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2006-08-28

神学の二つのモデル――(2)内テクスト的方法

 第三の神学モデルを提示するリンドベックの神学的傾向は、彼独自のものと言うよりも、イェール学派全体のものである。ここでイェール学派とは、あのポール・ド・マンの文学評論のグループを指すのではなく、イェール大学神学部の教授達を中心として形成された一群の神学グループのことである。代表的な人物としては、ハンス・フライ(Hans W. Frei)、ポール・ホーマー(Paul Holmer)、デイビッド・ケルセイ(David Kelsey)らがおり、イェールで学んだ研究者達を中心に、アメリカの神学に一定の影響力を与えている。

 これらイェール学派の人々に共通するのは、聖書を聖書外の概念や状況から理解するのではなく、逆に現代の社会的状況や個々人の実存的なありようを聖書から理解するという方法である。たとえばリンドベックはそれをこう言い表している。

世界を吸収するのはテキストであって、世界がテキストを吸収するのではない。(p.118/邦訳223頁

これは、聖書を現代人に理解可能な形に翻訳するというブルトマン的な問題設定に対するアンチテーゼと見なすことができる。人は聖書の言語を、聖書外の現実(たとえば現代人の世界観、人間観、ハイデッガーの実存理解など)に合わせて理解するのではなく、むしろ聖書の言語の中に住まうことで、聖書外の現実を理解すべきだと言うのである。

 イェール学派の中心人物であったフライは、『聖書物語の蝕』(The Eclipse of Biblical Narrative, Yale University Press, 1974)の中で、歴史批評以前の聖書の読みがまさにそのようなものであったことを述べている。かつて聖書は「字義通り」(literal)に読まれていたのであるが、それは決して現代のファンダメンタリストが言うような意味においてではない。聖書物語は、テクスト外の現実に照らし合わせてその真理性が証明されるような意味において字義通り正しいとされるのではなく、それが哲学概念や象徴的な意味へと置き換えられることなく、そこに描かれている物語がそのまま受け取られるべきであるという意味において字義通りなのである。歴史批評の出現によって、この聖書物語の字義通りの読みは崩壊し、聖書物語は「指示対象」(reference)と「意味」(sense)とに分離してしまった。その時代の神学を支配した自由主義神学とは、聖書物語の「指示対象」を捨てるかわりにその「意味」を救い出す試みであったということになる。

 フライは、このような歴史批評によって出現した不幸な分裂を修復し、かつての聖書の読みを現代に取り戻すことが必要であると考えていた。フライは取り戻されるべき聖書の読みを次のように描いている。

聖書的物語を一つのストーリーに結びつけることによって真に提示される世界は、実際のところ唯一無二のリアルな世界であったのだから、それは原則として、いかなる時代のいかなる読者の経験をも包含するに違いない。……(中略)……彼は自分の時代の出来事だけでなく、自分の性質、行動、情熱および自分の生の姿をもストーリーの世界の比喩として見ていたのである。(p.3)

フライが示唆していたこのような聖書の読み方は、イェール学派にとっての共通の神学的方法論となったが、リンドベックはそれを「内テクスト的方法」(intratextual method)と名づける。(Lindbeck, p.114/邦訳213頁) 神学の役割は、聖書の物語をその背後に想定される史実から説明することでもなければ、それを何らかの一般的な概念に置き換えることでもなく、聖書の物語を権威あるテクストとして使用する共同体において、その物語が果たしている役割を記述することとなる。

 前節で述べた神学の類型に即して言うなら、フライやリンドベックが求める神学とは、「認知・命題」モデル「経験・表現」モデルではなく、「言語・文化」モデルでなければならない。この主張は、たとえば一人の非キリスト教徒がキリスト教会の一員となる過程を考えるとき、実際的な説得力を持っているように思われる。「認知・命題」モデルによれば、彼は教会の信仰箇条や聖書に書かれている諸命題が正しく実体を指示していることを認めることによって信徒になることに同意することになる。「経験・表現」モデルによれば、聖書や信仰箇条を文字通り受け取る必要はなく、それらが象徴的に表している宗教体験を共有できた時に、彼は信徒になる条件が整ったことになるだろう。

 これに対して、「言語・文化」モデルによれば、彼は信仰箇条を承認したり、何らかの体験をする以前に、まず聖書物語に深く親しまなければならない。それも、それらの物語が象徴的に何を指示しているか、それらの物語が歴史的事実であるのか、といった問題に関わる以前に、彼はまずこの物語に十分に親しみ、その物語の中を生きなければならない。また、キリスト教的な言葉づかい、儀礼の方法、教会生活のあり方などを教わり、それを実践し、そのような言語・文化的な体系を自らのものとして修得していかなければならない。そのようなキリスト教的な言語や行動のパターンの習得こそが、彼に一定のキリスト教的ともいうべき体験を可能にし、さらには共同体の信仰箇条への同意を可能にするのである。

 さて、ここで私は、トロウ氏がそのブログCafe Eucharistiaの中で論じておられた「洗礼」と「回心」をめぐる一連の論考を想起するのである。もとよりトロウ氏の神学的思索は、リンドベックのようなタイプの神学とは相容れないかに見える。しかし、この論考で氏は、ある意味でリンドベックの議論と近いことを述べておられるように思われる。

「回心の体験について・洗礼」
「洗礼は受けなければならないか」
「洗礼後の生活」 

氏は「回心」がなければ「洗礼」を受けられないという立場を捨て、「洗礼」を一種の「あいさつ」のようなものだと主張されている。「回心」が一つの実存的な体験だとすれば、「洗礼」はより形式的なものだということであろうか。実存論的神学は当然実存的な体験を重要視する神学であるから、洗礼のような形式的なものは排除してよいということになりそうだが、しかし実存論的神学を元にした教会においても洗礼は大切だと氏は言われる。特定の体験が条件となって教会生活があるのではなく、教会生活に入ることによって神との交わりの経験へ迎え入れられるということだろう。そのような形式と体験とのバランスがとれた範例として、氏はウェスレーの教会を挙げておられる。それは、体験的なものと形式的なものの両方をそなえた楕円で表現することができるという。

 私の間違いでなければ、トロウ氏のご意見はリンドベックの議論を部分的には支持しているものと見ることが出来る。ただ、私の考えでは、リンドベックの提案は、形式と体験との相互的な関係のうち、形式が体験を作り出すという側面だけを強調しすぎているように思われる。トロウ氏は次のように書いておられた。

形骸化した檀家制度的なものを採用することがない限り、聖餐式は常に、ひとりひとりの信仰者と十字架のキリストとを結ぶ儀式であり続けるだろう。(「洗礼後の生活)

聖餐式という形式の重要性を述べながら、その条件として、形式の重視が「檀家制度」に陥ることがないように要求されている。しかし、リンドベック流の神学には、その危険がどうしてもつきまとうように思えてならないのである。その点で、トロウ氏の神学は、やはりリンドベックとは根本的に異なっているし、私のリンドベックへの神学への不満もそこにある。(つづく)

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コメント

立て続けに出ましたね。トロウです。
桶川さんがどのような切り口でイエール学派の神学を批判されるのか、楽しみです。この場で続きは出るのでしょうか。それとも、この続きは学会発表なのでしょうか。とにかく、私も桶川さんに触発されて、先日リンドベックの The Nature of Doctrine の「まえがき」と目次だけはアマゾンの’look inside’ で読むことが出来ました(これでは読んでいないということと同じです)。これだけでは、リンドベックの独自性であると思われる「第三の神学モデル」、つまり言語・文化モデルの意味するところがいまひとつよく分かりませんでしたので(当然か)、分からないままでのコメント、お許しください。

リンドベックの「言語・文化モデル」論について、まず私が想起したのはトレルチの晩年の神学的立場、『歴史主義とその克服』などで展開される文化的・宗教的な相対主義の主張でした。桶川さんもご存知のとおり、このトレルチ関する論考は『十字架と蓮華』の中でも展開されていますね。晩年のトレルチの主張と、リンドベックの立場との関係はどういうことになるのでしょうか。個人的には、ちょっと気になるところです。

もうひとつ気になるのは、イエール学派が「聖書」をどのように扱っているのか、という点です。フライが提唱する聖書の扱い方、「内テクスト的方法」についての桶川さんのご説明を一言で要約すると「形式主義」ということでよろしいでしょうか。しかしながら、歴史批評を包含した上での、ファンダメンタリスト的でない「字義どおり」に聖書に接する立場とは、具体的にどのようなことを意味するのか、まだ私には理解できないでいます。ひょっとしたら、それは単なるレトリックに過ぎないのではないかとさえ私には思われます。(敢えて譬えるなら「絶対矛盾の自己同一」のような、少なくとも私には否定することも肯定することも出来ないような「レトリック」。)さらに、

>キリスト教的な言語や行動のパターンの習得こそが、彼に一定のキリスト教的ともいうべき体験を可能にし、さらには共同体の信仰箇条への同意を可能にするのである。

と言う際の、「キリスト教的」という部分が、私には大問題です。何が、どのようなことが「キリスト教的」なのか。その点に関する論考や、定義のようなものは、この学派の人々によって提唱されているのでしょうか。桶川さんのご批判は、おそらくこのあたりから切り出されてくるのでしょうか(期待をこめて)。そのことが、おそらく私の立場と彼らの、ひとつの分岐点になってくるのではないかという気がしています。

取り急ぎのコメントで、失礼します。

投稿: トロウ | 2006-08-28 20:35

あっ!今、アップしてから気付きました。桶川さんの最後に(つづく)とありますね。続くのですね。失礼しました。楽しみにしています。

投稿: トロウ | 2006-08-28 20:37

しばらくご無沙汰していました。白頭庵です。

Pensie_logさんに続く桶川さんのプレ発表記事が出て、この研究会の主旨のひとつ(口頭発表や論文のプレ発表の場となる)が、実現されてきましたね。お二人とも、本格的な論考で、リンドベックにしろ波多野精一にしろ、原典が読みたくなってきました。

桶川さんの記事を十分に理解するのは、その全貌を俟たなければならないと思います。リンドベックも新イェール学派の神学者もなにしろ初めて触れるので、今の時点で突っ込んだ質疑はできそうにありませんが、非常に基本的な質問を試みます。

一言で言えば、リンドベックの立場は、桶川さんの記事を拝読した範囲では、広い意味でのキリスト教教育、つまり、ひとりの人がキリスト者になっていくという(キルケゴール的な意味での)「キリスト者の修練」にかかわるもののように思えるますが、いかがでしょうか。

桶川さんは、リンドベックの神学が日本では「宗教間対話の問題に立ち向かわなければならないアカデミックな宗教学者と、ポストモダンの時代を生き抜かなければならない教会人との両者に」おおむね好意的に受け入れられていると述べておられますね。その理由は、自分の信仰を保ちつつ、それを相対化する視点ももった神学的立場として「言語・文化」モデルの神学を提唱している点にあるということでよいでしょうか。

僕が知っている日本のキリスト者たちの多くは、信仰生活に入るために(またそれを日々保持し、日々深めていくために)まず聖書を読み、聖書の物語を自らの血肉としていく、というリンドベックのような立場(と理解してよろしいのでしょうか)には基本的に賛成すると思います。というのも、僕の知るキリスト者には、いわゆるプロテスタントが多いのですが、そのほとんどが、現代社会の一般的な常識や科学的見地などから聖書を読むのではなく、聖書を読むことを通して現代社会を見ようとしている人たちだからです。そのことに自覚的であることによって、彼らは、いわゆる原理主義に陥ることを免れています。自分たちの視点は聖書のうちにあるということを反省的に知っているから、そのような視座を相対化する視点も持ちうるのだと思います。誰もがそういうわけではないですけれど、狭い知見の範囲では、そういう人が多いです。

カトリックや、礼典を重視する立場でも、このような見方を全否定する人はいないのではないかと思います。リンドベックが、聖書を読むことばかりでなく、儀礼や言葉遣い、教会生活のあり方を学ぶことをも強調しているのなら、なおさらです。それは、キリスト教教育の基本軸だといえるでしょう。

桶川さんは、このようなリンドベックの立場をトロウさんの先日来の議論と対比させながら、「言語・文化」モデルが形式主義になりがちな傾向があることを指摘しておられます。その指摘の妥当性は、リンドベックらを読んでいない僕には分かりませんが、記事を読ませていただくかぎり、なるほどと思います。

ある宗教にしろ文化にしろ言語にしろ、それに馴染み、習熟し、その視座を我が物としてそこから世界を見るようになるまでには、生き生きとした体験と学ぶに適した形式との両方が与えられていることが不可欠であるように思えます。そして、リンドベックのモデルは、ひとりの人がキリスト者になっていく過程で、何が必要かを論じているように思え、またそのとき必要とされるものを教会はどのようにして与えていけばよいかを明確にしているように思えるのです。リンドベックの議論がキリスト教教育にかかわるものに思えると言ったのは、そういう意味です。そして、このような議論が、えてして形式的で方法論的なものになっていく傾向をもつことは確かにあります。ひとりの人がある何ものかになっていく過程で、当人や教育者や支援者は何をどのように用意するべきかを考えると、形式や方法が問題になってくるのはやむをえないことです。

そうした傾向の中では、生き生きした体験、ときには自分を圧倒するような強烈な体験よりも、形式や方法に即したやり方のほうに注意が偏ってしまうかもしれません。最大の難点は、その形式や方法を内在的に批判する視座が、こうした立場からいかにして導かれるか、という点です。体験に基づく信念が形式を批判し吟味するような視座をもたらし、形式に習熟した信念が体験に基づく信念の独断的な狭隘さを批判し吟味するような相互作用が、キリスト者になるという過程ではかかせないもののように思えます。この点、きっとイェール学派の神学は確かな答えや反論をもっているかと思います。

くどくどしくなりましたが、質問を整理すると、(1)イェール学派の(特にリンドベックの)神学は、上記の意味でのキリスト教教育論として読めるのかどうか、(2)もしそうであるなら、方法論的・形式論的な偏重がおこりがちなことは本人たちも重々承知のはずで、その点をどうやって彼らは回避しているのか、といった感じです。

もし彼らの神学が、ある特定の教会に属するキリスト者でありながら、他教派や他宗教に対して自己を相対化するような視座ももちうるような、そんなキリスト者へと育って行くためには何が必要かを論じているのだとすれば、そういう意味での教育論的な神学は日本でも受け入れられるだろうと思います。

つづきがとても楽しみです。

投稿: 白頭庵 | 2006-08-30 19:02

トロウ氏は体調がすぐれない中から、白頭庵氏はどこか高いところに逃避行の中から(もう帰ってきました?)、本質をついたご質問をどうもありがとうございます。

お二人の質問を読んでみて、研究発表の前に草稿を読んでもらうというのって、本当にいいなあと、このブログ研究会の効用を実感しております。

お二人の質問とも、実に重要な点に触れて下さっていますので、お答えを考えること自体が発表の大変有意義な準備になります。もうしばらくお待ち下さい。

今日は、飼っているカブトムシがたくさん卵を生んだことがわかり(その中の一部はすでに幼虫になっていた)、別の容器に入れ替えたりなんかしていて疲れてしまいました。

投稿: 桶川利夫 | 2006-08-30 23:18

白頭庵さんのキリスト教育論的解釈、リンドベックがそのような視点から論じているかどうかは桶川さんにお任せしまして、その問い自体が興味深いテーマだと思いますので、この場でちょっとコメントしたいと思いました。

たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたらどのように答えるべきなのか、という命題が社会的に流行った時期がありました。人(自・他を問わず)を殺してはいけない理由はいろいろと挙げられるでしょうが、最終的にはどの理由も、絶対的には説得力を持たないことが判明するものです。でも、この点に関して、クリスチャンには明確な答えが与えられているのです。人を殺してはいけないのは、「人を殺してはならない」と神の律法で定められているから、という理由で、クリスチャンには十分なのです。もしも「人を殺す」ことの是非が、人間の側の価値判断に委ねられてしまったら、問いに対する是非も含めて、それに対する理由が様々に出てくることは必定です。私自身、そのような問いに対して答えをどう考えてみても、「分からない」という結論にたどり着くのがオチです。でも、キリスト者である以上、「人を殺してはいけない」と神によって定められているのです。これ以上、明確な答えはないと思います。もっとも、その先には「それでも罪を犯してしまう」ことも可能性としてあり得ることは別の問題としても、です。

このような話を、いつかの説教の中で私はお話したことがあります。日本のプロテスタント教会の傾向の一つに、パウロは律法を否定している、とか、ルターは律法を嫌った、というように考えられているフシがありますが、私は、とくにパウロの方は、律法を否定していることはないのだと思います。

ま、それはともかくとして、「律法」と「律法主義」の違いなども、ここで思い起こしています。でも、私は流れを乱しているように思われますので、桶川さんは気になさらず、わが道を行ってくださいね。

投稿: トロウ | 2006-08-31 20:01

 「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、それは神の律法で定められているからとしか答えられない、とトロウさんがお考えなのはちょっと意外です。仰るとおり、それはリンドベックの考えに近いのだと思います。つまり、われわれは「人を殺してはいけない」とする言語ゲームのうちに生きているということです。

 この説には説得力があります。たとえば「なぜ殺してはいけないのか」という問いに対して答えを与えたとしても、子どもはそのような答えに納得するから人を殺さなくなるわけではないでしょう。子どもは端的に「人を殺してはいけない」という規則を含む言語ゲームを身につけてきたから、人を殺さないのです。だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという問題を議論することよりも、人を殺さないような子どもに育てることがはるかに大切なのです。

 それは全くその通りなのですが、しかし「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには答えがなく、それはただ神がそうおっしゃったからだ、あるいはそういう規則を持つ共同体にわれわれは属しているんだ、と言ってしまうことには不満が残ります。

 たしかにこの問いは、人が人として生きることの最低の条件のようなものに触れています。しかし、それならば、「人を殺すな」ということが、人間の最低の条件にかかわるような命令であることを示すような答えを探すことができるはずです。それらは結局、「この問いには納得できるような答えはない」という結論に終わる点では同じなのですが、問いを問うことによって、その問いに答えがないことの意味を、より体験的に納得できるということはあるのではないかと思うのです。

 なぜ、本来答えなければならない問題をほっといて、こんなことを答えているのかと言えば、授業で何回かこの問題を取りあげたことがあり、このブログでもそこで学生達と議論したことを話題にしようと考えていたからです。せっかくトロウさんがそのような話題を振ってくださったので、その構想を実現したいと思うのですが、今しばらくそんなことをしている場合ではありません。

 とりあえずはトロウさんと白頭庵さんの合計5つの問いに答えなければ。もう少しお待ち下さい。


投稿: 桶川利夫 | 2006-08-31 23:33


 返答が遅くなりました。実はトロウさんの最初の問い「トレルチとリンドベックの違い」について考えようと、トレルチの本などを読んでいたら引き込まれてしまっていました。これはいろいろと考えさせる問題で、本気で取り組めば面白いテーマになりそうですが、ここではとりあえずそこまで深入りはしないことにします。その他の問いも、考えている内に自分の理解の不十分さが露呈してくるようなものばかりで、返答が遅くなってしまいました。不十分なままではありますが、今の時点で言いうることを書いてみたいと思います。

①トレルチとリンドベックの違い
 トロウさんがご指摘のように、トレルチは晩年には文化的・宗教的な相対主義にたどりつきます。これは、あらゆる宗教に共通する宗教性を取り出すことも、諸宗教を比較して優劣をつけたりすることも出来ないことを自覚し、各宗教がそれぞれ個別に実現している価値をどこまでも個別のものとして尊重していくという立場だと思います。これは結論において確かにリンドベックに類似してます。

 しかし、リンドベックがトレルチと異なるのは、そうした結論をどのような方法論に基づいて導き出したかという点にあります。トレルチがこの結論に到達したのは、歴史的方法論の徹底によるものです。歴史学が方法論的に相対主義的な結論を導き出すことを最初から洞察していたトレルチでしたが、実際に世界の宗教史に対する具体的な認識を深めるにつれて、その相対主義的な態度をより徹底していき、遂に「歴史主義とその克服」における最後の表現に達しました。

 これに対して、てリンドベックの方法論は、歴史学というよりは人類学や言語学などに由来するものです。彼は例えば、人類学者ギアーツがギルバート・ライルの表現を借りて「厚い記述」(thic description)と呼ぶような方法に自分が依拠していると述べています。ある少年がまばたきをするという行為について考える場合、その行為の意味は、少年が属する文化全体によってはじめて規定されます。人類学者はこの行為の意味を明らかにするために、「もろもろの行為がそこにおいてサインとなる想像の宇宙について詳しく精通すること」(Ibid., p.115/邦訳216頁)を求められますが。神学者もキリスト教共同体について同じことをするというわけです。その他にイェール学派が好んで使用するのはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」理論です。宗教とはー種の言語ゲームであって、個々の宗教的な行為なり言明は、そうした言語ゲームによってはじめて可能になる。異なった言語ゲーム間の優劣を争うことが無意味であるのと同様、諸宗教間の優劣を争うことは無意味である。これがリンドベックの考察の筋道です。

 さて、トレルチの歴史的方法に基づく神学(ないしは宗教学)は、リンドベックから見ると典型的な「経験・表出」型となるでしょう。なぜなら、トレルチは宗教を何らかの宗教体験の表現と見る立場を晩年まで持ち続けたからです。たしかに、野呂先生も『キリスト教と民衆仏教――十字架と蓮華』に書かれているように、晩年のトレルチは当初使っていた「宗教的アプリオリ」という用語を使わなくなり、諸宗教に共通する宗教的な本質を取り出そうという試みを放棄するようになります。しかし、最晩年の草稿「歴史主義とその克服」には次のような文章があります。

われわれとまったく異なった文化的環境に置かれている他の人間集団が、全く異なった個性的な感じ方で神的生命とのつながりを感じ、われわれの場合とまったく同じように、彼らと一緒に生い育った宗教を持つ。(『歴史主義とその克服』大坪重明訳、理想社、1956年、131頁)

つまり、異なった諸宗教は、「神的生命とのつながりを感じ」るという体験を「異なった個性的な感じ方で」味わう、ということです。どれだけ歴史的な相対化が進んでも、宗教を何かの体験の表現ととらえるあり方はかわっていないのです。もともとトレルチの考える歴史的方法には、ディルタイ的な「共通の生」を前提とする過去との対話という要素が含まれており、その意味で彼の方法は「経験・表出」モデルでありつづけるということかも知れません。

 さて、こうした方法論上の違いは、同じような相対主義的な認識に達しながら、そこから異なった神学的帰結を引き出すことになるのではないでしょうか。トレルチの場合には、歴史主義の徹底が「教義学」の解体を導きます。彼は通所の意味で教会の実践に役立つ「教義学」は、歴史的方法と相容れないと考えています。彼の言う「神学」は、世界の宗教史の中でキリスト教という現象の相対的な意味を追求するという純粋に学問的なものであって、それ自体では教会の実践には使えない営みを意味していました。したがって、彼は歴史的方法論を採ることによって神学を放棄したわけではありませんが、少なくとも「教義学」を放棄したと言えるでしょう。

 それに対してリンドベックは、トレルチと同様に、キリスト教を世界の様々な宗教の中で相対的な一宗教と見なしつつも、そのようなキリスト教が共同体として持っているアイデンティティーを、内的に記述していきます。リンドベックにとってこれは、トレルチが言うように非学問的な行為ではなく、あくまでも学問的な行為として成り立ちます。それは、リンドベックが歴史学的方法とは異なった方法論を用いることで可能になったわけです。このように考えてみると、リンドベックはトレルチと同じ相対主義的な認識に立ちながら、トレルチが放棄したような意味での「教義学」を可能にするものとして考えられていると言えるかも知れません。

 リンドベックを含めたイェール学派全体に言えることですが、『教会教義学』のカール・バルトを理想的な神学と考えているところがあります。リンドベックはバルトの神学を、「認知・命題」型ではなく「言語・文化」型の神学と考えています。ちょっと大胆な言い方をすれば、トレルチの見解を受け容れざるを得なくなった世界で、いかにしてバルト神学が可能かという問いに答えようとするのがリンドベックの神学と言えるかも知れません。

 それにしても家にあるトレルチの本を読んでみて、改めてすごい思想家だなと思いました。リンドベックとの関係についてはもっと精密に研究してみる必要がありそうです。

②イェール学派は聖書をどのように扱うか。ファンダメンタリスト的でない聖書の読みとは具体的にはどのようなものか。

 歴史批評以前の聖書の「字義どおりの」読みについては、ハンス・フライが述べています。これについては研究発表では触れないと思いますが、博士論文の方で詳しく論じるつもりです。ここではその三つの特徴を簡単にまとめておきます。

 第一に、この読みにおいては、聖書の物語の字義通りの描写が同時に「歴史的生起」を示すものと受け取られます。しかしそれは、物語が正確な歴史学的報告であることの証拠として見られるということではありません。歴史批評によっては、テクストに残された証拠を検証していくという操作を媒介にしてしかテクストの示す「歴史的生起」を認めることができないが、前批評的な読みにおいては、字義どおりに読まれた物語そのものの「リアリスティックな」性格から直接に「歴史的生起」が読み取られるということをフライは、アウエルバッハの『ミメーシス』における聖書物語の文学的分析に依拠しながら述べています。もし「歴史」という概念を歴史批評が定義するような意味でのみうけとるのであれば、歴史批評以前の読みにおける「歴史的生起」は「歴史」ではないが「歴史のようなもの(history-like)」とでも呼ぶべきものであり、それは史的批判の示す「歴史」よりももっと「リアリスティックなもの」であるとフライは言います。

 これだけの説明では、それはレトリックにすぎないのではないかという気にもなりますが、次のように考えるとある程度納得できるのではないでしょうか。歴史批評が登場すると、聖書の物語が歴史学的に確認できる何らかの実在に対応しているかどうかという関心が生じてきます。そのような関心をいだいた上で、なお「文字通り」に固執しようとするなら、それは聖書の物語を考古学とか「創造科学」などの力によって証明しようとするファンダメンタリストの立場になるでしょう。しかし、フライが言っているのは、そうした歴史的関心が自覚されていないような意識において、聖書物語は「字義通り」に読まれていたということです。それは素朴な、しかし生き生きとした聖書の読みであると、私も思います。事実、歴史批評についてあまり知らず、それがもたらす問題について無自覚な多くのクリスチャンが、そのような読みによって信仰を維持しているのは事実です。それはファンダメンタリズムとは区別べきだと私は思っています。ただ、ひとたび歴史批評を知ってしまった人間が、そのような素朴さをそのまま回復できると考えるとすれば、それは欺瞞的ではないかという疑問があります。少なくとも私にはそれは出来ないのであり、私は、リクールの言うような「第二の素朴さ」(secound naivite)へと向かう以外にないと思います。

 さてフライの言う「字義どおりの読み」の第二の特徴は、歴史批評以前の聖書の読みにおいては、それ自体がいくつもの物語からなる聖書の世界が、「一つの累積的(cumulative)な物語」としてとらえられているということです。これは、「比喩形象化(figuration)」ないしは「予型論(typology)」による物語解釈の特殊な手法によって可能となります。 それは、先行する物語を「字義どおりの意味やその特定の時代的な指示を失うことなしに」、後続する物語の比喩形象とするものです。つまり、フライは、先行する物語の字義どおりの意味を全くそこなうことなく、それを解釈する方法を、この「比喩形象化」ないしは「予型論」という手法のうちに見出すわけです。それは「聖書物語の字義どおりの意味との葛藤のうちにあるどころか、字義どおりの解釈の自然な拡張である」と彼は言っています。

 第三に、「字義通りの読み」においては、聖書が描写する世界は、「現在の時代や読者のどんな経験をも包含する」ものであるとフライは言います。それは、「自分の時代の出来事と同様に、自分の性質、行動、情熱および自分の生の姿をも、物語の世界の比喩として見る」ということです。聖書の比喩形象化は、現代の読者にも及ぶわけです。こうして、歴史批評以前の聖書の読みにおいては、読者自身が聖書の世界に関わっていくことになるりますが、ライにとってはその関わり方の方向が重要であって、読者の世界観や人間理解を聖書におしつけるのではなく、むしろ聖書の世界のうちに読者が組み込まれるものでなければならないと主張します。

 歴史批評以前の聖書の読み方がこのようなものであったことは分かります。しかし、繰り返しになりますが、歴史批評が生まれてきたという事実、そしてトレルチが言うように歴史的思考法をわれわれは避けることができないという事実をどう考えるのか、という点がフライに対する大きな疑問です。フライは、歴史批評以前の聖書の読み方に帰ることが可能と考えているようですし、リンドベックの「言語・文化」型のアプローチは、その一つの可能性として示されているのですが、わたしはそれには無理があるように思います。

③リンドベックにおいて「キリスト教的」とは何か。

 私にとってもこれがイェール学派への根本的な疑問の一つです。したがって、彼らの側に立って、この問いに答えることはなかなか難しいことです。この問いについては、本文の記事の方をもう少し進めてからあらためて問い直すことにしたいと思いますが、ここではごく簡単にこうではないかということを述べておきます。

 彼らは歴史的研究によってキリスト教のアイデンティティーを求めるというやり方を取りません。歴史的にどういう経過をたどってきたかにかかわらず、現に「キリスト教」と呼ばれる現象が存在していることをわれわれは認めているわけですが、彼らの方法はそのような「キリスト教」を一つの言語ゲームとして考察するということだろうと思います。

 しかし、一口にキリスト教と言ってももちろん多種多様な教派があり、また「異端」と見なされるような人々もいます。そこで、何がキリスト教であって何がそうでないのかということを示すために、「キリスト教の本質」を定義するというやり方を、「言語・文化」型の神学はとりません。諸教派を貫く「キリスト教の本質」などないのであって、あるのは諸教派間の「家族的類似性」にすぎないと考えます。それは、互いがそれぞれどこか似ているが、その類似性を全てに共通する本質として取り出すことはできない、そういう曖昧なつながりが、「キリスト教」という名で呼ばれているということです。では、「キリスト教」という名で互いを呼び合う一群の人々の同一性はどこにあるのか。それは、互いがある一定の規則ないしは文法に従った行動や言葉を使っていることのうちにあると考えられます。したがってそのような規則ないしは文法を記述することで、「キリスト教」とは何かということに対して答えを与えることになるでしょう。

④リンドベックの主張は、教育論として読めるのではないか。

 最近、「キリスト教徒」になられたばかりの白頭庵氏だからこそ、この問いは貴重です。私などは牧師の息子ですから、キリスト教を伝えられたというよりは、それをしつけられた(「おしつけられた」ではなく)という方があたっています。回心のような体験もありましたが、キリスト教によって育てられていたからこそ、それがキリスト教的な回心の体験になったことは間違いありません。このようなキリスト教教育は是非とも必要なものであって、そういう教育が行われなければ、この日本という世俗社会にあってキリスト教が存続していくことはあり得ないと思います。日本の(とくにリベラルな)教会は、そういう教育を怠ったために、信者の子弟が教会に根づかず、取り返しのつかないことになっているのではないでしょうか。

 リンドベックの主張が教育論として読めるかどうかという問いに対しては、リンドベック自身が次のように言っています。「最も重要な知識は、宗教について(about)の知識でもなく、宗教がかくかくしかじかのことを教えるといったこと(that)についての知識でもない。それは、これこれの方法で宗教的になるときの、そのなり方(how to)についての知識なのである」( Lindbeck., p35/邦訳、60頁)。ですから、リンドベックは教育論として読めるだけでなく、教育論としてこそ読まれなければならないというのが答えではないでしょうか。

 ただ、リンドベックの教育論は「しつけ」にあまりにも力点を置きすぎているのではないでしょうか。人間には幼児期にはしつけが必要ですが、思春期には別のことも必要ではないでしょうか。リンドベックの神学では、宗教についての知識も、宗教が何を教えるのかについての知識も重要ではないとされています。しかし、キリスト教が何であり、それが何を教えるかを示してくれず、「神とは何か」、「人間とは何か」といった問い対して根拠を挙げて答えてくれないような神学には私には大いに不満です。私にとってそうした問いこそが「神学」の問いなので、私から見ればリンドベックの議論はかりに「教育学」であっても、「神学」ではなし、「教育学」として見ても不完全なものに思えます。

 「神学」という学問についてのイメージは人によって様々ですが、私から見ると「神学」とは危ない学問であって、信徒を健全なキリスト教徒にするために役立ものとは限らないものです。最初に神学を習った先生が悪かったのかも知れません。(笑)

⑤方法論的・形式論的偏重が起こることに自覚的であるはずだが、その点をどう回避するのか。

 白頭庵さんが「生き生きとした体験と学ぶに適した形式との両方が与えられていることが不可欠」とおっしゃるとおり、「体験」と「形式」は相互的な関係にあるべきものでしょう。リンドベックは「形式」が「体験」を可能にするという考えで、「体験」を軽視しているつもりはないのでしょうが、しかし、彼の理論では、「形式」さえ整っていればそこに「キリスト教」が存在することになるように思われ、「体験」が軽視されていると見られても仕方ないのではないかと思えます。

 さて、イェール神学はこうした方法論的・形式論偏重に、どうも自覚的であるようには思えません。もっとも「形式主義」というのは私がはりつけた批判的なレッテルであって、彼らから見ればそもそも「形式」と「体験」は切り離せないものであって、「形式」から離れて「体験」なるものがあるという立場をこそ彼らは批判しているわけでしょう。この点には私は同意します。しかし、どこかにそのような「形式=体験」を批判できる契機がなければならないはずです。しかし、それが彼において何なのかが私には見えてきません。

  この点に関し、私は記事の「つづき」で、リクールの聖書解釈学を取りあげながら少々論じてみたいと思っています。リクールはフライと同様に聖書物語への没入が、読者の体験(こういう言葉は使われませが)を変容させていくことに注目します。リクールは、一定の言述形式によって形作られるような「形式=体験」を批判する視点をどこに見出すべきでしょうか。私は、他の「形式=体験」ではないかと思います。

 リクールはフライとは異なって、聖書が多様な言述形式を持っていることを重視します。それは「物語」だけではなく、「預言」や「賛歌」や「知恵」を含んでいます。「物語」がある共同体の創始的出来事を語ることで共同体のアイデンティティーを基礎づける機能を持つのに対して、たとえば「預言」はそのような機能が同時に共同体のイデオロギーとして作用する危険を告発します。またリクールが「知恵」を重要視しているのは重要で、「知恵」が聖書の中にあることによって、共同体に特有の「物語」は、特定の共同体の外でも通用するような普遍的・哲学的な真理と関係づけられます。さらに言えば、リクールはこの言述の相互作用を、聖書外の様々な言述との間に置きます。そのことで、「形式=体験」ないしは「聖典=共同体」の循環は絶えず開かれたものになるのです。

 これに対して、フライやリンドベックにおいては、特定の「形式=体験」を揺すぶるような他の「形式=体験」に対して閉鎖的にならざるを得ず、そこに開かれた循環が成立していないように思われます。

 さて、まだ「つづき」を書いていないので、私の立場がどのようなものかが分かりにくいことと思います。「つづき」ではここで述べたようなことも考慮に入れつつ、イェール学派への批判やリクールとの比較などを行おうと思っています。ただし、本当に「つづき」を書けるかどうかは私にも分かりません。

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-01 23:59

トロウです。舌足らずの私の質問に対して丁寧にお答えくださり、恐縮です。桶川さんが答えてくださると、さらにまた、質問が増えました(もう、ええちゅうねん!)。桶川さんの「つづき」は学会当日でも聞けると思いますので、この場では、あってもなくてもいいです(笑)。なので、質問、というより感想を続けます。忙しいでしょうから、どうぞ無視してください。

イエール学派がバルトの『教義学』を理想としているようだという桶川さんのご指摘、実感としても理解できるような気がします。たとえばジョージ・ハンシンガー(George Hunsinger)氏のバルト研究などを眺めてみたりしても、その雰囲気が分かります。彼が、リンドベックと同じ学派と看做せるのかどうかは分かりませんが。ドルーでも、神学する=バルトを研究する、という選択しかありませんでしたから(いや、ホントに)。とにかく私には、イエール学派の立場がバルトのそれよりも、さらに危険なものを感じます。バルトの場合には、まだ「啓示」という、一応どのキリスト者にも共通に可能な体験が説かれていますが、イエール学派のように、キリスト教が言語ゲームによって体験可能なものであるということになると、キリスト教が単なる恣意的な、自己集団内における自己満足・自己陶酔的な宗教、つまりカルト的な宗教に成り下がってしまう可能性だってあると思われます。つまり、彼らの文化が彼らなりに「キリスト教的」であれば、極端な場合には、たとえキリストの啓示がなくとも、キリスト教になり得てしまうのです。

実際、私などからみると、「なぜこれがキリスト教なのか」「あなたがたの信仰には、キリストが必要とされているのか」としか思えないような信仰者たちの集まりで、彼らの自意識上では自分たちのあり方を、自信満々に「我こそがキリスト者なり」と看做している人々に、とくにアメリカで多く出会いました。アメリカと言ってもたかだか、東海岸+南部の一部の「キリスト教」ですが。歴史主義を失った神学の、末路だと思います。

投稿: トロウ | 2006-09-02 18:40

書き忘れました。失礼ながら、追加です。
さらに、このような神学が出てきた背景を、やはり考えざるを得ません。前に(―1)のコメントでしたか、私はアメリカ社会の「疲れ」を指摘しましたが、それを神学上の出来事に置き換えると、イエール学派の神学は、桶川さんのおっしゃるように歴史主義の克服を目指すものであると同時に、解放の神学へのアンチテーゼでもあるのではないかと思われます。私の実感としては。

投稿: トロウ | 2006-09-02 18:57

 Hunsinger氏は、Freiの遺稿集の編集者の一人ですから、イェール学派とのつながりは明らかです。

 トロウさんは、ご自身が体験されたアメリカの神学の雰囲気から、イェール学派の主張の出てきた背景を実感されているようですね。私はアメリカの状況をよく知らないので何とも言えませんが、おそらくトロウさんの推測は正しいのだろうと思います。

 トロウさんがイェール学派をお読みでない以上、トロウさんがイェール学派について抱かれる危惧は、私がイェール学派について抱いている危惧の(増幅された)反映に他ならなりません。その点、私の紹介の仕方が、イェール学派に対してフェアであるかどうかがやや心配です。

 私はイェール学派の評価に関しては揺れを感じていて、それこそ「こんなもの駄目だよ」と言いたくなるときと、「わかるな、その気持ち」という時とあります。優柔不断なんです昔から私は。しかし、野呂先生も言われていたように、あまりラジカルに立場を決めてしまうと、その先何もなくなっちゃうので、まだもうしばらくは揺れているだろうと思います。 

 

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-03 01:45

白頭庵です。質問への応答、ありがとうございます。

>「最も重要な知識は、宗教について(about)の知識でもなく、宗教がかくかくしかじかのことを教えるといったこと(that)についての知識でもない。それは、これこれの方法で宗教的になるときの、そのなり方(how to)についての知識なのである」

というリンドベックの言葉を読んで、ホワイトヘッドの次のような意味の言葉を思い出しました。知識と信仰ないし信念との違いを強調して、『形成途上の宗教』のなかで彼はこんなことを言っていました。

「諸君は算術を用いる。しかし諸君は宗教的である。」

算術なら、教えることも学ぶこともできます。それは、形式を学ぶこと、ある言語ゲームの規則に習熟することだからです。そうして習得した知識は、それを利用してさまざまな状況に対処することができます。

しかし、宗教は、その形式を学び、その言語ゲームの規則に習熟することだけでは足りないのです。言語ゲームの考えの最大の欠点は、「それを用いている人」と「まさにそれを生きている人」とを区別できないということではないでしょうか。

いかにして宗教の諸形式を用いるかということと、いかにして宗教的になるかということは、違うのです。たとえば、いかにして自己を超えた視座をもって状況に対処するかということと、いかにして自己を超えた視座に立つかということとは違うのです。後者を不問にして、前者だけを行うことも、形式に依れば可能なのです。敵を愛することはできなくても、敵を愛することができる人たちが行うような行動を形式的に実現することはできるかもしれないのです。そして、それは、宗教的であるということではないのです。言語ゲームの考えでは、その両者を区別することはできません。参加者が人間でなく、チェスをさすコンピュータのような存在であっても、ゲームはなりたつのです。ゲームに参加することと、自分がひとりの人間であることに対処することとは違うのです。前者なら、コンピュータでもできます。

宗教(の形式ないし言説ないし言語ゲーム規則)を用いている人と、宗教的である人とを区別できなければ、(罪の)自覚、救い、悔い改め、平安といった言葉の内実がなくなります。行動は同じでも、内実が違うのです。イェール学派に対する桶川さんの批判点もそこにあるのではないでしょうか。

ホワイトヘッドは「宗教とは、人間が孤独性に対処する仕方である」とも言っています。それがすべてだとは思えない面もありますが、形式のうちに魂を吹き込むのは、たとえばそういう動機だと思います。なによりも、そういう動機は、規則に従うだけでなく、新しい規則を生みもします。閉じた宗教と開かれた宗教の違いもそのあたりにあるのでしょうか。

勝手な感想を述べました。どこかで桶川さんの議論とつながっていたはずなのですが、どうもうまく討論にからめた発言ができませんでした。

投稿: | 2006-09-04 03:07

上のコメントに投稿者の名前を入れるのを忘れていました。すみません。

投稿: 白頭庵 | 2006-09-04 16:23

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