« ようこそSHさん | トップページ | ようこそトロウ氏 »

2006-05-15

「苦しむ神」と「有限な神」

 先日から「文明と宗教」研究会に加わってくださった佐藤氏が、「苦しむ神」というエントリーを書かれた。ちょうど白頭庵氏のブログでも同様の議論をしていたところである。そこで今日は、野呂神学の文脈でそれに関連する話題を少し。

 20世紀の神学で「苦しむ神」の主張が人気を集める理由を考えてみると、佐藤さんがおっしゃる通り、一つは、二つの大戦に見られるようなあまりに不条理な苦しみを前にして、苦しみの原因は人間の罪にあるという説明はもはや弁神論的に成り立たなくなったということがある。もう一つは、神の死の神学に見られるような背後世界批判、ブーバーやボンヘッファーのような「この世界こそが神の運命の場所である」といった態度があろう。両者は同じことの両面でもある。こうした態度を共有しながらも、「苦しむ神」の思想に疑問を投げかけているのが野呂芳男である。

 野呂氏は、「不条理に満ちた現実に生きている我々にとっては、神だけは痛んだり苦しんだりして欲しくない」(『神と希望』日本基督教団出版局、273頁)と述べている。同じように「20世紀以降特に際だつ歴史的世界の残酷と不条理を前に」しながら、森本氏やユンゲルと外見上は逆の主張をしているわけである。もっとも、神が苦しむと言っても、その痛みが神の本質に関わるがどうかが問題なのであって、野呂氏の主張は、痛みが神の本質であってはならないということだ。

 この主張は、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」への野呂氏の批判と関係がある。苦しむ神の重要性に気づいた欧米の神学によって北森神学が引き合いに出されるが、にもかかわらず、北森神学にもっとも近いモルトマンでさえ、(佐藤氏も書かれているように)痛みを神の本質のうちに持ち込まないという点で北森神学とは異なっていると野呂氏は見ている。

 ところで、この野呂氏の主張は、「有限の神」という主張とも微妙に関わっている。一見、苦しむ神を批判することは、神の全能という主張からなされるように見える。神が苦しむのなら神の全能に制限が加えられるのは容易に想像できるからである。しかしながら、野呂氏の場合は逆に神は有限であるという立場なのある。氏は、北森嘉蔵がある時期に「有限の神」という思想に接近したと書いているが、野呂氏はそれを非難しているのではなく、北森氏がさらにその考えを展開させなかったことを残念だと言っているのだ(『神と希望』238頁)。

 この「有限の神」という主張も、不条理の時代である20世紀における弁神論の問題からまさに出てきている。神が全能であるなら、この世の悪もまた神の一部であるということになってしまう。野呂神学は神の全能を捨てても、神が悪を含むという立場を拒否するのだ。神は愛を本質とする。だからこそ希望となりうるというのである。この主張は、究極的につきつめていけば、二元論の枠組みを受け入れるということを意味し、グノーシス主義やカタリ派の主張を取り入れることになる。

 このように、それこそ「異端すれすれの線上」どころか「現代の異端」とも言うべき野呂神学(先生、ごめんなさい!)が、痛みを神の本質のうちに持ち込むことをこれほど拒否するのは何故か、ということはよく考えてみる必要がある。それはもちろん、キリスト教の主流から外れる事への恐れではない。ここではとりあえず、『神と希望』(269-273頁)にあげられている要点をまとめておこう。

①信仰者の生きる意味は、祝福に満ちた神との一体化であって、痛みや苦しみを味わうことではない。痛みを神の本質に帰することは、痛みや苦しみをそれ自体で良いものである、ということにしてしまう。

②苦しめる者への愛は、その苦しみへの想像力を必要とするとしても、必ずしも同じ苦しみを体験することを必要とするものではない。

③苦しめる者にとって、神が同じ苦しみを体験してくれることよりも、この苦しみを滅ぼしてくれることの方が重要である。

④神が満ちあふれる喜びであるからこそ、われわれは自己の悲惨と罪から救われて、神との祝福の交わりに入りたいという意欲を与えられる。神の本質が苦しみであるなら、われわれは一体救われることを望んでよいかわからなくなる。

⑤以上のことは、神が人間を苦しみから救うために進んで苦しみを負ってくださることを否定するものではないし、われわれがそのような神の在り方にならって、他者と苦しみをともにすることをさまたげるものではない。

 佐藤氏と同様、私にとってもこの説が異端であるか否かはどうでもいいことで、むしろ、この主張がどんな実存論的な帰結をもたらすかということが重要である。したがって、佐藤氏の宗教哲学の中でこの問題がどのように扱われるのかが楽しみだ。

 それから、『神と希望』を読み返していて、この問題に関してエドウィン・ルイス、ベルジャエフ、そしてホワイトヘッドに言及されていることに気づいた(227頁以降)。なかなか複雑で微妙な問題なので、もう少し勉強が必要のようだ。

|

« ようこそSHさん | トップページ | ようこそトロウ氏 »

コメント

> 苦しめる者への愛は、その苦しみへの想像力を必要とするとしても、必ずしも同じ苦しみを体験することを必要とするものではない。

しばしばこの問題は「共苦論(Mitleiden)」の立場の人には、「神の受苦可能性」の主張にとって欠くべからざる前提だったわけですが、よく考えれば、ウィトゲンシュタイン流にこの問題を解決してしまうのもアリなのかもしれませんね。

曰く、私の痛さとあなたの痛さが同じ痛さであることは、決して分からない。仮に二人が同じ経験をしたとしても、それは「同じ経験をしたと観察できた」だけであり、同じ痛さであることは検証できないし、二人が同じ経験で「痛い」と叫んだとしても、それは二人が同じ「言語」を用いただけであり、その指示する内容まで同一である保証はない。その意味において、「同じ苦しみを経験する」という前提自体が、ある意味で検証不能な想定にすぎない。つまり、「『同じ苦しみを経験している』と想像している」だけで、十分、苦しみへの愛は発生しうる、というか、神に限らず、経験的な私たちも、みんなそうなのである…という解法。

確かに「神は苦しみを知ってはいるが、ただし、それが本質ではない」という立場であれば、苦しみへの想像力は神に付与できるでしょうから、問題はないかと思いました。

ちなみに、現代フランスのミシェル・アンリ(-2002)という現象学者の場合、「神=生」であり、「生の本質には受苦が属している」と考えられています。神が生であり、生が生として生々しく生きるためには、そこに「何かを被る能力(souffrir)」は外せないだろう、という次第。「苦しむ」というと直ちに「悪いものに苦しむ」というニュアンスを帯びてしまいますが、「何かを被ること」として中性化した場合、この能力は神の本質としてそうそう容易には外せないのかもしれませんね。以上、思いつきですが。

投稿: pensie_log | 2006-05-17 01:50

「苦しむ神」と「主なる神」、あるいは「苦しむ神」と「有限なる神」をめぐる佐藤さんと桶川さんの議論を非常な興味をもって傾聴しています。私の考えは自分のところで記事にしてトラバを飛ばしたので、こちらでは、桶川さんのわかりやすい野呂神学解説に、コメントしたいと思います。

①から⑤までの要点を挙げて、「苦しむ神」の神学的主張に対して異を唱える野呂神学の論点をまとめた桶川さんは、ここからどのような実存論的帰結が出てくるか、と問われています。具体的には、「苦しむ神」の神学は、われわれ自身の苦しみ、あるいは世界の困窮の中で出てきたわけですが、それがわれわれの苦しみの中で救いの神たりうるか、ということが問われているといっていいでしょうか。

無論、野呂神学は、神は救済の神でなければならないという論点先取の議論から「苦しむ神」を否定しているのではないでしょう。注意して読まないと、野呂神学は希望の神を最初に立てて、そこにわれわれの実存的状況を照らし合わせて議論しているように読めてしまう危険性があると感じています。これは微妙な問題ですが、野呂神学の立場は、神を最初に定義して、そこから議論するのではなく、むしろ、実存的状況の中から切実な思いで見上げる神の姿を語ろうとする神学ではないかと思っています。苦しみ悲しみの中でわれわれが呼びかける神は、苦しんでおられる神なのかが問われているのです。

佐藤さんがおっしゃるように、「苦しむ神」というのは、明らかに20世紀的状況の中で登場した議論です。われわれの苦悩と困窮に対して、神がともにあるとすれば、20世紀神学の有力な一潮流は、その神はわれわれとともに「苦しまれる神」だと主張した、と要約できるでしょう。

野呂神学はこの主張の出どころとなった状況を共有しつつ、その帰結となる「苦しむ神」という神学的立場には反対されています。その反対理由は、この神学的立場が教義学的にあやまっているとか異端だからというのではありません。実存論的神学の立場からは、あるいはラディカルにひとりの信仰者として、神には苦しんでほしくない、苦しまれる神はわれわれを救う神ではない、という主張(あるいは希求)が出されます。

桶川さんの要約した論点のうち、特に④は、野呂神学の真骨頂を示すものでしょう。われわれの苦しみを知り、感じつつも、神はあくまで喜びの神なのだという主張です。理知的な主張ではなく、たいへん素朴な主張だといえるのではないでしょうか。そのような喜びの神であってはじめて、われわれは苦しみの中で救済を求めることができる、苦しみの中でもあゆむことができる。実存的な苦しみの中で喜びを希求する実践がある。

苦しまれる神は、野呂神学にとって、われわれがどこまでも苦しみの中にとどまることを求めるような神、信仰者の内的ななぐさめはあっても、苦しみの中から歩み出るような希望も促しも希薄な神だと批判されているのではないか。野呂神学の神は、われわれのあゆみを止め、ある実存的状況の中に留まることを促す神ではなく、われわれがある実存的状況の中にあって、それでもあゆみ続けることを促す神ではないか・・・

桶川さんの記事を読みつつ、そんな思いをもちました。
われわれのあゆみを促す神というのは、プロセス神学の主張です。牽強付会な解釈かもしれませんが、野呂神学の主張からどのような実存論的な帰結が導かれるかという桶川さんの問いに対して、白頭庵の思うところを記しました。議論を待ちます。

投稿: 白頭庵 | 2006-05-18 09:20

桶川です。

>確かに「神は苦しみを知ってはいるが、ただし、それが本質ではない」という立場であれば、苦しみへの想像力は神に付与できるでしょうから、問題はないかと思いました。

 「共苦論」が「共に苦しむ」という人間の通常の経験を土台にした比喩だとすると、この経験の意味するところを考えてみることは有益かも知れません。「他人の痛み」を知ることは、「検証」という見地に立てば、ウィトゲンシュタインが言うように正確には成り立たないわけですね。しかし、ディルタイなどの解釈学では「共感」とか「追体験」と呼ばれる現象が想定されます。では、「痛みを共にする」とふつう言われている事態は何を意味しているのか。

①他者の痛みを想像する。自分の痛みから類推する。しかし、これはたとえば医者が患者の容態を冷静に判断するためにも必要なことであって、これだけで「痛みを共にしている」とは言えない。

②「わかるよ(お察しします)」といった言葉をかけ、当人もわかってくれたという感じをもち「ありがとう」などと答える。この場合は、相手の痛みを正確に想像出来ているかどうかよりも、言葉を投げかけることで痛む他者をケアすること(言語行為)が重要である。

③他者の痛みを共に痛もうと意志する。他者の痛みを生み出している状況の中に自らも巻き込まれる。たとえばシモーヌ・ヴェイユのように、他人の痛みを想像するだけでは満足できなくて、同じような痛みを自ら作り出す。これだと、本人は「痛みを共にしている」つもりかも知れないが、痛んでいる他者にそれが伝わっていなければ自己満足に終わる。また、相手にそれが伝わったとしても、ちょうど溺れている人を助けようとして一緒に溺れてしまうようなもので、実際には助けはならない。

④痛む他者と、実際に同じ状況の中におかれているため、実際に自らも痛んでいる場合。たとえば、同じ航空機事故で家族を失った遺族同志。この場合、痛みの経験そのものは個人の事情に応じて異なるものの、同じ運命に巻き込まれているという点では痛みを共にしていると言える。ただし、唯巻き込まれているだけでは助けにならない点は③と同じ。

 自分が痛んでいる場合を考えてみると、誰かが痛みを共にしてくれていると思えるのは、やはり④ではないでしょうか。運命をともにする人がいること、それが痛む人にとって「痛みを共有する」他者がいるということであるように思われます。その場合に、その人が自分の痛みと正確に同じ経験をしているかどうかは重要ではなかも知れません。そして、さらに願わしいことは、その人が自分とは違って、痛みを被りつつもそれを克服するだけの強さをもっていることでしょう。

 ここから、神が人間と共に苦しむと言う場合を類推することが出来るのではないでしょうか。痛み、苦しみを「悪」とするなら、神もまた人間とともにこの悪を被る運命のうちにある。(有限な神)しかし、そのような悪のうちに屈服させられているのではなく、この悪に立ち向かって勝利をおさめる者としておられ、われわれにとってそれが希望となる。そのような神が「われらとともにいます」(インマヌエル)という神である……と。今、野呂先生の主張への私の理解をまとめるとそのようなります。

>「苦しむ」というと直ちに「悪いものに苦しむ」というニュアンスを帯びてしまいますが、「何かを被ること」として中性化した場合、この能力は神の本質としてそうそう容易には外せないのかもしれませんね。

受難=受動性という言い方も出来ますね。影響を受ける、あるいは感じる(ホワイトヘッド)……。それは「我―汝」という関わりには欠かせないものではないでしょうか。神の苦しみはこの関わりの中でのみ言われるべきであって、そこから離れて神が本質として苦しむ存在だという主張を野呂先生は批判されているように思います。

 それにしても、「神が苦しむか否か」などという議論は、一般の人が聞いたらずいぶんと浮世離れした話に見えるでしょうね。実際、古代キリスト教会でさかんに議論されたキリスト論や三位一体論といったものは、議論を表面的に追っているだけでは睡眠導入材でしかない。「どうでもいいですよ」というだいたひかる(知ってます?)の声が聞こえてくるようです。

 しかし、Pensie_log氏や白頭庵氏の議論を読み、『神と希望』を読み返しているうちに、それらの議論が自分の実存に触れてくる接点というものが徐々に出来てきた気がします。私は『神と希望』を最初から(できれば『実存論的神学の』の後半部から)ちゃんと読み直そうと思っていますが、さっき電車の中でちらちら読んでみると、まさに白頭庵氏がいわれるように「神」には「希望」であってもらいたいという切なる希求こそが、先生の主張の実存論的な根拠であることがかなりはっきり書かれています。「(本質として)苦しむ神」の否定と、「有限の神」の肯定は、この場所から考えていくときにのみ正しく理解されるように思います。

投稿: 桶川利夫 | 2006-05-20 01:04

トロウです。
神議論が、野呂神学においてはエドウィン・ルイスの三元論やカタリ派などの二元論から導かれるものである点を指摘された桶川氏や、苦しみの現実の只中にある私たちに「あゆみ続けることを促す神」である点を指摘された白頭庵氏の主張を、大変興味深く読ませていただいた。私からも次の2点を補足したいと思う。

(1)佐藤氏が挙げるミシェル・アンリ(私はこの方について全く無知なので、その「神=生」の考え方をアンリ・ベルグソンの「エラン・ヴィタール」と同様なものとして捉えることが可能な場合)や、北森嘉蔵系の神学(と、ここでは纏めておく)などと、野呂神学の決定的な違いは現実世界の理解の仕方にあると私は考えている。世界(あるいは歴史)は、野呂神学では二(多)元論的に説明されるのに対して、誤解を恐れず簡単に言ってしまえば、「痛む神」を肯定する派の世界観は一元論的である。世界を一元論的に捉えようとする姿勢からは「神は全能でなければならない」という観念から逃れられない者―信仰者にしろ、そうでない者にしろ―の心理が垣間見える。桶川氏の解説には「野呂神学は神の全能を捨てても、神が悪を含むという立場を拒否する」とあるが―後半部分、「神が悪の現実を許容することはない」と表現する方がより正確な言い方だとは思うが―神の全能を捨てるというよりは、神の全能は「愛における」全能として捉えられるべきだとされている点を補足したい。

なぜこれほどまでに、野呂先生は「痛む神」を拒むのか。15日の桶川氏の①から⑤に展開される見事な解説や、白頭庵氏の「喜びの神の希求」論に加え、私見を少し。神議論自体は古くからある神学問題だが、現代において野呂先生が敢えて「痛まない神」を訴える事情には、18世紀以降の人格神否定の思想―ニーチェの神殺しなど、分野を越えた「生の哲学」の範疇にある思想や、ヘーゲルの弁証法に見られるようなロマンティシズムに影響を受けた存在論の流れなど―超克の試みがあるからだと思う。通常18世紀以降のこれらの思想は、人間性を解放する思想だと考えられているが、野呂先生によればそれは逆なのである。「痛む神」は、18世紀以降の人格神否定の思想が闘った、人間性を抑圧する神と、まさに通じるのだ。

(2)本当ならば2点目として、野呂神学における「次元的相違」の思考について触れなければならないのだが、長くなるし、疲れたのでまたの機会にする。

桶川氏が重要とおっしゃるこの問題の「実存論的帰結」について、思うところを近いうちにトラバで繋ぐつもりである。

投稿: トロウ | 2006-05-22 18:52

 桶川です。野呂神学を最もよく知るトロウ氏からのコメント感謝です。

>神の全能を捨てるというよりは、神の全能は「愛における」全能として捉えられるべき

なるほど……。他にも「全能」ではなく「全善」といった言い方もあったように思います。ここが非常に微妙なところです。

 この問題はトロウ氏がおっしゃるように、二元論をどう捉えるか、というところに行き着くように思います。グノーシス主義、ボゴミール派、カタリ派、それにヴェイユに現れている二元論は、いずれもこの世界の悪を神が許容することを拒否するところから生まれていると考えることが出来ます。

 問題は、そのような二元論を、旧約聖書の創造論との関係でどうとらえるのかということでしょう。たとえば野呂先生のところで学んでいる「ヨハネ福音書」は、先生のお考えではズバリ、「グノーシス文献」ということになりますが、先日先生もおっしゃったようにヨハネの著者は自分の説く神が旧約の神と同じである言っており(8章46節)、その点で旧約の神を悪神ととらえる最盛期のグノーシスからは一線を画しています。先生もヨハネと同じようなスタンスをとらえるのでしょう。

 このあたりの問題は、またいずれここでも取りあげてみなさんのご意見をお聞きしたいと思っています。

>「神=生」の考え方をアンリ・ベルグソンの「エラン・ヴィタール」と同様なものとして捉えることが可能な場合)や、北森嘉蔵系の神学(と、ここでは纏めておく)などと、野呂神学の決定的な違いは現実世界の理解の仕方にある

ということは、Pensie_log氏の言われるような神=生=受苦という理解は、野呂先生にはないということでしょうか。

投稿: 桶川利夫 | 2006-05-22 23:05

 桶川です。野呂神学を最もよく知るトロウ氏からのコメント感謝です。

>神の全能を捨てるというよりは、神の全能は「愛における」全能として捉えられるべき

なるほど……。他にも「全能」ではなく「全善」といった言い方もあったように思います。ここが非常に微妙なところです。

 この問題はトロウ氏がおっしゃるように、二元論をどう捉えるか、というところに行き着くように思います。グノーシス主義、ボゴミール派、カタリ派、それにヴェイユに現れている二元論は、いずれもこの世界の悪を神が許容することを拒否するところから生まれていると考えることが出来ます。

 問題は、そのような二元論を、旧約聖書の創造論との関係でどうとらえるのかということでしょう。たとえば野呂先生のところで学んでいる「ヨハネ福音書」は、先生のお考えではズバリ、「グノーシス文献」ということになりますが、先日先生もおっしゃったようにヨハネの著者は自分の説く神が旧約の神と同じである言っており(8章46節)、その点で旧約の神を悪神ととらえる最盛期のグノーシスからは一線を画しています。先生もヨハネと同じようなスタンスをとらえるのでしょう。

 このあたりの問題は、またいずれここでも取りあげてみなさんのご意見をお聞きしたいと思っています。

>「神=生」の考え方をアンリ・ベルグソンの「エラン・ヴィタール」と同様なものとして捉えることが可能な場合)や、北森嘉蔵系の神学(と、ここでは纏めておく)などと、野呂神学の決定的な違いは現実世界の理解の仕方にある

ということは、Pensie_log氏の言われるような神=生=受苦という理解は、野呂先生にはないということでしょうか。

投稿: 桶川利夫 | 2006-05-22 23:06

野呂先生の場合「神≠生=受苦≦(神話的表現としての)悪」とするのが近いかと。もっとも「神≠生」のところはかなり注意が必要です。中・後期カール・バルトのような啓示神学ではなく、質的断絶を前提としながらも我汝の実存的関係を保ち続けるという形での「神≠生」ですから。しかしながら、記号で表現してしまうとスッキリするようでいて、な~んか違う気もする…。

投稿: トロウ | 2006-05-23 12:52

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ようこそSHさん | トップページ | ようこそトロウ氏 »