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2006-08-28

神学の二つのモデル――(1)リンドベックによる類型化

 9月の学会発表の準備草稿をここで発表したいと言ってからだいぶ経ってしまった。私の前で発表されるPensie_logさんはすでにその草稿の一部をご自身のブログで発表されている。私もぼちぼちはじめたいと思うが、まず基本的なことから少しずつ書いていこう。あくまでも準備のための文章で、書きながら考えることになるので、手際よく話は進まないと思うが、そのほうがかえって面白いと思うのでそれでよしとしたい。

 発表で批判的に取り上げたいと考えているのは、「新イェール神学」とか「イェール学派」と呼ばれる現代アメリカ神学の一派である。その中の一人、リンドベック(George A.LIndbeck)の The Nature of Doctrine:Religion and Theology in the Postliberal Age, Philadelphia, The Westminster Press, 1984 が80年代後半から90年代にかけてアメリカの神学界に大きな反響を呼び、イェール学派の主張が広く知られるようになった。この本は、日本でも最近翻訳(リンドベック『教理の本質』星川啓慈訳、ヨルダン社、2003年)が出版されている。

 リンドベックの主張の日本での反響(と言っても、ごく小さなものだが)を見ていると、宗教間対話の問題に立ち向かわなければならないアカデミックな宗教学者と、ポストモダンの時代を生き抜かなければならない教会人との両者に好意を持って受け入れられているという点に、今までにない特徴があるように思われる。おそらくその理由は、リンドベックの提示する方法論が、自宗教を相対化しつつ、なお自宗教への帰属意識を保ち続けるという一見矛盾する課題を同時に実現することを約束してくれているように見えるからだろう。

 リンドベックは、『教理の本質』の中で、神学の三つのモデルを類型化している。彼の神学的発想自体は、イェール学派の中でずっと以前から主張されてきたことの整理にすぎないが、そうした主張の特色をこの類型論によって位置づけたところにリンドベックの貢献があろう。またこの類型論が、現代神学をめぐって多くの人たちが感じていたであろう問題点をうまく説明してくれたところが、リンドベックの議論がもてはやされた一つの理由であろう。しかし、そのことは、リンドベックの神学的な提案そのものを無条件に肯定できることを意味しない。

 そこで、まずその類型論を私なりに解説するところから始めよう。リンドベックの考察は、常にエキュメニズムの問題を念頭においたものである。教理の違いをめぐって対立する諸派が和解するための実際的な解決の道筋を示すことが目指されているように思われる。

 第一のモデルは、「認知・命題」モデルとも言うべきものであって、伝統的な神学が取ってきた立場である。それは、神学をある客観的な対象について知識を与える命題と見なす。神学をそのようなものと考えれば、神学命題(信条)の違いは決定的であって、その点で対立する諸派が一致することは、どちらかが相手を屈服させることなしには不可能となる。

 第二は、「体験・表出」モデルであって、宗教を何らかの宗教的経験の象徴的な表出と見なす立場である。宗教的象徴は異なってもそれによって表現されている体験は本質的に同じであるという考えに立つ。この典型はシュライエルマッハーである。教理や信条を二次的・派生的なものと見なし、その背後に命題化することのできない宗教的体験を想定する。そして、そのような体験の中にあらゆる宗教に普遍的なものを見いだす。リンドベックによれば、これが今日もっとも支配的な神学モデルであると言う。それらはあらゆる宗教に共通する経験を、「聖なるもの」(オットー)、「究極的関心」(ティリッヒ)、「実在」(ヒック)などとして定式化する。このような神学モデルによれば、教理の違いは対立の決定的な要因にはならず、教派間ないしは宗教間の対話は、互いに共通する体験を基盤にして促進されることが期待される。ただし、マイナス面もあって、そのように考えることで、一つの教派、一つの宗教のアイデンティティーが危機に陥る。たとえば、「キリストの復活」というキリスト教に独特の事柄が、「新しい存在」という一般的な宗教体験の象徴と見なされるとき、それは「信念と実践についての永続する共同体の規範となることは、おそらくありえない」(p.79/邦訳149頁)とリンドベックは主張する。

 上記二つの立場に対して、リンドベックが提示するのが、第三の「言語・文化」モデルである。これは宗教を言語やそれに対応する生活形式に類似するものとして理解しようとする立場である。宗教とは、「生活や思想全体を形作る、一種の文化的および/ないし言語的枠組みまたは手段」(p.33/邦訳54頁)であって、このような特定の言語・文化の使用が、特定の宗教経験を可能にする。「宗教的になるとは、所与の宗教の言語や象徴体系に熟達することを意味する」(p.34/邦訳57頁)。こうした捉え方によって、教理や神学的言説は、何らかの真理を指し示しているのでも、普遍的な宗教体験を象徴しているのでもなく、ある共同体における人々の行動・真理・言説に対して権威をもってはらたく規則のようなものととらえられ、それに従って行動することである一つの独特の生活形式を全体として可能にするものと見なされるわけである。この第三のタイプこそが、今日の世界において求められる神学の形であるとリンドベックは言う。

 さて、リンドベックがこの第三のタイプの神学を提唱するのは、それが諸教派間、諸宗教間の対立を克服する上で有効であると考えるからである。彼はこういう例を挙げている。「車は左側を走行せよ」という命題と「車は右側を走行せよ」という命題は、意味としては相反するものである。しかし、この二つの命題を、それぞれ一定の生活形式を可能にする規則と考えるなら、両者は決して対立することにはならない。一方はイギリスの道路交通を可能にする上で役に立っており、他方はアメリカの道路交通を可能にする上で役に立っているのであって、どちらが真理であるかを決定する必要は全くないというわけである。

 もし宗教をそのような規則としてとらえるなら、イスラム教にはイスラム教の規則があり、キリスト教にはキリスト教の規則があって、それぞれにそのような規則のおかげで可能になる独特の生活があるのだという理解が可能になる。それは宗教を「認知・命題的モデル」に従って理解した場合のように宗教間・教派間の深刻な対立を生まない。それでいて、宗教を「経験・表現的モデル」で理解した場合のように、その宗教の伝統的な形を喪失することなく、宗教共同体のアイデンティティーを保つことが出来る。宗教多元主義的な風潮によって揺らぎかけていたアメリカの多くの教会人にとって、リンドベックの提案する神学モデルは、保守的な信仰と現代社会の要請の両方に答えていくことの可能な、希望の持てるモデルと感じられたのであろう。

 私の考えでは、今日の宗教間の対立をめぐる状況を考えるとき、リンドベックが提示したモデルには、確かに他のモデルには無い実効性があるように思われる。たとえば、公平に見て現在もっとも深刻なのは、教派間や宗教間の対立ではなく、教派内部の、あるいは教派を越えた、原理主義とリベラル派との対立であろう。少々乱暴に言い換えるなら、それは第一の「命題―認知モデル」と第二の「経験―表出モデル」との間の対立である。キリスト教の中のリベラルな態度を取る人々が、キリスト教独自のある一つの象徴を、仏教とも共通するような普遍的体験に翻訳しようとするなら、それはキリスト教の中の原理主義的な態度を取る人々の支持を受けることは出来ない。どうしても対話を進めようとすれば、そういう人々を切り捨てなければならなくなる。異なった宗教のリベラル同士の間に対話が成立するのとひきかえに、互いの宗教の内部にリベラルとファンダメンタルという別の深刻な対立が生じてしまうのである。これは宗教間対話を考える場合の根本的なジレンマである。これに対して、第三の「言語・文化的アプローチ」によれば、諸宗教は対話しなければならない、一致しなければならない、という強迫観念から自由になって、互いが互いのルールの中で自足しつつ共存していく道が開かれているように見える。この立場に立てば、各宗教はファンダメンタリストを内部にかかえたままで、何とか他宗教と共存していくことができそうに思えるのである。

 しかし、こうしたエキュメニズムや宗教間対話におけるプラグマティックな実効性ということを超えて、この議論を神学のモデルとして支持できるかと言えば、否である。(つづく)

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