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2006-04-15

日比野さんによる再批判

 日比野さんから「再批判」の論文がとどいた。タイトルは「『ナンバー・ワン』と『オンリー・ワン』」だ。大いに思考を刺激される論文である。野呂芳男HPに掲載したので、是非またこのブログでも議論していきたいと思う。野呂先生も反論を書かれることになっているので、ますます楽しみである。

 それにしても、日比野さんは、このブログの存在をすでにご存知だった。林さんも知っておられた。もう少し内容ができてからお知らせするつもりだったのだが……。ブログは検索にひっかかりやすいのだろう。

 日比野さんは「ユートピア数歩手前からの便り」という魅力的なブログをお持ちである。ちなみに、現在の最新の記事は「無頼漢登場」だが、久しぶりに快活な気分を味わっておられる日比野さんの気分が「無頼漢」というユーモラスな言葉に現れていて、思わず微笑んでしまった。今後そちらの議論ともつながるような議論もしていければと思っている。逆にわれわれの議論に対する日比野さんご自身からのコメントも期待している。

 林さんもこの議論に関してはイイタイコトが山ほどありそうである。1ヶ月ほどしたら書き込んでいただけるとか。まあ、そういわないで、ちょくちょく顔だけでも出していただきたいものである。

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コメント

白頭庵です。

日比野英次さんの書かれた新しい文章を「野呂芳男ホームページ」で拝読しました。野呂先生と日比野さんのあいだには、このような言葉を交わし合うよろこびと、そこで相手を問いつつ自らを問う真剣勝負の緊張があふれていて、お二人の言葉に触れる者を惹きつけ、巻き込みますね。
このブログでの議論は、お二人のあいだの議論をきっかけにして、SHさんの問いかけに応じていくかたちで討論が並行しています。それぞれが信念をもちながら、自らを問い、相手を問いながら議論しあっていると思います。

議論の中心は、実存論的神学としての野呂神学とは何かということだと僕は思っています。
このブログでは、宗教のイデオロギー化されていく制度的なあり方と信仰の実存的なあり方とを対比しつつ議論してきました。一つの花であることの切実さと、それが制度化されていくプロセスが問題になりました。
日比野さんが、キルケゴールの宗教Aと宗教Bという言葉で語られたこと、そして槙原敬之の「世界に一つだけの花」を引きながら一つの花であることの唯一性と排他性を改めて問われていることは、ここでの議論にも直接関わってくることです。

宗教間の、そして、宗教内の、はたまた宗教内と外との対話において、切実なのは、あなたが信仰を語る言葉を理解できない、ということばかりではなくて、あなたの信仰を私が生きられない、ということなのでしょう。
このことについて、日比野さんの言葉は、本当に切実に響きます。以前に銀座の喫茶店で桶川さんと交わした会話の中にも、僕は同じ響きを感じました。
理解できないというよりも、それを生きることが自分にはとうていできそうにない、という感歎と憧憬のこもった問いとして、野呂神学とは何かが問われているのだと思います。

投稿: | 2006-04-18 19:00

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