすれば、ブルトマンの弟子のエーベリンクも言っているように、徹底した史的研究こそそうしたイデオロギー化に対する批判の最も有力な武器になるのではないでしょうか。他の宗教や価値観を一切認めないアメリカのファンダメンタリストの立場は、史的研究の拒否という態度によってはじめて成立するものです。史的研究をとことん採用する野呂神学がこのレベルで批判されることはあり得ないことです。実際、キリスト教の「帝国主義的側面」について、野呂先生はそのような言葉は使われないとしても、徹底して批判されています。たとえば、福音書の中では「ルカ」を先生は嫌い抜いておられますが、それは「ルカ」がローマ帝国中心のクロノロジカルな歴史観の中にイエスの生涯を位置づけることで、ローマに対してキリスト教を弁護し、そのことによって無意識のうちにその帝国主義的価値観を受け継いでしまっているからです。そして、後に成立するローマ・カトリック教会は、初期キリスト教の多様な可能性の中から、そうした路線を受け継いでしまっていると先生はお考えのようです。その際に、カトリックから異端として排除されていった信仰の中には、多くの貴重な洞察が含まれているというのが最近の先生の主要関心事です。

 さて、実存論的神学の特徴は、以上のような史的・批判的研究を採用することにあるのではなく、そのような方法を徹底して採用しながら、いかにしてキリスト教信仰がなおも可能であるかを示した点にあります。もちろん、すでに実存論的神学以前にも、啓蒙主義以降の神学者達の最大の関心は、常にその点にありました。しかし、その際重要なのは、キリスト教信仰の本質をいかに保つことができるかということです。19世紀のいわゆる「自由主義神学」は、キリスト教を様々な観点から解釈し直すことで、近代的な知に抵触しないような信仰の在り方を模索しましたが、残念なことにそのようにして提示された近代人のためのキリスト教には、キリスト教にとって大切な何かが欠けているように思えました。

 では、その大切なものとは何か、これを表現しようとすれば、その時すでにきわめて難しい神学的問題に深入りしていくことになると思います。たとえば、近代神学批判の急先鋒であったカール・バルトは、それを神の「絶対他者」性であると言いました。つまり、近代神学が宗教的感情や道徳や絶対精神などとして論じている神は、すべて人間ないしは人間の活動のうちに取り込まれた神であって、そこでは神がそうした人間に対して絶対的に他者であるという点が見失われているというわけです。

 私はこのバルトの指摘はやはりきわめて重要であったと思います。自由主義神学は、一方ですべてを相対化していく史的・批判的な方法論を用いながら、信仰の問題をそのような次元から区別された価値の次元の問題として捉えましたが、結果としてはキリスト教=ヨーロッパ文明を普遍的な価値の担い手として絶対化することになったのではないでしょうか。それは、人間にとって絶対他者である神を、人間の所有する道徳、宗教的、文化的価値と同一視することで、結局は自らが属するヨーロッパ的なものを絶対化することになりました。第一次大戦の経験がヨーロッパ文明の没落を実感させた時代に、近代神学に対する「否」を叫んだバルトの主張が、熱狂をもって迎えられたことは当然と言えるでしょう。

 もちろん、バルトの主張も困難さをかかえています。近代神学を批判することを越えて、新たな神学を構築する段階になると、バルトはこの絶対他者なる神を「信仰の類比」という論理によって積極的に語るようになりますが、その膨大な『教会教義学』の語り口の中には、「絶対他者」である神を神学者バルトが私有化してしまっていると言われても仕方がないような言明が少なからず含まれているように思われます。野呂神学がバルト神学、ことに『教会教義学』のバルトに対して厳しい批判を投げかけるのは、そうした懸念からでしょう。

 しかし、野呂先生が「これまでのキリスト教が与えてくれていた私たちと対面する一人格」という言葉で表そうとされているリアリティーとは、バルトが近代神学に対して語ろうとしていた絶対他者としての神であると言ってよいでしょう。それは人間がどのように自己のうちに取り込もうとしても取り込むことの出来ない、人間から無限に隔たった神です。そして、キリスト教が「有り難い信仰」であるというのは、そのような「絶対他者」である神が、恵みとして人間に関わってくださるという信仰ではないでしょうか。これは理をこえた事柄であるから、合理主義によってはとらえられない。それを理によってとらえようとするところに、たとえばヘーゲルのような弁証法が現れる。そして先生によれば、日比野さんの依拠される「神の死の神学」も、そのような弁証法によって神の受肉を把握しようとするところに誤りがあるわけです。(ただし、次に掲載を準備中の日比野さんによる再批判の論文によれば、日比野さんの立場がヘーゲル的合理主義であるというのは誤解です)。

 ここで重要な点は、「理」を越えるということが、野呂神学ではどのようにとらえられているかということです。これを非合理性や神秘主義的な事情としてとらえるのではなく、人格的な出来事、つまり「愛」の出来事としてとらえるところに野呂神学のもっとも素晴らしい特質があるのではないかと私は思っています。「理」によってとらえられないこととは、「理」を覆すような不可思議(異象 Mirakel)なのではなく、「理」とは次元の異なった我と汝の関係における驚くべき出来事(奇跡Wunder)という意味です。ちょうど営利のみを目的とする経済において真の贈与というものが「有り得ない」ことであるように、合理的な思考にとって神が人間を愛するという出来事は「有り難い」ものなのです。

 さて、SH氏が指摘された第一の問題、「有り難い」信仰の強調が、他宗教との対立を招くのではないかという問いは、以上のような背景を踏まえた上で考えなければならないと思います。神が人間に人格的に関わってくださるという「有り難い」事態は、決して一般化できないという性質を持っているのではないでしょうか。なぜなら、贈与が一般化すると(たとえば今日のバレンタインデーのように)本質的に贈与という性格を失うのと同じで、神からの人格的な関わりを一般化してしまえばそれは少しも有り難いものではなくなるからです。「われわれの存在を支える最も根源的な事実が、あり得ない事態によって成り立っている」という私の表現が、野呂先生に受け容れられないかも知れないと考えたのは、こうした表現が唯一回の出来を一般化してしまう危険がないとはいえないからです。たとえば「絶対矛盾的自己同一」や「統合の原理」といった哲学概念への先生の拒絶も、同じような意味において考える必要があるのではないでしょうか。

 もしそのように「有り難い信仰」が一般化できない出来事であるとすれば、その強調が他宗教との対立を招く危険は確かにあるでしょう。なぜなら、そのような出来事は唯一回的な出来事という意味において絶対的であり、他のものによって取り替えることができないからです。互いの共通点を探したり、対立点を包括するより大きな概念に包摂することによって、この唯一介的な性格は失われてしまうでしょう。しかし、そのことは他宗教との対話が閉ざされていることを意味しません。野呂先生にとっては対話そのものも唯一回的な出来事として、信仰者が自らの実存をかけて行っていくことであると考えておられるのではないでしょうか。それは白頭庵氏がいうように、諸宗教を俯瞰する立場からの多元主義の原理とは異なってはいますが、決して他宗教を排除するものではないはずです。

 今日書いたことのうちには、私個人の信仰者としての立場が強く出ているかも知れません。SH氏の第三の問いである公共的空間の構築が必要なことは当然です。しかし、そのような空間が、個々の信仰者の立場を抑圧する空間であっては意味がありません。「宗教間の対立を解消するために諸宗教はもっと話し合うべきだ」という形での宗教間対話の要請は、しばしば各宗教がもつ唯一回的で取り替え不可能な信仰を軽視しがちではないでしょうか。

 野呂先生は八木誠一先生を批判されており、私もその批判に同意しているわけですが、八木先生が実践されている仏教との対話について共感できる部分もあります。かつて八木先生とタクシーに乗り合わせたとき、「先生は禅仏教ばかりを対話の相手になさっていますが、民衆仏教はどうなのでしょう」とお聞きしたことがありました。先生は「わたしは民衆仏教を知らないから」とおっしゃいました。私はこれが対話における正しい態度だろうと思うのです。自分が実存的に知らないものとは対話できません。自らが実存をかけて信じている信仰者が、やはり実存をかけて他の宗教と対話をする。そのときにはその他の宗教へ改宗するかも知れないような真剣さでその宗教を学ぶ姿勢がなければ、対話にはならないのではないでしょうか。この意味においては、自らの実存をかけて民衆宗教と対話されている野呂先生の態度と、同じように禅仏教と対話されている八木先生の態度とは共通しているように思います。

 公共の空間の構築ということになると、こうしたいわば実存的・求道的な場からどうしてもある程度距離を取る必要が出てくるでしょう。そのときに、いかにしてそうした公共空間での議論が、各宗教者の実存的・求道的な営みを尊重することが出来るかが鍵となる気がします。たとえばその中には「ファンダメンタリスト」とレッテルを貼られるような人々も属します。対話の必要性そのものに否定的な「ファンダメンタリスト」を、公共的な対話の中でどこまで尊重し、どこまで対話の場に引き入れることができるのか?ここまで書いてきて、この問題はさらに多くの課題とつながっていると感じます。このあたりで筆を置き、みなさんのコメントをお待ちすることにします。

投稿: 桶川利夫 | 2006-04-15 13:50

白頭庵です。

桶川さんの素晴らしいコメントで、これまでの議論の神学的な意味が明らかになってきました。桶川さんの二つ目のコメントの最後には、SHさんの提示した「公共的な討議の場の構築」への問いも出されました。
僕は、桶川さんのこの最後の問いかけに、かなりラディカルな立場から賛同します。

公共的な討議は、宗教間の対立に対して、無力ではないか、そして危険ですらあるのではないかと思うのです。公共的な討議が、人間の有限な理性によるものである限り、そこでの議論と対話は、信仰の実存的な決断という不合理で矛盾に満ちたことがらをいかにしても語れないのではないでしょうか。「理」では、「事」は汲み尽せないのです。
合理的理性にとって理解可能な仕方でこの矛盾を語る「論理」を構築する努力を、近代から現代にかけて無数の卓越した神学者や哲学者がし続けてきました。
ヘーゲルの弁証法論理や、西田の絶対矛盾的自己同一、そしてホワイトヘッドの理念的対立物のコントラストにおける調和など、さまざまな論理が試みられました。しかしそれらは、信仰を告白する言語とは違って、理性によっては透察しがたい宗教的リアリティの恐ろしい深みを(あるいは有り難い何かを)前にして、まさにその深みそのものを論理によって計測可能な深度までしか表現しないのです。
そこには、論理によっては汲み尽せない深みが、ある余剰が残されています。そしてその深みこそ、決断を促す信仰の最も大切な部分なのです。
パスカルは、理性を超えたものが無限にあることを知るのが、理性の最後の歩みだと言っていました。
公共の討議は、この最後の歩みまですら、到達しがたい。討議が制度化された枠組みのなかで安定して進むあいだは、この安定した制度の限界を露呈するような最後の歩みは抑えられ、回避されることになるでしょう。討議を理性的な議論によって導こうとする意志が働くあいだは、理性を超えたものが無限にあって、私はひとりの人としてその「あれかこれか」を決断して飛び込むのだという告白は、理性にとって理解可能なひとつの記号、ひとつの論理となってしまうでしょう。公共的討議の場は、告白言語の再帰性とは別の、論理的言語の再帰性が支配する場となる、つまり、言葉だけが重ねられていく場になるのではないかと思います。
そこでは、信仰の切実さとリアリティは、理性的討議にとって他なるものとして隠蔽され、排除されることになるのではないか。

人間の実存の矛盾と悲哀が、ただ人間の理性に主導されるだけで和解へと至ることがないように、人間の歴史の矛盾や悲劇も、理性的討議によって和解と平安へと導くことはできないのではないでしょうか。
理性的討議はまったく無意味だといっているのではありません。ただ、その努力は、決定的な限界があって、その目指す理想を実現しえないだろうと思うのです。そして、理性的な討議に参加する僕らは、自分たちの理性の無力さを討議の中で自覚し続けるほどには成熟していないのではないかと思うのです。有限の人間の理性によって主導された公共的討議の空間は、それに参与する者たちが、そこでの理性的討議によって何らか根源的な解決に資することができると錯覚した途端に、実存の矛盾と切実さを忘却した自己満足の議論に終始してしまうのではないかと恐れるのです。そのような討議の場は、そのとき、無力であるだけでなく、危険ですらあります。

多様性を尊重するという言葉の危険性、他者の独自性を認めるという言葉の危険性を自覚することが必要です。
桶川さんが、八木先生との会話に言及しながら、宗教間の対話は、自分がその宗教に改宗する覚悟で、相手の実存の核心まで飛び込まなければ、実りあるものとはならないとおっしゃっていました。多様性を尊重する、他者の独自性を認める、というのは、そういうことなんだと思います。自己の実存の核心が無にされ破壊されていく中で、僕らは人と出会うのです。他者の独自性を尊重するとは、他者との出会いによって自己が傷つけられ破壊され、そして、もしかしたらその中で変容していくことです。
真摯な対話には、新たな自己への変容を保証するものはなく、ただ、確実に古い自己の破壊があります。そして、理性はそれには決して耐えられないのです。パスカルやカントが言ったように、理性はおのれの限界を画してこそ理性なのであって、限界を超えたものとの出会いによって破壊された理性は、何ものでもないのです。
理性的な公共の討議は、この危険を通過して相互の変容と和解に至ることを保証する何ものももちません。かといって、そこで語られる論理がこの危険性を回避し続けるあいだは、そこには実存の生々しいリアリティはなく、そこでの同意は多様な実存の真の和解とはならないでしょう。

実存的な対話とは、理性的存在者として向き合うのではなく、何ものでもないものとして向き合い、切りつけ合って、破壊し合うことではないでしょうか。
そして、その破壊を通じて、新たな自己への変容・新生がありうるという保証を僕らがまったくもたないにもかかわらず、僕らはその恐るべき交わりのなかで確実に、何かより深く広い次元へと変容しうるという確信を僕らに与えるもの、理性を無限に超えたものの配慮があるというのが、宗教的な信仰です。徹底的に相手を、そして自分を破壊するものでありながら、それでも、大丈夫だから来なさい、と、全幅の安心をもって呼びかけるものがこの対話の背後にある、という確信が、交わりの場における信仰なんだと思います。

相手を破壊してしまうのではないかと恐れながら、そして自分も破壊されてしまうのではないかと恐れながら、それでも僕らが人と出会って、対話のうちに歩み入ることができるとすれば、それは、交わりにおいてこのように破壊しつつ呼びかけるものが必ず働くという確信があるからだということ。この言葉を言うべきか止めるべきかの瀬戸際で、それでもそれを言うとき、僕らはその言葉の破壊とそれがもたらす変容を受け止めてくれる、対話相手の背後にいる何かに向けて、その対話の成就を願っているのだということ。それが実存論的神学(僕の理解する)の立場です。

理性によって導かれた公共的討議の場ではなく、信仰的なあるいは伝道的な確信によって導かれた対話の場に、破壊とともに新生の営みがあるのではないでしょうか。
一神教が、歴史の危機を引き起こしつつも、多神教に見受けられる歴史の停滞や諦観した現世放棄を脱して創造と変容を語りえたのには、何か深い意味があるのではないかと思います。野呂先生もこの点について、述べておられます。

かなり言葉が乱れていますね。桶川さんのコメントを受けてSHさんの問いに答えようと書き始めたのに、思いがけない方向に話が行ってしまいました。済みません。
このコメントは、野呂神学の解釈でも何でもなく、野呂神学に出会って強烈な刺激を受けた僕自身の言葉です。SHさんの問いへのひとつの答えというか、反問と受け止めていただければと思います。

投稿: 白頭庵 | 2006-04-18 18:49

こんにちは、SHです。

私の野呂神学に対する三つの問いに対し、
桶川さんと白頭庵さんは、主に実存論的神学、
及び哲学の立場から、ご返答頂いたと思います。
お二人から頂いた丁寧なコメントにより、私の
野呂神学に対する理解の不十分だった点を自省する事が出来、
また、野呂先生の神学が持つ豊かな可能性について、
再認識させられました。どうも有難うございました。
非常に多くの重要な反論、コメントを頂いたと思うので、
どのコメントから言及したらいいか、迷いますが、
ある程度、議論の要点を絞って、
再度私なりの問いを出していけたらと思います。

まず、私が最初に書いた①の問いに対して、
桶川さんは、カール・バルトの
「神の絶対他者性」の議論を通じて、野呂先生が
論じておられた信仰の「有難さ」の意味を
再解釈されていた、と思います。
唯一回の出来事としての信仰の「有難さ」は、
近代的な人間の合理的価値観、理性に還元できない
独自性を持っているという点がポイントだったでしょうか。
確かにキリスト教だけではなく、
他の宗教も、人間の理性を超えた、絶対的、究極的な神性
のあり方をそれぞれの歴史において追求してきたと思います
この点に関しては、野呂先生の「有難い信仰」
という表現を、キリスト教的な価値の絶対性という意味
ではなく、宗教体験の表現する事の出来ない深み、を
表現ものとして解釈すべきではないかと自省させられました。

また、②の問いに対しては
徹底した「信仰者の自己相対化」
徹底的な史的研究によって、信仰のイデオロギー化
を回避する可能性を提示されたと思います。
この問題に関しては、私の議論は
少し「一神教と多神教」、「キリスト教と他宗教」という
枠組みにこだわり過ぎだったかもしれません。
宗教言語のイデオロギー化を、徹底した信仰の
自己相対化によって防ぎ得る可能性は、確かに、どの
宗教にも存在して、ただ、その方策に違いがあるだけか、と
思います。

そして、最後の③の宗教間対話、公共空間の確立の
可能性に関しては、お二人から、非常に根本的な、
または、ラディカルな問いを頂いたと思います。
白頭庵さんは、「公共的な討議は、宗教間の対立に関して
無力あるいは危険ではないか」とおっしゃっています。
その理由として
各宗教の告白言語の再帰性は、公共的動議の論理的再帰性に
還元されない、「切実さ、リアリティ」を持っているという
事を挙げておられました。また、桶川さんは、
公共空間における議論が、「各宗教の実存的・求道的営み」
を尊重する必要性を強調しておられました。
お二人のコメントに共通する問いとして、
各宗教の唯一無比で代替不可能な信仰、また
人間存在の実存的な「矛盾と悲哀」を、公共空間の討議は
果たして尊重する事ができるのか、という問題提起を頂いた、かと思います。
この点に関しても、私のこれまでのコメントにおいては、
各宗教の実存的営みと、公共空間での理性的な討議の位相の差に対する認識・配慮が不足していたか、と思います。
各宗教がそれぞれ「再帰的に」築き上げてきた実存的営みは、
理性的な討議の空間では扱えない、豊穣さを持っている..
この点を認識しないと、「公共空間の確立」という、題目
そのものが、まず、イデオロギー化、絶対化して、
各宗教の実存的多様性を
抑圧してしまう可能性がある..そうした危険性を
お二人の議論を通じて、自省させられました。

以下では、これらの議論と認識を元に、再度私なりの問題提起が出来たら、と思っています。
(回答に少し時間がかかるかもしれませんが、申し訳ありませ ん)(続く)

投稿: SH | 2006-04-20 16:32

桶川です。

白頭庵さん、SHさんありがとうございました。宗教間対話の問題については、実存論的な対話のレベルと、より政治学的・社会学的な公共空間のレベルとを一応は分けた上で、両者が互いを尊重し合うということが大切だと思います。

SHさんの問いのおかげで、ずいぶんと議論を深めることが出来たように思います。SHさんの課題は、むしろ野呂神学の文脈を離れて独自に展開される方がよいのではないでしょうか。SHさんの「続き」は、SHさんの新たなブログでの記事として読みたいと思うのですが、いかがでしょうか。

私もそろそろ「野呂―日比野論争(2)」を書きたいと思って
いますし、また講義関連のテーマも書きたいと思っています。

投稿: 桶川利夫 | 2006-04-24 00:12

白頭庵です。

SHさんの応答を読みながら、この討論をSHさんが実に真摯に受け止めておられるのを知り、また、それにもかかわらず私がある重要な点を述べていないことを知りました。
SHさんの立場を否定するのではなく、むしろ、これまでの議論を補いながら、実存論的神学は公共的な討議の空間を構築するという試みを否定するものではなく、むしろ積極的にその意義を評価しつつも、ある大事な(と思われる)一点でその限界を自覚するものである、という主旨のコメントをしたいと思います。

これから述べたいことは、実存論的神学の中心的な論点だと私が理解している二つのことがらです。

第一に、野呂先生の提唱する実存論的神学は、おそらく、SHさんのおっしゃった「公共的な討議のために開かれた空間」が今日切実に求められていることについては同意し、それどころか実存論的神学はそもそもそのような対話のための試みである、ということを確認しておきたいと思います。
実存論的神学は、その当初から、「現代人にとってキリスト教の宣教が異国の言葉のように響く」(『実存論的神学』第一章「現代状況と福音の理解」)という現代の状況の中で、現代人の実存とキリスト教の言葉使いとの間の溝を問い直しながら、「キリスト教がどうしたら現代状況との対話の中に入っていけるか」(同書第二章「話し合いの問題と神学的認識」)を問うています。
このような同時代の状況との断絶の中で、キリスト者にとって教会外の人といかに対話に入ることができるのかという問いは、キリスト者自身の実存的な問題として「個々にどのような仕方で神の言葉との対話の関係に入ることができるのか」(同所)という問いから切り離すことができません。
このような問題から、実存論的神学は出発しているのです。
現代において、キリスト者の課題は、同時代と対話するために神の言葉を捨てるか、神の言葉を守って対話を捨てるかの二者択一ではなく、むしろ、同時代との対話の中で、いかにして神の言葉を受けたひとりの人間として自らの信仰を語るか(そして相手の言葉を聞くか)ということだ、ということです。これが、実存論的神学の出立点だと私は思います。

こうした問題から出発した実存論的神学は、現代状況に適応しようとして福音から時代に合わない箇所を削除するという方途を拒絶して、むしろ現代状況の中で福音を語ることこそキリスト者の使命だとしています。
実存論的神学の立場からみれば、「現代状況はキリスト教からケーリュグマを引き出す産婆の役割を果たしている」(同所)と野呂先生は述べておられます。ケーリュグマというのは、宣教内容、つまりその時代に向けて述べ伝えられた福音であり、その時代の言葉で福音を、自らの信仰を、語るということです。そこでは、自らの信仰が時代状況の中で問われ、また、時代状況が自らの信仰の中で問われるという反復があり、そして、その反復において、自らの信仰という実存的なあり方も時代状況という歴史的なあり方も超えたものとの関わりが問われるのです。

公共的討議あるいは対話へと参加するために、われわれはいかにあるべきか、ということが、実存論的神学の最初の問いなのです。

第二点は、今最後に述べた、実存も歴史も超えたものとの関わりについてです。この点について、われわれはどこまでも実存的で歴史的であり、そのような有限の存在として、そもそも実存も歴史も超えたものについてなど、関わることも語ることも有りえない、という反論があるでしょう。
それは有り得ないのです。
そして、そこに、のちの「有難い信仰」という言葉にまで通底する実存論的神学の核心があります。

合理的な、あるいは理性的な議論においては、それは有り得ないとしか言えません。しかし、実存論的には、ここにこそ、信仰の核心があります。手前味噌ですが、ホワイトヘッドを引用すると、彼は「有りえないものが、それでも有る――この信じ難い事実を理解する仕方が、神という概念である」と述べています(『過程と実在』の最後から二つ目の節の終わりです)。これは、そっくりそのまま、実存論的神学の言葉となります。合理的には、それは、有りえないとしか言えない。しかし、われわれはその有限な自己を超えて、この「それでも有る」という事実において生きているのであり、これこそ実存だというのが、実存論的神学の立場なのだと思います。

この信仰の核心部分に至って、合理的な言説も、理性によって導かれた討論も、潰えてしまいます。前回のコメントで、かなりラディカルな表現を用いながら私が言おうとしたのは、この点です。

われわれの実存において、またわれわれの歴史において、現在直面している問題は、表面的にはともかくその根本においては、合理的な手段で解決できるものではない、という有限性の自覚が、実存論的神学の一方の極にあります。再帰性の議論もまた、われわれの善意志に基づく言動が、われわれ自身の思いもよらない結果を次々に生んでいくという歴史の状況を見事に捉えています。しかし、これだけではニヒリズムに陥ってしまうでしょう。実存論的神学では、もう一方の極に、「それでも有る」という核心的な信仰があるのです。

この点について、少々長いですが、野呂先生の言葉を引用します。

「人間と人間とが、身近かな関係においては相互に愛し合い、遠い関係においては正義を実現しようとする夢――もしこの夢を目標という言葉で表現するならば、それはなくてはならないであろう。しかし、その夢はその実現を未来の歴史のある時期の中にもつもの、それを目標とするものではなく、その実現は歴史を越えたところにあり、従って、その夢は現在可能な限りここで実現されなければならないものとなる。」(『実存論的神学と倫理』202頁)

われわれは、自らの歴史において、また自らの実存において直面する問題に対して、表面的・一時的にはともかく根本的には、自ら解決することができない、という自覚が、ここにあります。しかし、すべての問題が解決されるという「夢」は、捨てられるべきものではないのです。むしろ、その夢の「実現は歴史を越えたところにあり」、しかもその実現は「今、ここ」においてなされなければならない、と実存論的神学は言うのです。「この夢こそ、歴史と永遠との現在における接触の火花なのである」(同書203頁)と野呂先生は述べています。

「永遠の今」というアウグスティヌス以来のキリスト教神学の精髄となる言葉を、実存論的神学はこのように理解するのです。そこには、「歴史の悲劇は結局のところ、その完全な解決を永遠の次元においてしか持っていないのである」(同書201頁)という根本的な理解があります。理性的な討論による解決を目ざす立場に対して、実存論的神学は、この点で、決定的な否を唱える、といっていいでしょう。

また長いコメントになりましたが、要約すると、第一に、実存論的神学は、キリスト者が現代状況の中で対話へと歩み出ていくために、キリスト教にとって現代状況との対話がどのような意味をもつのかを明らかにしようとして提示された神学だということ、その点では、決して公共の討議の空間を構築する試みを排除するものではなく、むしろこの試みに対して積極的な意義を認めているということ。
第二に、実存論的神学は、この試みと、それが抱いている人類の「夢」に対して、心底から同意し共感するが、しかし、この「夢」は人間の力でこの歴史の中でいつの日か実現されるとは信じていないこと、むしろ、それが実現されるのは将来のいつかではなく、まさにわれわれが悲劇に直面している「今、ここ」でなければならないという叫びが、実存論的神学にはあるということ、そして、この叫びに応答する力をわれわれ人間はもたないが、しかし歴史を越えた永遠の次元で応答するものがあるという「有りえない」存在への「有難い」信仰が、実存論的神学の核心であるということ。

以上、繰り返しになりますが、SHさんの問いに対して、実存論的神学はその立場を否定はせず、むしろその「有限の理性を警戒しつつ」公共の討論の場を開いていこうとする意図に賛同しつつ、有限性を徹底的に自覚したところから対話の道を指し示そうとする試みではないかということを述べて、駄文を締めくくりたいと思います。

また桶川さんの補足ないしは訂正が必要な、偏狭な議論になってしまいました。反省。

投稿: 白頭庵 | 2006-04-24 01:55

白頭庵です。

上のコメントを書いてUPしてから、桶川さんがすでにコメントをつけておられたことを知りました。

桶川さんが、新しく日比野さんの書かれた論考を受けて、「野呂―日比野論争(2)」の記事をお書きになり、またSHさんがご自身の議論をブログで展開されるのを待ちながら、私もこの頃取り組もうと思っているプロセス哲学関係の議論を休眠状態に近い自分のブログで記事にしてみようと思います。

ありがとうございました。次が楽しみです。

投稿: 白頭庵 | 2006-04-24 02:30

こんにちは、SHです。
了解しました!私のブログの方で、
ここで交わされた議論を発展させる形で、
記事を書いてみたいと思います。
こちらこそ、桶川さん、白頭庵さんから
頂いたコメントから、野呂神学をはじめ、
多くのことを学ばせて頂きました。
日本に帰国したら、野呂先生の本を
取り寄せて、じっくり勉強したいと思います。
お二人が強調しておられましたが、
各宗教の実存的な信仰の営みと、
社会的な公共的討議の空間が、相互に自律性を保ちながらも
互いに影響を与え合う可能性が存在する..
こうした問題をまた深めていけたらと、思います。
どうもありがとうございました。

投稿: SH | 2006-04-25 11:36

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