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2006-08-10

野呂―日比野論争(3)

 日比野氏がSMAPのヒット曲を引用しながら、「ナンバーワン」と「オンリーワン」の違いについて野呂先生に説明されたとき、先生は「ナンバーワンにならなくてもいい」ということに批判的であられたという。このエピソードがずっと気になっていた。なぜ先生はそうお考えなのだろう。

 ここで問題になっている点について少し確認しておこう。「ナンバーワン」とは、様々な花と比較した上でこの花が一番だということである。それに対して、「オンリーワン」とは、そのような比較がはじめから問題にならないもののことであって、私にとってこの花は取り替えのきかない唯一の存在であるということである。私にとって私の家族や友人、生活環境のすべて、人生全体は、そのようなものであって、そのような人生への態度において「ナンバーワン」をめざす必要はない、というのがこの歌の主旨である。(こんな風に歌詞を説明することは無粋ではあるが)。

 ところで、先の歌を初めて聞いたときに思い浮かべたのは、批評家の柄谷行人氏が『探求Ⅱ』(講談社)の中で述べていたことである。柄谷氏は、哲学は常に「一般性―特殊性」という軸で物事を考えるのに対して、「この私」はそのような軸によってはとらえることができないと言う。哲学が論じるのはいつも「私」一般であり、個々の「私」はそのような一般性に包摂される特殊性として扱われる。これに対して、「この私」は決してそのような軸では語れない。なぜならそれは、「普遍性―単独性」の軸のうちにあるからである。「ナンバーワン」というとらえかたは「一般性―特殊性」のカテゴリーに属し、「オンリーワン」というとらえ方は「普遍性―個別性単独性」のカテゴリーに属することになろう。

 大学院生の頃、はじめてこの議論に接したとき、我が意を得たりの感じを持ったことを覚えている。その頃、私はキリスト教の独自性の問題を考えていたが、キリスト教は私にとって取り替えのきかない唯一の宗教であって、他宗教と比較することはできないし、その必要ないと考えることは、この問題に対する一つの解決のように思われた。だが、この解決は、いわばキリスト教に「ナンバーワンにならなくてもいい、オンリーワンでいいんだ」と言うことである。そして、日比野氏の言わんとするところは、野呂先生の「諸宗教における百花寮乱の個々の花の美しさを尊ぶ態度」は、まさに「オンリーワンでいいんだ」という立場であるはずなのに、実際には先生はそこに満足せずに「様々な花の美しさの比較」によって「ナンバーワン」へと向かわれる、これは矛盾だ、ということである。氏はこう書いておられる。

率直に言って、私の目には、諸宗教の個別性を尊ぶ相対主義を主張しながらも、それに徹することなく、むしろ最終的には宗教の普遍性を求めてやまない――それが先生の立場であるように見える。……(中略)……個々の美しい花を愛でることに心から満足していれば、「接木」など余計なことではないか。「接木」とは本来、言わば「あれも―これも」というヘーゲル的欲望に基づくものに他ならない。

ここで、「宗教の個別性を尊ぶ相対主義」という言い方がやや気になるところだが、氏の疑問自体はよく理解できる。たしかに先生は、一方で宗教の個別の美しさを言いながら、他方でその個別性同志を比較してより優れたものを求めようとされる。そして一見先生の宗教への態度を擁護しているかに見えるSMAPの歌詞を批判されるのである。これは矛盾ではないのか。

 しかし、実は現在の私には、ある文脈で先生のお考えに共感できる面がある。先生のSMAPの歌詞に対する批判的は、もしかすると私がこの秋に開かれる学会で発表しようとしていることと関係があるのではないだろうかと思うのである。そこで私はフライやリンドベックなどのイェール学派の神学について扱おうと思っているが、彼らが志向しているのは、各宗教や宗派が、それぞれの個別性に自足しつつ、互いを排除しないで共存していくという方向である。この神学にとって、神学の課題は、自分たちの主張を命題として示すことでもなければ、他の宗教との共通の経験を探ることでなく、宗教共同体(教会)の生活形式、文法、言語ゲームなどを記述することにある。このイェール型の神学は、考えようによっては、まさに「キリスト教はナンバーワンでなくてもいい。私たちにとってのオンリーワンならそれでいい」という立場と言えるのではないか。そして、野呂先生が批判されるのは、このようなタイプの神学ではないかという気がするのである。

 私は先日、先生宅をお邪魔したばかりだから、先生の真意を問いただす機会はいくらでもあったのだが、他の質問も多くあったということもあり、まだお聞きしていない。だから、お聞きするまでは、自分の文脈で勝手な想像をしてみようと思う。これは私自身の研究発表のウォーミングアップでもある。公的な発表の前に屋根裏部屋で行う下準備を、少しでも他の研究者と共有することが、この研究会の目的の一つだったわけなので、今回は本番前に未整理な考えをここで発表し、みなさんのコメントをいろいろといただきながら発表の準備ができればと思う。

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コメント

トロウです。
野呂先生の「人生の諸段階(キルケゴール)について」Ⅰの補足、と言うとおこがましいにも程がありますが、野呂先生が日比野氏に応えていることの意味を、私なりに理解したことを述べてみます。

確かに日比野氏が「ナンバーワンとオンリーワン」の最後で述べられているとおり、スマップの例の歌に関する話は「気楽な雑談の中で」交わされた、たった一言、ふた言のものだったのです。そして、氏の言われるとおり、その場での先生の反応は「批判的」であると私も感じました。そしてその後、「人生の…」Ⅰでは野呂先生のそのときの思いが述べられています。そこでは、オンリーワンを尊ぶ姿勢は美的段階のものだという趣旨の論考が展開されています。ここでまず見落としてはならないのは、野呂先生にあっては、美的段階、倫理的段階、宗教的段階が弁証法的に、つまり次の段階が前段階を止揚するものとしてとらえられていない、という点です。それぞれの段階における実存のあり方は、次の段階へ向かう準備として価値があるのではなく、それぞれの段階には、それに見合った真理の方向があるのだということが、先生がこのスマップの歌への批判で示しているところだと思います。ちなみにこの点に関連して、拙ブログ記事「宗教間対話の可能性」の「主体的『受容』の態度」の節で、寛容と受容の違いについて思うところを述べたつもりです。

「オンリーワンを尊ぶ姿勢は美的段階に属するものだ」と先生が言ったとき、それは「美的段階にあっては、オンリーワンを尊ぶ姿勢であっていい」と言い換えられると思いますし、さらにそれは、「しかしその態度は、倫理的段階では通用しないし、ましてや宗教的段階では、そのような態度はあり得ない」ということではないでしょうか。日比野氏との話の中で、先生がオンリーワンの姿勢に「批判的」に反応されたことの意味は、「倫理的段階および宗教的段階にある人間にとっては」という前提抜きには語れないものなのだろうと私は理解しています。

では野呂先生の立場は、宗教的段階においてはやはり「ナンバーワン」を志向しているのではないか、という疑問は当然に出てくるでしょう。実際、日比野氏はこの点について、野呂先生の立場を批判なさっているのだと思います。つまり、野呂先生の目指すところは、結局のところ、キリスト教の絶対性が前提になっている議論ではないのか、ということです。

>率直に言って、私の目には、諸宗教の個別性を尊ぶ相対主義を主張しながらも、それに徹することなく、むしろ最終的には宗教の普遍性を求めてやまない――それが先生の立場であるように見える。(日比野氏)

>たしかに先生は、一方で宗教の個別の美しさを言いながら、他方でその個別性同士を比較してより優れたものを求めようとされる。(桶川氏)

このような、両氏による『十字架と蓮華』における宗教間対話における姿勢――それがN(野呂先生)のものであろうとA(謎の友人)のものであろうと――に対する解釈は、野呂先生に前提的な神学的立場、つまり先生が実存論的な立場から考察しているということが忘れられているように思います。

これは、「ナンバーワン」とか「絶対性」をどのように捉えるかという問題であると言ってもよいでしょう。野呂先生の言うナンバーワンとは、客観的に比較可能な意味でのナンバーワンではないのです。ですから先生の立場は、日比野氏が言う「最終的には宗教の普遍性を求めて」いるわけでもなく、桶川氏の言われるように「個別性同士を比較してより優れたものを求めようとされる」わけでもないのです。あくまでも、比較は実存・内で行われるものであって、もしそこから何かしらの普遍性が見出されるとしても、それは個人か、せいぜい広げてもセクト的な集団内における実存にしか通用しない普遍性でしょう。トレルチに関する先生の考察、特に同書「第三章(6)トレルチの三つの理念型と未来への予感」を、私はこんな風に理解しています。

NであれAであれどちらであっても、複数の個別の宗教はあくまでもその個別性を保ちながらも(つまり相対的な価値を保持しつつ)、NやAの実存にとっては「多」がそのままの姿を保ちながら、包括的な「一」を形成するのです。その場合、特にNにとっては、キリストの啓示が核となっていて、それをNにとっての限定的な「ナンバーワン」とか「絶対的なキリストの啓示」と呼んでも差し支えないでしょう。しかしそれがオンリーワンなのか、それともナンバーワンなのかという考察は、もはや言葉遣いの違いとも言えるでしょう。

投稿: トロウ | 2006-08-12 16:49

 桶川です。コメントをありがとうございました。

 ちょっとまずい書き方をしてしまったと反省しています。まず訂正からですが、記事の中で明らかに「単独性」と書くべきところを「個別性」と書いてしまっていた部分があったので、取消線で訂正させていただきました。また、トロウさんが引用された「先生は、一方で宗教の個別の美しさを言いながら、他方でその個別性同志を比較してより優れたものを求めようとされる」という私の文章も、まずい文章であったと反省しています。こちらは直すとややこしいことになるのでそのままにしておきます。

 トロウさんがご指摘下さった、「野呂先生に前提的な神学的立場、つまり先生が実存論的な立場から考察しているということ」について、私は忘れているわけではありません。むしろ、私が強調したいのはそのことであるつもりです。先に書いたものからもそのことはご理解いただけると思います。ただ、上の引用箇所のような書き方をしたのでは、確かにそのことを忘れていると批判されても仕方がないと思います。

 さて、「ナンバーワン」と「オンリーワン」ということの違いについて、もしかするとトロウさんと私とで異なった見方をしているのかも知れません。というのは、私の理解では、「ナンバーワン」とはヘーゲルのキリスト教理解を、「オンリーワン」とはキルケゴールのキリスト教理解を指します。それは、柄谷行人が次のように書いているような意味です。

>>したがって、ヘーゲルは、イエスにおいて概念が個体(特殊)において受肉すると考えた。しかし、キルケゴールは、類のなかで見られた個体性と、イエスという固有名において指示される単独性を区別したのである。(探求Ⅱ29頁)<<

 実存論的神学が、私が実存の中でイエスと出会うという場合、当然、単独性としての私が固有名としてのイエスと出会うということであるはずだと私は考えます。さらに言えば、ヘーゲルのようなイエスのとらえかたを宗教性A、キルケゴールのようなイエスとの出会いを宗教Bと考えていました。ただ、このような見方が正しいかどうかは、キルケゴールにあたって確かめなければなりませんが、図書館が休みでそれがかないません。ですから、その点については今は保留にせざるを得ません。

 さて、トロウさんの考えでは「オンリーワン」というのは、「美的段階」の態度だということです。確かに日比野さんは、「宗教の個別性を尊ぶ相対主義」と書いておられます。しかし、記事の中で日比野さんの表現に違和感を示しておいたように、私の考える「オンリーワン」とは、そういうものではありません。

 日比野さんの書き方だと、「オンリーワン」というのは、多くの花を俯瞰的に眺めながら、どの花もそれぞれに固有の美しさを持っているなあ、と感じるような立場ということになるでしょう。それは、自分はどの花の美しさにも肩入れすることなく、それぞれを同等に楽しむという意味で、美的段階と言いうるのかも知れません。(先にも述べたように、「美的段階」についてのキルケゴールの考えについては保留しなければなりませんが)。

 しかし私の考える「オンリーワン」とはそのようなものではありません。私は一つの花との運命的と言えるような出会いをし、その花を愛するのです。そのとき、その花を特に私が愛するのは、他の花と比較した上で客観的な判断を下した結果ではありません。それは比較ということとは無縁の行為なのです。私にとってのキリスト教とはそのようなものです。

 ただ、「オンリーワン」という立場は、その立場を客観的な立場から説明しようとすると、どの人もそれぞれに一つの花との運命的な出会いをしているので、それぞれが「オンリーワン」なんだということになり、それは一種の相対主義になってしまうものなのでしょう。「これこそが唯一のものだ」という思いは、それを根拠づけたり、客観的に説明しようとすると、たちまち相対主義や「あれもこれも」という美的な立場になってしまうのかも知れません。

 野呂先生の実存論的神学にとって、キリスト教とは、私の言う意味での「オンリーワン」ではないかと思うのです。しかし、もし「オンリーワン」を一種の相対主義と見なし、どの宗教もそれぞれがオンリーワンなんだからみんな同じように素晴らしいんだという立場と考えるなら、野呂先生がそれを批判される意味もわかります。そして確かに、スマップの歌詞はそのような相対主義と見えなくもありません。

 さて、私がこれから展開してみようと思っているイェール学派の立場も、私の言う意味での「オンリーワン」を追求しながら、それを理論化する過程で、実際には相対主義的な意味での「オンリーワン」になってしまう危険を持っているように思うのです。それは、他宗教と対話することを断念し、それぞれがそれぞれの「オンリーワン」に自足しようという提案のように私には思えます。

 しかし、私の考えでは、キリスト教が私の言う意味で「オンリーワン」であるということは、他の宗教との対話が不可能であるということを意味しません。むしろ、私にとって「オンリーワン」であるキリスト教が、他の宗教と「オンリーワン」の出会いをするということはありうると思うのです。他宗教との対話はそのように生じるのであって、それが「対話」ということの本質でなければならないと考えます。私は野呂先生の他宗教との対話のうちに、そのような意味での対話の本質があると感じ、先生がスマップの歌詞に批判的であられたということを、そういう観点から解釈したつもりでした。

投稿: 桶川利夫 | 2006-08-15 01:26

桶川さんが学会で取り上げようとなさっている「イェール学派」の考え方を、私はあまりよく知らないものですから、その方たちに対する桶川さんの批判がどのような立場からなされるのかが、私自身よく分からないままのコメントでした。それが誤解だというご指摘、大変失礼いたしました。

桶川さんがキルケゴールに再び当たる必要性を感じられているように、私もその必要性を感じています。何せ、これまでの議論だけでもキルケゴールの宗教的段階AやBに関して、日比野さん、野呂先生、桶川さんそれぞれが、さまざまな解釈をなさっていますから、いったい何がどうなんだか(笑)、といった感じです。で、この点に関して野呂先生は割とアッサリとしています。キルケゴールの言う「宗教的段階」について、その内容に関しては、彼が当時置かれた状況――当時のデンマークの国教会という環境の中で彼がキリスト教と出会ったということ、そして当時彼がどのような環境下で生活を送っていたかということ――を考えずして理解しえない、ということだそうです。(このところ、この問題はユーカリスティアの講座「現代神学の扉」で扱われています。桶川さんのみならず、多くの方々のご参加、お待ちしています!)つまり、キルケゴールの、宗教性に関する内容はもはや私たちの状況にそのまま当てはめることはできず、もしそれを使うのであればいわゆる「非神話化」の作業が必要だ、つまりそれらをどのように各自が解釈するのかを示さなければ通用しない、ということです。

桶川さんがどのようにオンリーワンを解釈なさっているか、ご説明でよく分かりました。ある宗教――たとえば桶川さんの場合にはキリスト教――が、単独者内においてオンリーワンの価値を持ち、それは他宗教とのオンリーワンとしての出会いを可能にするものである、というように私は理解しました。そしてさらに、今回の桶川さんのコメントから、次の2点の質問が沸いてきました。

①私の前出のコメントの最後の部分の繰り返しになりますが、この桶川さんの立場を表現するのに、「オンリーワン」「ナンバーワン」という表現では的確に表現しきれない部分があるのではないか、という点です。評価の基準を「単独者」に置けば、その人物にとってある宗教は、桶川さんのおっしゃるとおり「オンリーワン」となると思いますが、単独者の外側からそれを眺めた場合、つまり客観的には「ナンバーワン」だと映る可能性がありますよね。つまりどちらの側からその状態を表現するかによって、オンリーワン/ナンバーワンとの評価が変わってしまうと思うのです。

実存論的神学は、まさに実存論を扱う神学ですから、どちらかというと単独者の内側を問題にするわけですが、その場合、さらに次のことが問題になると思います。それはすでに桶川さんご自身が問題になさっていますが、

>私がこれから展開してみようと思っているイェール学派の立場も、私の言う意味での「オンリーワン」を追求しながら、それを理論化する過程で、実際には相対主義的な意味での「オンリーワン」になってしまう危険を持っているように思うのです。それは、他宗教と対話することを断念し、それぞれがそれぞれの「オンリーワン」に自足しようという提案のように私には思えます。

とあるところにあるとおりです。こうなってしまうともう、オンリーワンやナンバーワンという言葉ではこれらの問題点を表現しきれないのではないか、ということが、前のコメントの最後で「言葉遣いの相違」と私が述べた真意です。

②「イェール学派の立場」を私は知らないので、桶川さんの発表を待つべきなのかも知れせんが、これまでここで桶川さんが少し紹介してくださった範囲から出てきた私の質問です。イェール学派が「他宗教と対話することを断念し、それぞれがそれぞれの『オンリーワン』に自足しようと」提案しているとの桶川さんの分析から、この態度が現在のアメリカ社会から直接的に導かれている理論なのかなあ、という感想&質問を持ちました。言うまでもなく、アメリカ社会は「多」の共存――人種的、文化的、宗教的、(社会的)[←これがカッコ付きなのは?の部分が多いからです]…いずれにおいても――を余儀なくされている社会です。それは特にベトナム戦争以降、アメリカ社会に突きつけられた現実的問題と言えるでしょう。その中で、近年「あるべき態度」として提唱されてきたのは「他」を排除せず、さらに「自らのあり方」をも相対的な価値として捉え、それぞれの個別性を最大限尊重しようという姿勢だと思います。たとえば、私自身の経験をご紹介して、それを例にとって考えてみましょう。私の名前Masakoは、私が子供時代を過ごした70年代米国では、アメリカ人が発音しやすいように発音されるまま、saにアクセントが置かれて発音されました。それが90年代になると、日本人が発音するそのままの読み方が尊重されるべきだ、ということになって、本来の名前どおりに発音することがアメリカ人として「あるべき態度」とされました。

ところが、いわゆる英語を母語とするアメリカ人には、どうしても日本人のようには発音できないのです。言うまでもなく、日本人にとって「マサコ」はどこにもアクセントが置かれないのが正しいのですが、私がいくら「手本」を示しても、彼らはどうしてもアクセントのない発音ができないのです。

これはほんの些細な例に過ぎませんが、この例からお分かりのとおり、彼らの社会が、その中でも良心的な人ほど、多様性を受け入れようと涙ぐましい努力をしてきたと言えるでしょう。その努力自体は尊い、嬉しいと思いますが、実際のところ、冷たいようですが私の側から見るとあまり意味のあることではありませんでした。なぜなら、彼らの払った努力の結果として得られたのは、アクセントの位置が、saからMaへ移っただけで、20年をかけてこのような「試み」を経た後でも(同一の人物によって、ということではもちろんありません)、私の名前が正確に発音されることはなかったからです。つまりこの例が示しているのは、異質なものを異質なままで彼らの実存内に消化することができなかった、と言えるでしょう。

それで、私が肌身で感じた社会の「その後」に出現する社会のあり方が、もしかしたらイェール学派のような立場なのかなあと勘ぐっているのです。それは、これまでのリベラル・良心的なアメリカ社会からもたらされた必然的な反動、と言えるかもしれません。彼らはどうあがいても、Masakoをマサコと発音できなかったのです。それである人々は、マサコと正確に発音しようとすること自体に疲れたというか、そのような努力は無意味だという思いに至ったのではないか。しかし、かつてのように、いわゆるWASP的な価値が客観的に絶対だということはあり得ない。それで、この問題の解決のために、イェール学派がひとつの提案を試みているのではないか、と私は勘ぐっていますがいかがなものでしょうか。乱暴にたとえて言うならば、子供を蹴ったり叩いたり、直接的な暴行を与える虐待はよくないが、「無視(ニグレクト)」なら相手の領域を侵さずに自らを生かすこともできるから構わないだろう、というような感じでしょうか。まあ、全く見当違いのことを言っている気もしますので、その場合はお許しください。

投稿: トロウ | 2006-08-15 19:11

 昨日から熱が出てダウンしています。少しよくなってきましたが、まだ体力・気力とも回復していないので、簡単なコメントで失礼させていただきます。

 ①の「オンリーワン」と「ナンバーワン」という言葉では、これらの問題を表現しきれないのではないかという問いですが、その通りだろうと思います。ただ、いろいろなことを考えさせてくれる言葉ではあります。

 ②のイェール学派の社会的背景についてのご質問ですが、私はアメリカ社会のことをよく知らないので、何とも言えません。しかし、エキュメニズムや宗教間対話の問題に関しては、そういう解釈はありうるのではないかと思います。

 私はイェール学派を必ずしも全面的に否定しているわけではなく、エキュメニズムや諸宗教の対立を実際的に解決するモデルとしては有望なモデルかも知れないと思っています。ただ、神学の方法論としてこのモデルを使うことで失われるものは非常に多いと思います。発表のためにLindbeckの本(邦訳が出ています)を読み返していると、彼はそういう欠点を何とか補おうと努力しています。そのへんをどう評価するかが微妙なところです。

 ともかく、イェール学派について書かなければはじまらないと思うので、今日はこの程度にしておきます。

投稿: 桶川利夫 | 2006-08-17 00:37

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