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2006-07-11

美をめぐる矛盾

 Pensie_log氏の「賞味期限のある美」というエントリーを読んでコメントをしたのだが、私も最近、そういう美に関心を持っている。氏は数十年前に作られたような機械類にそのような美を感じておられるが、私は主にトタンによる建物が気になっているところである。

 デジカメでいろいろと撮り始めたのが3,4年前だが、いつ頃からか古く色づいたトタン建築の写真が増えるようになった。これは、今巷で多く見られる、時を経ても朽ち果てることのない建築物への不満から自然に出てきた行動かも知れない。

 たとえば十数年前から、住宅の壁は「サイディング」と呼ばれる手法が主流である。これは、丈夫な素材で作らた同じ大きさ、同じデザインの板を、次々に壁にはめ込んでいくというもので、数年雨風にさらされてもほとんど劣化しないという長所を持つ。壁を構成する各パーツは、すべて同じ企画の板であるから、壁にはむらがなく、できあがりはちょうどCGで作った建物の画像のようである。こうした壁を持った住宅が密集している場所へ行くと、まるでコンピューターゲームの中に迷い込んだような感覚に陥る。そして、CGが現実を121_2196模倣しているのか、現実がCGを模倣しているのかわからなくなる。

 最初は好ましく思ったことがあったかも知れないが、そういう建物ばかりが目立つようになってくるといいかげん辟易してくるのは当然である。そんな中で、私が無意識のうちに関心を持つようになったのが、トタンで作られた建築物である。と言っても、それは作られたばかりのものでは駄目で、何年かの時を経て、腐食によって適度に色づいたものでなければならない。腐食の度合いによって、実に見事なトタン建築が現れる。

 ちなみに、トタンとは「亜鉛でめっきをした鉄板のこと」である。亜鉛は鉄より腐食しやすいため、まず亜鉛が腐食されることで鉄の腐食を防ぐ。こういうのを「犠牲防食」と言うのだそうである。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) ということは、トタンを使った壁や屋根は、腐食することを前提に作られていることになる。劣化現象を封じ込めようとするサイディングの場合とは正反対なのである。

143_4390 と言っても、トタンの壁は、たとえば塗り壁のように、風雪に刻まれることで美しくなることを計算に入れられているわけでもない。もし美しい家を建てようと考えたら、トタンという選択はなかったはずであり、おそらく費用と実用性という二つの要素に折り合いをつけた結果がトタンであったに過ぎないのである。したがって、トタン建築の美しさの特徴の一つは、作る側はそのような美的効果を意図してはいないし、そもそも美しい建築を作ろうという意識はないだろうということである。その美しさは、作り手が「ほら、御覧、美しいだろう」と押しつけてくることがないぶん、こちらが自由に感じるとることのできるものである。おそらくそこに他にない心地よさの要因の一つがある。自虐的に言えば、自分こそがこの「美」を見出したという自己満足、あるいは「他の奴には分からない」「分かってたまるか」という、「正統」な美へのルサンチマンもあるかも知れない。

 ところで、トタン建築の美しさのもっと基本的な特徴は、それが不可逆的 な時の流れの中で一時的に生み出されるものであり、したがって保存することが本来出来ないないという点にあろう。Pensie_log氏が触れておられるように、そういう美とは「劣化」の別名とも言いうるわけであるが、私が関心をもつのは、朽ち果てていくことが条件になるような美の形だということになる。ただ、この点に関しても美をめぐる事情は一筋縄ではいかない。私はこのトタンのある風景をデジカメで撮影するわけだが、私が撮影して数ヶ月後にその建物が取り壊されてしまったということが何度かあった。私は、取り壊されてしまったことにショックを受け、残念に思う反面、デジカメで撮っておいてよかったと胸をなでおろしたりする。しかし、これは矛盾した感情であろう。朽ち果てていくプロセスだからこそ美しいはずなのに、そのプロセスを電子画像として永久にとどめようとするのだからである。流れるからこそ美しい時の美しさを、「保存したい」という矛盾した欲望。それは「自分が語るのを聞きたい」(デリダ)といった欲望とも関係しているに違いない。

162_6279 流れる時を保存したいという欲望は人類の芸術活動の基底にあるように思うが、この欲望を実現するかに見える家庭用ビデオは、流れる時を保存などしても仕方がないことを教えてくれているようにも思える。わたしも子供の生活を無数にビデオ撮影したが、たまりにたまったテープの山を見て、いったいこれをいつ見るのだろうと感じる。私のビデオカメラはバッテリー量が少ないため、それでも他の人たちに比べると撮影時間はずっと少ないはずである。しかし、24時間連続撮影可能というようなカメラを使っている人は、たとえば運動会の間中カメラを回しっぱなしにすることも出来る。そうやって出来たビデオテープを見るには、運動会とほぼ同じ時間が必要になる。さらに様々な行事のたびにビデオを撮っていると、それを見るにはほとんど人生をもう一回生きなければならなくなる。そんなことをしている時間があったら、今の新しい経験を積み重ねた方がましではないだろうか。それでもついついビデオカメラを回してしまう。そういう馬鹿馬鹿しさが、われわれ人間の存在のありかたのうちにはどうも刻まれているようである。

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コメント

いやはや、トタンいいですね!
内部と外部を隔て、外界に晒され続けるからこその、曲がりたわみ歪み色褪せ錆果てひび割れ欠けていく、そのマティエール。

つまるところ、自然美とか芸術美とかいったどうでもいい区分を一旦捨象したところに現われる「もの」の、その端的な物質性の論理(=物理的風化作用と化学的変性作用)に基づく「人間的なのの(および意味的なもの)に対する一切の無関心」。これがこの美の根源だと私は考えています。そして、人間に無関心だからこそ、作為的に造り作為的に保存し作為的に鑑賞せんとする人間の「欲望」に冷たいまでに無関心を保つ。意味の零度。(そして、それが意味の零度だからこそ、そこに意味を与えたくなると同時に、その欲望が常に裏切られていく)

ところで、上から2番目の建物のメーターのつき具合は、非常にいいですね。もう、うっとりです。あと、3番目の道が未舗装なのも、最高です。砂利道に向かって錆ながらせりあがるトタンなど、たまらないです。

投稿: pensie_log | 2006-07-11 02:34

共感してくれる人がいて嬉しいなあ。

なるほど、Pensie_logさんならそういう見方をされるのでしょうね。僕の場合は、トタンにどうしてももうちょっと人間的なもの、有機的なものを感じてしまいます。その点で、Pensie_logさんの鉱物、建築現場、鉱山跡(生野銀山の記事、おぼえてますよ)などへの関心などと比べると、僕のトタン趣味はやや甘いのかも知れません。

ただ、トタンもその主人も、こちらのそういう感覚には無頓着なことは確かで、無用になったら容赦なく壊されてしまいます。すでに、私の好きなトタン建築が二つこの世から姿を消しました。(一番上の建物と、左の欄に掲載している建物)

ちなみに、メーターの付き方や未舗装がいいというのは全く同感です。

投稿: 桶川利夫 | 2006-07-11 22:23

美のこととはまったく、本当にまったく関係ないのですが、野呂芳男ホームページ「神学に生きる」のカウンタ、15001でした。おしかった。

狙っていたわけじゃなかったけど、残念。

投稿: 白頭庵 | 2006-07-21 20:57

15000人目が「前の段階を締めくくった最後の人」だとすると、15001人目は「次の段階へ最初の一歩を踏み出した人」です。おめでとうございます。

投稿: 桶川利夫 | 2006-07-24 10:14

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