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2006-05-27

主の祈り

 再来週から2週間、教育実習を受けることになっており、先日、実習校での打ち合わせに出かけた。時間ぎりぎりになって会場に駆け込むと、そこは「会社説明会」の雰囲気。黒いスーツに身をかためた若い男女が20人ほど、ビシッとして座っておられる。私だけが茶色のスーツ。しかも先週講義に着ていったやつだから、何となくよれよれ。それでも100円ショップのネクタイをしめていって本当によかった。

 私が実習するのは「高校の宗教」で、指導教諭は大学院時代の後輩なので、多少は気が楽なのだが、なにせ公立高校出身なので高校で聖書を勉強する雰囲気というものがなかなか想像できない。大学の授業とは様々な点で違うと思うが、どう違うかやってみないとわからない。

 スケジュールを見ると、なぜか試験期間や体育祭と重なっており、授業はあまりやらなくてよさそうだ。授業2種類とチャペル講話を一つ考えておくように言われた。そのうちの一つのテーマは「主の祈り」と決められた。うーん、難しい。へたにやると、単なるお説教になってしまいそうだ。みなさん、何かよいアドバイスがあれば教えてください。

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2006-05-20

ようこそトロウ氏

 「文明と宗教」研究会に、トロウ氏がご参加くださいました。氏の専門はキリスト教神学。キリスト教会ユーカリスティアの牧師でもあります。

Cafe Eucharistia http://blog.goo.ne.jp/mamedeifque

このブログは教会のWebカフェということですが、ここを使って今後は、研究会用のネタも書いていただけるのではないかと期待しています。

 トロウ氏は、いま研究会で話題の中心になっている野呂先生の最後の弟子にして一番弟子とも言うべき方です。野呂先生には青山時代、立教時代を含めて数多くの弟子と呼べる方々がおられますが、どなたも野呂先生の思想を忠実に受け継ぐといったタイプではなく、それぞれ独自の思想を切り開いて活躍されています。言い方を変えれば反逆者ばかりといったところです。林さんは個性の強さという点ではそれらの先輩達にひけをとらないものをもちつつも、彼らとは正反対に野呂神学に過激にほれこむという形でそれを表現されてきました。その点で、「野呂学派」(そんなものはないが)の中で希有な存在と言えましょう。

 野呂先生が立教で教えられた最後の年、私は大学院(組織神学専攻)の1年でした。先生は退官後、大学からはきれいさっぱり縁を切られましたから、私こそが先生に組織神学を習った「最後の弟子」と自負しておりました。その時、トロウ氏は学部生。しかし、学部生は当然「弟子」の範疇には入らない、と私は理解していました。……ところが、彼女はすでにその時大学院のゼミにもぐりこんでいたのです! そういえばいました。ゼミ室の奥の席に、物静かに座る一人のギャル(時代は80年代の終り)が。そして、野呂先生を主査にして学部生とは思えない卒論を書き、野呂先生が卒業されたドゥルー神学校へと留学されたのです。

 そういうわけで、私は、「最後の弟子」の称号を、あの時ゼミ室で見かけた静かな鋭い眼差しの女の子に奪われることになったわけです。しかし、その後の彼女の歩みを見るならば、「最後の弟子」だけではなく「一番弟子」の称号もかっさらっていったと言わざるを得ません。まさに野呂神学に実存をかけてのめりこみ、野呂神学に基づいた教会を設立されたのですから。弟子一同、誰も文句はいえません。まあ、野呂先生は子分をつくらない、学派を形成しない学者の典型のような方なので、こんな話は意味のないことではありますが。

 「文明と宗教」研究会は、別に野呂神学研究のサイトではないのですが、最初に出た話題が野呂―日比野論争だったこともあって、これまでは野呂先生に関する議論が多くなっています。(そのうち違うことも書きます)。トロウ氏は野呂神学をめぐる勝手なやりとりを、どう見ておられるのでしょう。いろいろ言いたいことがあるのではないでしょうか。今後は、是非議論に加わっていただき、熱く語っていただきたいと思います。 ( ちなみに、どういうわけか氏のブログでは野呂先生は「Dr.大福」、氏は「豆大福」となっており、かなり笑えます)。

 なお、いよいろ野呂先生による日比野さんへの再々批判が出ました! 「人生の諸段階(キルケゴール)について」というタイトルで、野呂芳男ホームページに掲載されています。お二人の論争の一番根底にある問題が論じられています。宗教性Aと宗教性Bをどう見るのか。先生がそこで示されている見解は、バルトやブルトマンに影響されて私などが漠然と考えていた理解とはやや異なったもので、とりわけ後期の野呂神学を考える上では大変興味深いもののように思います。それについてはまた改めてとりあげることにします。

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2006-05-15

「苦しむ神」と「有限な神」

 先日から「文明と宗教」研究会に加わってくださった佐藤氏が、「苦しむ神」というエントリーを書かれた。ちょうど白頭庵氏のブログでも同様の議論をしていたところである。そこで今日は、野呂神学の文脈でそれに関連する話題を少し。

 20世紀の神学で「苦しむ神」の主張が人気を集める理由を考えてみると、佐藤さんがおっしゃる通り、一つは、二つの大戦に見られるようなあまりに不条理な苦しみを前にして、苦しみの原因は人間の罪にあるという説明はもはや弁神論的に成り立たなくなったということがある。もう一つは、神の死の神学に見られるような背後世界批判、ブーバーやボンヘッファーのような「この世界こそが神の運命の場所である」といった態度があろう。両者は同じことの両面でもある。こうした態度を共有しながらも、「苦しむ神」の思想に疑問を投げかけているのが野呂芳男である。

 野呂氏は、「不条理に満ちた現実に生きている我々にとっては、神だけは痛んだり苦しんだりして欲しくない」(『神と希望』日本基督教団出版局、273頁)と述べている。同じように「20世紀以降特に際だつ歴史的世界の残酷と不条理を前に」しながら、森本氏やユンゲルと外見上は逆の主張をしているわけである。もっとも、神が苦しむと言っても、その痛みが神の本質に関わるがどうかが問題なのであって、野呂氏の主張は、痛みが神の本質であってはならないということだ。

 この主張は、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」への野呂氏の批判と関係がある。苦しむ神の重要性に気づいた欧米の神学によって北森神学が引き合いに出されるが、にもかかわらず、北森神学にもっとも近いモルトマンでさえ、(佐藤氏も書かれているように)痛みを神の本質のうちに持ち込まないという点で北森神学とは異なっていると野呂氏は見ている。

 ところで、この野呂氏の主張は、「有限の神」という主張とも微妙に関わっている。一見、苦しむ神を批判することは、神の全能という主張からなされるように見える。神が苦しむのなら神の全能に制限が加えられるのは容易に想像できるからである。しかしながら、野呂氏の場合は逆に神は有限であるという立場なのある。氏は、北森嘉蔵がある時期に「有限の神」という思想に接近したと書いているが、野呂氏はそれを非難しているのではなく、北森氏がさらにその考えを展開させなかったことを残念だと言っているのだ(『神と希望』238頁)。

 この「有限の神」という主張も、不条理の時代である20世紀における弁神論の問題からまさに出てきている。神が全能であるなら、この世の悪もまた神の一部であるということになってしまう。野呂神学は神の全能を捨てても、神が悪を含むという立場を拒否するのだ。神は愛を本質とする。だからこそ希望となりうるというのである。この主張は、究極的につきつめていけば、二元論の枠組みを受け入れるということを意味し、グノーシス主義やカタリ派の主張を取り入れることになる。

 このように、それこそ「異端すれすれの線上」どころか「現代の異端」とも言うべき野呂神学(先生、ごめんなさい!)が、痛みを神の本質のうちに持ち込むことをこれほど拒否するのは何故か、ということはよく考えてみる必要がある。それはもちろん、キリスト教の主流から外れる事への恐れではない。ここではとりあえず、『神と希望』(269-273頁)にあげられている要点をまとめておこう。

①信仰者の生きる意味は、祝福に満ちた神との一体化であって、痛みや苦しみを味わうことではない。痛みを神の本質に帰することは、痛みや苦しみをそれ自体で良いものである、ということにしてしまう。

②苦しめる者への愛は、その苦しみへの想像力を必要とするとしても、必ずしも同じ苦しみを体験することを必要とするものではない。

③苦しめる者にとって、神が同じ苦しみを体験してくれることよりも、この苦しみを滅ぼしてくれることの方が重要である。

④神が満ちあふれる喜びであるからこそ、われわれは自己の悲惨と罪から救われて、神との祝福の交わりに入りたいという意欲を与えられる。神の本質が苦しみであるなら、われわれは一体救われることを望んでよいかわからなくなる。

⑤以上のことは、神が人間を苦しみから救うために進んで苦しみを負ってくださることを否定するものではないし、われわれがそのような神の在り方にならって、他者と苦しみをともにすることをさまたげるものではない。

 佐藤氏と同様、私にとってもこの説が異端であるか否かはどうでもいいことで、むしろ、この主張がどんな実存論的な帰結をもたらすかということが重要である。したがって、佐藤氏の宗教哲学の中でこの問題がどのように扱われるのかが楽しみだ。

 それから、『神と希望』を読み返していて、この問題に関してエドウィン・ルイス、ベルジャエフ、そしてホワイトヘッドに言及されていることに気づいた(227頁以降)。なかなか複雑で微妙な問題なので、もう少し勉強が必要のようだ。

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2006-05-13

ようこそSHさん

 すでにコメントの形でブログ研究会に参加下さっていたSH氏が、いよいよブログをスタートされました。

Contemplation in the Runaway World
「文明と宗教」研究会における研究発表とアメリカ留学生活の紹介

SH氏は、アンソニー・ギデンズ、宗教倫理、宗教社会学といったテーマを中心に研究されており、オフラインのころからの研究会の中心メンバーでしたが、現在は米国のクレアモント大学院に留学中です。

研究テーマに関することもさることながら、留学先の様子などもリアルタイムでお知らせいただけるようなので、こちらは気楽に疑似留学を楽しめるのではないかと期待しています。

それにしても、期末試験やレポートが終わったところとのこと。うらやましいですね。

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2006-05-09

ようこそ佐藤さん

 以前からメールなどでやりとりのあった佐藤啓介さんに研究会への参加をよびかけたところ、参加いただけることになりました。専門はフランスやイタリアの宗教哲学で、私とはリクールつながりの知り合いです。ブログを読めばわかるように、専門分野ばかりではなく、考古学やモノ研究などでも注目され活躍中の若手研究者です。また佐藤さんは、Pensier_logという一日千件もアクセスがある人気ブログを持っておられます。その内容は広範囲にわたるものですが、研究会へはそのブログを通して、参加していただけると思います。すでに、そのブログに下のような記事を書いて下さいました。

http://blogs.dion.ne.jp/pensiero/archives/3362650.html

 今後、まわりの方々に研究会への参加をお誘いしようと思っていますが、佐藤さんも含め誰もが密度の濃い参加の仕方を出来るわけではありません。「研究会」とか「メンバー」というと何か拘束力のありそうなイメージですが、実際にはきわめて自由度の高いつながりと考えています。好きな時に記事を書き、好きなときにコメントをつける。ただ、ネット上の不特定多数の関係よりは少しだけ濃い関係といったところでしょうか。

 ところで、佐藤さんからはコメント以外にもトラックバックによる応答が有効であることをお聞きしました。われわれの議論ではこれまでほとんどこの機能を用いてきませんでしたが、確かにトラックバックを使えば、他者の議論に対する応答を、自分の記事(エントリー)の文脈の中で扱うことが出来ます。ちょっとやってみてもいいかも知れません。

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2006-05-05

Presentation とDiscourse

 今年は授業でPower Point を使っている。実は昨年度、何人かの先生の大学の授業を聴く機会があり、視覚的なプレゼンテーションの効果を実感したからだ。聴く側に立ってみると、延々とおしゃべりが続くのはやはりかなりしんどい。とくに教養課程などのように、受講者が必ずしも授業テーマに主体的に興味があるわけではない場合はそうである。視覚的なものがあるのとないのとでは確かにかなり違うと感じた。思想系の授業にこうしたものを使うのにはいろいろと問題点はあるだろうが、一度試してみるのも良いだろう。

 ただ、作ってみての実感は、大変疲れるということだ。昨年試みにHTMLで作ってみたのだが、それと比べると確かに数倍楽ではあるが、それでも授業内容を凝縮して、わかりやすい単純な文にまとめ、飽きさせないように図や写真を入れるといった作業をやっていると、あっという間に時間が過ぎていく。授業内容というよりも、プレゼンの方に手間がかかるというのは、良いことなのか悪いことなのか。私はもともと漫画家になりたかったぐらいだから、人の反応を考えながらするこうした作業は嫌いではないが、哲学の教師にとって有意義な作業であるとは思えない。

 プレゼンを作るときに働いている思考は、文章を作っている場合のそれとは異なった性質のもののようである。だから、時間をかけて作っても、作っている本人に残るものがあまりない。よいプレゼン資料ができ、それで実際によいパフォーマンスができたとしても、そのことによって新たな課題が見つかったり、思考がさらに深められると言うことがどうも少ない気がする。授業が終わったとき残るのは、かなりの疲労と、人々を飽きさせずに終えられたという多少の満足であって、どうみても哲学的な満足感ではない。

 もともとチャート式とか図式化というのは嫌いではなかった。しかし、参考書類に色つきのきれいな図でまとめてくれているものは、全く頭に入らなかったし、見る気もしなかった。他人が作ったチャートは、それを読み解く方が難しいのではないだろうか。むしろ文章で語られているのを読む方が断然頭に入った。チャートは、教官の授業を聴きながら、自分で作ってはじめて意味のあるものと思っていた。ところが今の大半の学生にとっては、はじめからチャート式の方がわかりやすいようなのである。おそらく思考形式がそうれに馴れているのだろう。ただ、学生がチャート式で分ったとしても、その分かったことが使い物になるかどうかは別問題だろう。たとえば、それを自分の言葉の中で語ることが出来るだろうか、あるいは、それに触発されて、新たな思考を発展させていくことができるだろうか。

 スーザン・ランガーが人間の表現のありかたを「論弁的」(discoursive)な形式と「現示的」(presentational)形式とに分けたことは、思考形式にも言えるに違いない。論弁形式は人類の思考の可能性を大きく開いたと言える。哲学もまたそうした可能性の一つであったから、言葉を語ることがなければ哲学的思考は間違いなく成り立たないだろう。ただし、言葉によって失われるものもあるだろう。現示形式によって開かれる次元を忘れてはならない。有意義に考えるには、どちらも必要であり、両者をうまく関わらせながら進めていくことが出来れば、よい授業ができるのかも知れない。Power pointも適度に使うのがよいのだろう。

 ただそのためには、黒板とスクリーンが二者択一でしか使えない今のタイプの教室は文字通り「使えない」。スクリーンを使いつつも、黒板にメモ程度のことを書きながらdiscourse を語っていくというスタイルを、この教室では取ることができなからだ。

 話がややそれた。そろそろ来週のプレゼンを用意しなけくてはなどと考えていると、思考の二つの形式の関係といった問題がちょっと頭に浮かんだのである。

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