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2006-06-21

実習終わる

 一番最後に自分の担任のクラスで授業をし、最後のホームルームで生徒たちから花束と色紙をもらい、こうしてわたしの実習は幕を閉じた。連日夜中の1時、2時に寝て朝5時半に起きるという生活だったが、全てを終えて帰ってくると疲れがどっと押し寄せてきた。体重も2、3キロ減った。思いもかけず過酷な実習だった。

 実習での一番大きな課題は、高校生向きの授業が出来るかどうかであった。私の口から自然に出る言葉は抽象的で高校生には分かりにくい。また私が作る授業案はテーマが高校生の必要に対応していない。これらを直すのにかなりの日数を要した。7,8回の授業を行なったが、満足いく授業が出来たのは最後の2回だけだった。

 もう一つの課題は、50分という時間であった。10年間の大学講師の経験によって、私の体内時計は90分にセットされてしまっているので、50分で終わるように話をすることがなかなか出来なかった。話が脱線することは高校の先生でも当然あるわけだが、彼らはすぐに本題にもどってくる。しかし、私はもどってくるのに10分くらいかかってしまう。ところがその10分が高校の授業では命取りとなる。

 まあ、実習での経験を書き出すときりがないので、とりあえずはここまで。後は徐々に書いていきたい。今後高校の教師になれるかどうかは分からないが、この経験は現在の大学の講師としての仕事にも少なからず影響を与えるに違いない。今日、さっそく大学での講義を済ませたが、かなり簡潔に話すことができたと思う。(簡潔ならいいというわけではないが)大学の授業の質を高くしたいなら、へんなアンケートなんかやってないで、大学の教師の高校での実習を義務づけたらどうだろう。大学の教師は研究のプロだが、教えるのはどうも素人だ。ところが高校の教師は教えるプロだ。学ぶ点はたくさんあるに違いない。もっとも大学の授業が高校の授業に似ることがよいことかどうかは分からない。ある意味で素人くさい講義こそが本来は大学の醍醐味である気もする。このあたりのことも、おいおい考えていきたいと思う。

 ところで、実習の最終日に、私を指導してくれたY先生(実は私の大学院の後輩)と一緒に、日比野さんのおられる「新しき村」に行ってきた。日比野さんは仕事中であったにもかかわらず、村を案内してくださり、ふつうに行ったのではわからないところまで見ることが出来た。村の理想と村の現実とが交錯する現場を垣間見ることで、日比野さんの苦労を少しだけ理解することが出来たように思う。10年ぶりくらいにお会いした日比野さんは、労働のためか身体ががっちりとされ、年はとられたが大変健康そうに見えた。身体を動かして働いて、空いた時間には論文を書かれるのであろう。その生活は理想的に見える。しかし、日比野さんはそれでは駄目なのだと言われる。そういう村の生活が、純粋に自給自足に基づくものではなく、結局は経済的に村の外の世界に依拠したものであるからだ。ではその外の世界に暮らし、完全にその世界に埋没してしまっている私などはどうなるのだろう? そういうことを考えさせずにはおれない見学であった。

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コメント

おかえりなさい。お疲れさまでした。

桶川さんの授業風景、その準備、そして最終日のことなど、想像して、つらつらと考えることがありました。

大学の授業は、つまらない、ついていけない、と感じる学生を多かれ少なかれ放っておいて省みないところがありますね。それでも突き進む、という講師の態度には、きっとそれなりの魅力もあるのでしょうが、そこで講じられることは、まさに知的エリートのための議論となっていくでしょう。それは、今の社会が求める高等教育の姿ではありませんし、多くの学生が求めるものでもありません。

学生が求める授業のヒントになることが、高校の授業にあるというのは、きっとそのとおりだと思います。魅力があるかどうかはさておき、とにかく突き進むというタイプの授業をしてきた僕は、今、まさにこのあたりのことで壁にぶつかっています。簡潔に、しかも学生を巻き込んで展開する授業、というのをやろうと悪戦苦闘しています。

抽象性の高い話をしなくちゃならないときとか、議論の道筋を丁寧に辿らなきゃならないときが、ひとつのヤマですね。どこから入って、どんな風に話をもっていくかで悩みます。一言、言葉を投げてみて、その余韻の中で考える、ということが授業の中でできたらいいな、と思うのですが、教案を練る段になると、職人芸はまだできない、と断念しています。

今の大学では、どんな授業がいいのか。

桶川さんが体験したことのなかには、きっとそのヒントになることがあると思います。

実習報告が終わり、一区切りついたときで結構ですから、そういう議論をしてみたいです。

投稿: 白頭庵 | 2006-06-22 03:12

「身も痩せる思い」の実習、お疲れ様(「痩せる」ところだけ、不謹慎にもちょっとうらやましかったりする)。今になって何なんですけれど、桶川さんが当初、「主の祈りを主題にした授業案を要求された」と話しておられたとき、正直のところ、私などは「一番面倒なテーマを押し付けられちゃったのかなあ」と感じていたものです。本当にお疲れ様でした。

白頭庵さんもおっしゃっている、高等教育における授業のあり方について、私自身は、白頭庵さんが実践されているような「とにかく突き進む」というタイプの方が好みです。私のような無責任な立場からモノを言うのは勝手千万でしょうが、学生に合わせることを重視すると、どうしても高等教育の質が下がってしまうのではないかと懸念してしまいます。

それから、新しき村に出かけられたのですね。桶川さんの言う(そして日比野さんがまさに直面し、苦悩なさっている)「村の理想と村の現実とが交錯する現場」とは、一体どのようなものなのでしょう?どうも具体的にはイメージが湧かないのです。まあ、しかし実際にはそれが分からないうちの方が、ありがたいのかもしれませんね、ずるいですけど。

投稿: トロウ | 2006-06-24 02:09

白頭庵氏、トロウ氏、コメントありがとうございます。お二人ともいろいろな場面で教えるという経験をお持ちで、そうした経験にもとづいたご意見は貴重だと思います。

教師(とくに大学の)というのは、自分の教師としての仕事を、他の教師から見られるということがほとんどないので、互いにどんな仕事をしているのか分からないという事情があります。それは非常に気が楽な反面、互いのチェック機能が働かず、放っておくと自堕落になっていく可能性もありますよね。大学の教師同志が互いの授業の仕方について意見交換をするということも、きわめて少ない気がします。大学の教師にとって授業とは出来るだけ触れたくない話題なのかも知れません。

しかし、たとえばブルトマンがハイデッガーの講義に出てノートを取っていたといった話を聞くと、本当は当然そうあるべきなのだろうという気がします。もっとも、同僚が毎回出席するような授業は、おそらく相当ハイレベルな授業であり、研究発表に近いものであっただろうと思います。

「とくかく突き進む」タイプがいいのか、懇切丁寧に手取り足取りといのがいいのか、永遠の課題なのかも知れませんが、本来は大学とは前者でなければならないと思います。ただ社会の中での大学という場の位置づけが明らかに変わってきているので、「大学」ではという風に大上段にかまえることはもはや出来ないということなのでしょう。

「場の雰囲気をよめよ」という言葉がなんだか巷で流行っているようですが、その場の様子を察知して、臨機応変にやっていくことが大切なのでしょう。理想は、二つのタイプを分けるのではなく、高度な事柄について扱いながら、専門用語や難しい言い回しを使わずに、全くの初心者がその事柄の面白さを理解できるように導くような授業かも知れません。

投稿: 桶川利夫 | 2006-06-26 09:26

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