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2006-05-05

Presentation とDiscourse

 今年は授業でPower Point を使っている。実は昨年度、何人かの先生の大学の授業を聴く機会があり、視覚的なプレゼンテーションの効果を実感したからだ。聴く側に立ってみると、延々とおしゃべりが続くのはやはりかなりしんどい。とくに教養課程などのように、受講者が必ずしも授業テーマに主体的に興味があるわけではない場合はそうである。視覚的なものがあるのとないのとでは確かにかなり違うと感じた。思想系の授業にこうしたものを使うのにはいろいろと問題点はあるだろうが、一度試してみるのも良いだろう。

 ただ、作ってみての実感は、大変疲れるということだ。昨年試みにHTMLで作ってみたのだが、それと比べると確かに数倍楽ではあるが、それでも授業内容を凝縮して、わかりやすい単純な文にまとめ、飽きさせないように図や写真を入れるといった作業をやっていると、あっという間に時間が過ぎていく。授業内容というよりも、プレゼンの方に手間がかかるというのは、良いことなのか悪いことなのか。私はもともと漫画家になりたかったぐらいだから、人の反応を考えながらするこうした作業は嫌いではないが、哲学の教師にとって有意義な作業であるとは思えない。

 プレゼンを作るときに働いている思考は、文章を作っている場合のそれとは異なった性質のもののようである。だから、時間をかけて作っても、作っている本人に残るものがあまりない。よいプレゼン資料ができ、それで実際によいパフォーマンスができたとしても、そのことによって新たな課題が見つかったり、思考がさらに深められると言うことがどうも少ない気がする。授業が終わったとき残るのは、かなりの疲労と、人々を飽きさせずに終えられたという多少の満足であって、どうみても哲学的な満足感ではない。

 もともとチャート式とか図式化というのは嫌いではなかった。しかし、参考書類に色つきのきれいな図でまとめてくれているものは、全く頭に入らなかったし、見る気もしなかった。他人が作ったチャートは、それを読み解く方が難しいのではないだろうか。むしろ文章で語られているのを読む方が断然頭に入った。チャートは、教官の授業を聴きながら、自分で作ってはじめて意味のあるものと思っていた。ところが今の大半の学生にとっては、はじめからチャート式の方がわかりやすいようなのである。おそらく思考形式がそうれに馴れているのだろう。ただ、学生がチャート式で分ったとしても、その分かったことが使い物になるかどうかは別問題だろう。たとえば、それを自分の言葉の中で語ることが出来るだろうか、あるいは、それに触発されて、新たな思考を発展させていくことができるだろうか。

 スーザン・ランガーが人間の表現のありかたを「論弁的」(discoursive)な形式と「現示的」(presentational)形式とに分けたことは、思考形式にも言えるに違いない。論弁形式は人類の思考の可能性を大きく開いたと言える。哲学もまたそうした可能性の一つであったから、言葉を語ることがなければ哲学的思考は間違いなく成り立たないだろう。ただし、言葉によって失われるものもあるだろう。現示形式によって開かれる次元を忘れてはならない。有意義に考えるには、どちらも必要であり、両者をうまく関わらせながら進めていくことが出来れば、よい授業ができるのかも知れない。Power pointも適度に使うのがよいのだろう。

 ただそのためには、黒板とスクリーンが二者択一でしか使えない今のタイプの教室は文字通り「使えない」。スクリーンを使いつつも、黒板にメモ程度のことを書きながらdiscourse を語っていくというスタイルを、この教室では取ることができなからだ。

 話がややそれた。そろそろ来週のプレゼンを用意しなけくてはなどと考えていると、思考の二つの形式の関係といった問題がちょっと頭に浮かんだのである。

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コメント

白頭庵です。

授業のアイディアを交換しあったり、意見を交わすことをこのブログでやりたい、と桶川さんは言っておられましたね。その最初に、私もずっと気になっている話題を取り上げていただいたので、あまり参考にならないかもしれませんが、大学で哲学・思想系の授業を担当する信条というか、私なりの意見のようなものを書いてみようと思います。

視覚教材を哲学・思想系の授業に取り入れる試みは、私も何度かやってみましたが、手ごたえはイマイチで、桶川さんも苦労なさったように、事前準備が大変でした。試験やレポートでは、板書する授業に比べて、学生たちの「考える」「書く」という作業への取り組みが浅い感じがしました。

それで考えたのですが、思想系の学問は、やはり、アイディアを言葉へともたらす作業が大事なんだということです。ヴィジュアルに訴える教材では、その作業がどうしても軽んじられてしまうように思います。権威ある学説の定番となった解説をするだけなら、チャート式に要所をまとめていくこともできますが、それは、教養課程であっても、大学の授業のレベルではないように思います。ある問題をどのように取り上げ、どのようにして答えを出して行くかということを学生と一緒に実際に思考しようとするなら、問題となっている事象からどのようにして言葉が、論理が、出てくるかという、そのプロセスを学生に示す必要があるように思うのです。あるいは、学史的な内容や特定の学者を取り上げるような場合でも、テキストをどのように読むか、というプロセスこそ大事なのだと思います。

そこでは、全体を俯瞰する全知の立場に(あるいは権威的立場に)立って、presentationalな形式でそれを表現するという態度そのものが批判されるでしょう。最大の難点は、学生への問いかけが、問いかけとしてではなく、こちらで用意した結論へと導くだけの問題提起に終わってしまうことです。いつ学生が受け身の立場から主体的に思考しはじめるかが、思想系の授業では最も重要なポイントだと思うのですが、視覚教材等の準備を周到にすればするほど、その転換点がないままに授業が進行していって、きれいにまとまり過ぎるように思えるのです。

ときどき、ある学説の最初の問題提起と、ある学者の出した最終的な答えとをヴィジュアルな形にまとめて最初に示して、その間の思考を類推させながら授業を進めるという、穴埋め形式の問題のような授業をすることがあります。それは、presentationalな形式を取りながら、その中で少しでもdiscoursiveな形式での学生の参加を促したいという試行錯誤のひとつです。利点は、用意した材料すべてをヴィジュアルなものにする必要がなく、手間がはぶけるという点です。難点は、問題提起と結論との間の溝が大きいほど、授業する方は面白いのですが、受けている方はついていくのが大変で脱落者が多く、溝が小さいと、既得の知識でカバーしてしまって思考が働かない学生が続出するという事態になることでしょうか。学生の中には、肝心の穴埋め部分を完全に聞き流して、目で見ている部分だけしか残らないという人もいます。

ほとんどの教室で、スクリーンを下ろすと板書ができないという難点は、大きいですね。

それから、emotionalな部分に訴えることも、意識しています。驚きから哲学が始まる、なんていう話題のときは、受講者のセンス・オブ・ワンダーにひっかかりそうなことを喚起しようと必死で、汗だくになります。うまくいくと、何割かの学生は真剣にくいついてくるのですが、必ず何割かはまったく無反応のまま残されてしまいます。無記名の授業評価で「ひとりしばい」などと書かれて、がっくりきます。「小さい頃からひとりで考えてきたことが、実は哲学の入り口だったと知って、わくわくしました」なんていう言葉があったりして、それで救われています。

思想系の科目は、理科系科目とちがって、最後は、言葉の勝負だといつも言っています。言葉で表現できないものがあると思うなら(そして、そういうものはきっといっぱいあります)、なぜ表現できないのかを言葉にしてみなきゃならない、とハッパをかけます。結局、何かを言葉にして表現するdiscoursiveな活動が学生の中で起こらないと、思想というものは理解できないのだ、と思っています。取り残される学生が必ず出てくるのが、悩みどころです。

投稿: 白頭庵 | 2006-05-08 02:50

 白頭庵さん、ありがとうございました。いつもながら白頭庵氏の妥協なき思考は、いつも妥協点ばかりさぐっている私には、基本に立ち返るよい刺激になります。

 私が、Power Point を使う背後には、やはり「その他大勢」をいかに授業に参加させるかという意識が働いているわけです。その場合、通常は哲学に興味もない学生が、少なくとも哲学にも意味はあるのだ(!)ということを知ってくれるという効果はあるかも知れません。学生が思索をはじめようにも、一つの考え方を批判的に反省しようにも、まず何もかもチンプンカンプンではいかんともしがたいので、ある程度図式化された形でともかくも理解させることが必要なのではないか、と。しかし、それよって哲学を面白いとまで思うようになる学生があるのだろうか?

 そこで、自分が哲学を面白いと思い始めた頃のことを振り返って、そういう形で自分がまず図式化されたものの理解から入ったのかを振り返ってみます。すると、実際は決して図式的に説明された話を聞いて(文章を読んで)哲学を面白いと思い始めたのではなかったことに気づきます。むしろ図式化されたものの隙間に、かまわずどんどんと分け入っていく本物の思索に触れたその瞬間、難しくてよくは分からないなりに何かぞくぞくするものを感じた、だからそれを面白いと思うようになったのではなかっただろうか?(私の場合、それは小林秀雄だったという記憶があります)。

 そういうことを考えると、哲学を本当に面白いと感じる学生を起こすには、Power Point などを使っていてはやはりダメだということになりましょう。ただし、その後の自分の歩みを考えてみると、やはり哲学史を知るのに小坂修平とか竹田青嗣の図式的な入門書の類には随分お世話になったし、そういう図式的な解説がなかったらなかなか哲学書を読み進めることは困難であっただろういということも確かです。おそらく「その他大勢」の一人であったはずの自分を振り返り、興味はあるけど難解で分からないと思っている学生がいるかも知れないと考えると、やはりPower Pointも捨てがたい。

 まあ、モノは使いようというところに落ち着くしかないのですが……。

 それにしても、「ある学説の最初の問題提起と、ある学者の出した最終的な答えとをヴィジュアルな形にまとめて最初に示して、その間の思考を類推させながら授業を進めるという、穴埋め形式の問題のような授業」というのは興味深いですね。それは教える側の力量が相当に問われる授業の仕方かも知れません。

投稿: 桶川利夫 | 2006-05-09 00:51

桶川さんは、優しい方だと、嫌味じゃなく、思います。何で自分には、そういう優しさが欠けているのかなぁ、と。

私には妥協がないのではなくて、むしろ妥協しないと安心できないような授業姿勢があって、とてももろいです。
フッサールの講義は難解で有名でした。講義についていけない学生たちを尻目に、フッサールは教壇で、思索し、逡巡し、アイディアを吟味し、一度立てたアイディアを否定し、文字通り壮絶な思索の過程をそのまま開陳しています。
学生は、まったくついていけなくなった。
そして、誰もいなくなった、という伝説。

そういう授業を受けたかった、と思ってしまうのは、私がかなりアブナイからだと思います。

岡潔という数学者がいて、すごい授業をしていたそうです。
緻密に数学の学説を解説して、それから、情熱を込めて解説した学説を、爆砕するのです。
実際に、その講義を受けた人が言っていました。
岡先生の講義は、真剣に聞けば数学の知識を身に付けられるけど、のめりこんで、もっと真剣に聞いていると、身に付けたと思った知識など粉砕されて、何もないところに立たされる思いだった、と。しかし、そういう壮絶な講義は、一学期のうちに一回あるかないかだった、と。

きっと、緻密に準備したんだと思います。そして、講義を進めるうちに、そいつを爆砕してしまったんだと思います。

数学者も哲学者も、天才と呼ばれる人たちには、そういう、一切が粉砕されたところから思索するという壮絶さがあるのかもしれません。それを授業でやられても、百人の受講者がいたとして百人とも、何が起こっているのかわからないでしょう。でも、そういう授業の中からは、何十年かにひとりは、粉砕された廃墟のようなところから出発してやろう、という奴が出てくるかもしれない。そんな意気込みすら感じさせる授業をしちゃう人がいたらしいのです。

彼らの授業は、参考にはなりません。学生は、間違いなく、ついてきません。でも、そういう授業こそ、実はホンモノじゃないか、と思ってしまうところが、私にはあります。そして、そういう自分は、教師としてとてもアブナイと思います。

使ってみると、パワーポイントはなかなかいいです。でも、そういう効率的な授業のどこかで、フッサールや岡潔の壮絶さを小さじ一杯でも入れられたらなぁと、つい思ってしまうのです。

投稿: 白頭庵 | 2006-05-12 00:53

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