« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006-09-23

次元的思考

 学会での発表が終わった。私の前ではPensie_log氏が発表されたし、トロウ氏や吉田氏にもお会いすることが出来た。この研究会での議論のおかげで、かなりよく練った上で発表に臨むことが出来たと思う。屋根裏部屋から一気に表舞台へではなく、ひとクッション置くことは、やはりかなり精神的にも楽であった。トロウ氏やPensie_log氏から指摘を受けたように、課題はいろいろと残っているので、今後もこのテーマについては考えていくことになると思う。

 さて、それはともかく発表が無事終わった後、やや長い昼休みがあったので、会場を抜け出して少し散歩をしてきた。実はこの会場の近くに、トロウ氏がユーカリスティアのニュースレターで紹介されていた「実存論的神学発祥の地」とも言うべき場所があるのだ。野呂芳男『ジョン・ウェスレー』(松鶴亭、2005年)の中では、その場所について次のように描写されている。

 四谷への途上で、タクシーは必ずといってよいほどに赤坂見附で立ち往生した。今では高速道路が何層にも重なって上の方に通っているのだが、当時は平面上の交差点に五つほどの信号機があり、青に変わるのを待たなければならなかった。ところがある日、そこに高速道路が一つ、地面より高い空間に作られ、同じ平面を走っているのであれば互いにぶつかり合う事情が回避され始めた。このように上の方の道路が増えていくたびに、下の方の交通の便がよくなる。私はそれを見て、長い間考え抜いていた事柄の解決のヒントを得たのである。(『ジョン・ウェスレー』305頁)

これがいわゆる「次元的思考」(dimensiona thinking)という発想 176_7675_2 の誕生と なったエピソードである。私は先生のタクシーとはちょうど逆に、四谷から赤坂へ向かう川沿いの道を弁慶堀ぞいに歩いて行ったことになる。人通りのほとんどない歩道を首都高を上に見ながら行くと、やがて前方に見えてくる空間が赤坂見附の交差点である。

 この文章では、「次元的思考」は、ウェスレーにおける神の絶対的な恵みと人間の自由意志の働きとの関係を説明するものとして用いられている。つまり、人間の自由意志と神の恵みを同じ次元で考えると両者はぶつかってしまうのだが、もし神の恵みが高速道路を、人間の自由意志は下の道を走っているのだと考えるば、両者がぶつからずにすむ、ということである。

176_7686_2  『実存論的神学』(223頁前後)では、主に聖書の史的・批判的研究と信仰との関係を説明するために同じ発想が用いられている。聖書を他の資料と同様にどこまでも客観的に研究していくことと、聖書に描かれたメッセージを受け止めることとは別の次元の問題であると考えることで、歴史的思惟が信仰を破壊するという状況を回避することが出来る。聖書の歴史批判と出会って茫然としていた学生時代の私にとって、この教えが与えてくれた解放は大きかった。

 東京近辺に随分長く住んでいるが、自分をある意味で救ってくれた次元的思考の発想が生まれた場所を訪れるのは初めてであった。思えば、この交差点にさしかかる人や車は、それぞれ様々な目的や性質を持っている。それらがぶつかり合うこともなく、整然と流れていく様には確かに感心させられるものがある。胃潰瘍の治療のためにタクシーで病院へ向かう途中の先生にしてみれば、交差点を立体式にするという発想は、非常に便利に思われたに違いない。この見事な情景を写真に収めようと思ったが、全貌を視野に入れるような場所がなく、部分的な写真になって176_7691_2 しまった。

 ところで、このような次元的思考は、言わば聖域なき歴史研究を可能にする。世界史的次元においては、聖書は他のすべての文献と同じように扱われなければならないし、イエスはどこまでも一人の人間として探究されなければならない。これについて書かれている部分を引用しよう。

……イエスの世界史的研究だけは、他の世俗の出来事と違って、信仰的になされなければならないというならば、それは、キリスト教の教理上の仮現説(docetism)と全く同じことではないか。これは、受肉の事実の否定以外の何ものでもない。イエスの出来事が、真に人間の出来事であったと言うならば、明らかに、それは世俗の出来事なのであって、世俗の出来事を研究すると同じ方法論が、適用されるのが当然である。(『実存論的神学』238頁)

これは、学生の頃の私にとって、きわめて説得力のある言葉であったはずである。ただここで現在の私は「はっ」とするのである。この文章は「仮現説」への拒否が当然のように前提となっているのだが、昨今の先生は「仮現説」を必ずしも否定されない。とすれば、こうした箇所は現在の野呂先生の思想からはどのように理解すればよいのだろう。

 しかし、残念ながら今の私にその問題に取り組む余裕はない。この秋は個人的にいろいろな大事な課題が重なっていて、他のことが出来そうにない。しかし、年が明ければそれらが全て終わっているはずである。(そうであって欲しい)。その後は餅でも食いながらじっくり「後期野呂芳男問題」に取り組みたいと思っている。

| | コメント (1)

2006-09-07

神学の二つのモデル(4)――リクールの聖書解釈学の可能性

 ポスト・リベラルの神学は、フライにはっきりと見られるように、歴史主義や相対主義の中の時代にあって、素朴な聖書信仰やキリスト教共同体のアイデンティティーを何とか保持したいとという願いから生まれたものであろう。それが今日の神学に対して投げかけている問題意識を意識しながらも、先に挙げた難点の克服を検討しようとする場合、リクールの聖書解釈学が示唆する解釈学的神学の方向は検討するに価するように思われる。リクールの聖書解釈学もまた、ある意味では聖書の素朴な読みがいかに現代において可能であるかを課題にしていると言ってよい。しかし、リクールはフライのように「字義通り」の読みをそのまま現代に復活させることが出来るとは夢想しない。「批判後の時代」を生きるわれわれが持つことのできる素朴さは「第二の素朴さ」であって、「字義通り」の意味を越えて「象徴的」意味を受容することの中ではじめて可能になるものである。そこには、フライと問題意識を共有つつもフライとは異なった形の聖書解釈のあり方が示されている。

 ただ、リクールの解釈学はすでにフライによって「経験・表出」型の神学の典型として批判されているので、まずその点から検討しておくべきであろう。フライは、リクールの解釈学をシュライエルマッハーの解釈学の伝統を受け継ぐ点において「経験・表出」型の神学の典型として考えている。しかし、リクールは象徴の解釈学からテクスト解釈学へと展開する過程で、シュライエルマッハー的な解釈学を「ロマン主義的解釈学」として批判し、筆者と読者との「共通の生」ではなく「テクストが開く世界」に解釈の焦点を置くようになる。そこでは聖書言語は他者の宗教体験を表現したものというよりもむしろ、人が「住むことのできる世界」を提示するものとして理解されている。これはフライやリンドベックが追求するテクストが世界を吸収するという側面なのである。

 しかし、リクールの物語論がフライと異なるのは、物語が世界を吸収するという方向だけでなく、物語から世界へ、あるいはテクストから行為へというもう一つの方向がはっきりと描かれていることである。そのミメーシス論は、日常言語によって「先行形象化」された世界に生きるわれわれが、ある物語世界に没入することによってよって「統合形象化」されるという意味においては、リンドベックの言う「内テクスト的」なアプローチを包含していると言える。しかしリクールは、それに加えて、物語のうちで統合形象化された読者の世界が、現実の世界のうちで新たな行為を産みだしていく「再形象化」の段階をプロセスの最後に置いている。このことによって、聖書物語がいかに現実と関わるのかというフライやリンドベックには欠如しがちな課題に取り組んでいるのである。このように見るなら、リクールの解釈学を「経験・表出」型というカテゴリーとして単純に批判することが出来ないばかりではなく、フライやリンドベックの「言語・文化」型の神学の要素をも持ちつつその欠点を補おうとするものであることが分かる。

 リクールの解釈理論がフライやリンドベックより優れている点はそれだけではない。フライやリンドベックの「内テクスト性」の概念に対して、リクールが支持する「間テクスト性」(intertextuality)の概念は、同じように文化と言語との密接な関係を認識しながらも、一つの文化=言語が持ってしまうイデオロギー性を批判することのできる原理を持っている。フライらの「物語神学」が、聖書の多様な言述形式の中から、共同体のアイデンティティー形成の基礎となる「物語」ジャンルを特権化するのに対して、リクールの聖書解釈学では聖書の多声性が重んじられ、いくつかのジャンルの並列が重要な役割を果たしている。たとえば、共同体の歴史物語に基づいて現在の共同体のあり方を正当化する傾向のある「物語」ジャンルに対して、共同体のあり方を厳しく批判し、その先に新たな共同体のあり方を志向する「預言」のジャンルは、聖書解釈にイデオロギー批判の視点を与えてくれる。また、リクールは、共同体を超えた普遍性を提示する「知恵」などのジャンルを重視するが、それは「知恵」が聖書自体が普遍的な人間経験への志向性を持っていることを示しているからである。フライに少なからず影響を受けたアメリカの「物語神学」には、福音は哲学的な概念とは関係を持つべきではないとする傾向があるが、リクールはこれを批判し、聖書をある共同体のメンバーにのみ通用するような特殊用語にしないためには、概念化への運動を切り捨てるべきではないと主張している。

 最後にフライやリンドベックらに向けられた「キリスト教」とは何かという問題がある。リクールは、物語神学が「聖書物語」をもっぱら「キリスト教的範例」(Christian patern)としてのみ用いようとする傾向に対して、そのような範例が形成されるのは物語的創造がすでに止んでしまった時であるということに注意を促している。リクールにおいても、ある文書群を「正典」とするのは「共同体」である。つまり、「正典」と「共同体」の間には循環の関係が存在する。しかし、それはフライやリンドベックの考えるような閉じられた循環ではない。周辺文書や他の文化に属する文書などが正典文書との間に作り出す緊張が、常に批判的な視点として作用するものと考えられているのである。

 リンドベックの提示した類型論は、これまで気づかれつつも明確にされていなかったポスト・モダンにおける神学のあり方をめぐる問題を意識化させてくれたという点において評価されるべきであるが、これを安易に用いることは危険であるし、また彼らが推奨する「言語・文化」モデルに根本的な欠点があって、リンドベック自身も認めているようにその有効性は相対的なものに過ぎない。特にそれが相対主義的な世界観を受け入れてしまった上で、教会共同体の内部に自閉しようする傾向を持っている点を見逃しにすることは出来ない。

 以上で、研究発表の準備草稿は終わりである。最後の2回はほぼそのまま当日の発表原稿になるだろう。25分という時間内に収めなければならないので、まるで骨組みだけのような文章になってしまい、自分でも何とも味気なく感じる。特に、リクールとフライを比較する必然性などは、聴いている人には分かりにくいところがあるだろう。ともかく、みなさんにどんどん容赦のないご批評いただいて(少しくらいは容赦もしていただきたいが)、発表に役立てたいと思う。

| | コメント (10)

神学の二つのモデル――(3)ポスト・リベラル神学への批判

 リンドベックの主張が、これまでの宗教学や神学の理論には無かった視点を与えてくれた点は評価されるべきであり、それが宗教間の協調において何らかの役割を果たすであろうことは期待できよう。しかし、リンドベックはエキュメニズムや宗教間協調におけるプラグマティックな実効性を越えてそれを一つの神学的立場として提示し、自由主義神学の後に来るべき神学と言う意味で「ポスト・リベラル神学」と呼ぶとき、この神学に対するいくつもの疑問が生じてくるのを禁ずることが出来ない。

 第一に、リンドベック自身が認めているように、それはキリスト教神学を自己閉鎖的で翻訳不可能な言語にしてしまうのではないかという疑念がある。それが異なった主張を持つ宗教間の対立を回避させるのは、互いの主張を検討し合うための共通の地盤を放棄するという犠牲と引き替えにである。それは、他者との「共存」の為に他者との「対話」を犠牲にすることではないのだろうか。

 第二に、そのことと深い関係にあるが、このモデルは真理問題を捨象してしまうように思われる。聖書物語が形象化するリアルな世界は、どのようにわれれの日常世界に関わるのであろうか*1。フライは聖書の世界が現実世界を吸収すると言うが、われわれの世界を構成する複雑で多岐にわたる次元に対して十分な考慮がなされているとは思えない。それは結局、ある共同体の中でのみリアルと認められるにすぎないのではないか。このような立場は、一種の「かのように」(als ob)の立場と見なされてもしかたがないのであって、教会の内外にいる者にとってキリスト教を絵空事にしてしまう危険を持っている。

 第三に、ポスト・リベラル神学は、共同体の言語・文化の適切性についての批判的な観点を欠くことにならないだろうか。フライは「物語」(narrative)という概念にいちはやく注目し、「物語神学」の源流の一つとなった人物であるが、物語がキリスト教共同体のアイデンティティー形成に重要な役割を果たすという側面のみを強調し、それが同時に個人や共同体の自己正当化のためのイデオロギーとなるという側面をあまり見ようとしない傾向にある。「物語神学」にとって「物語批判」の契機をどこに見出すかは重要な課題であろうが、フライの神学はそれに対して示唆を与えてくれるものではない。

 第四に、ポスト・リベラルの方法は、宗教活動の最も生き生きとした場面を考察の対象からはずし、もっぱらその文化的沈殿物に考察を集中しているように思われる。「言語・文化」型の宗教理解は、宗教体験を可能にする言語に注目するが、そこでは言葉と体験が同時発生的に生じる言述の出来事に対する関心は禁じられ、ひたすらそのような出来事の沈殿物にすぎない言語体系だけが考察の対象となるっているのである。

 第五に、ポスト・リベラル神学は、キリスト教的な共同体のアイデンティティーを記述することを神学と考えるが、その際、何をもって「キリスト教的」とするのかが不明瞭である。この点についてはトロウ氏から指摘のあったところであり、私も同じ点について「正典をめぐる循環」(『キリスト教学』第47号)に書いている。イェール学派が共通して関心を持つ「正典」(canon)という概念は、本来歴史的に形成されたものであり、現在の形の正典の妥当性に関しても議論の余地があるはずである。しかしながら、彼らの「正典」理解は、キリスト教の共同体によって現に認められているものが正典であるという同語反復的なものであり、そこに議論の可能性ははじめから排除されている。これは、正統が異端を排除していった過去のキリスト教のありかたを、無条件に肯定してしまうことになるのではないか。

 第六に、仮に上のような批判をすべて承知の上で、現在の欧米のキリスト教社会を維持するという関心から、こうしたモデルが有効であると考えられるとしても、それは日本のような非キリスト教社会においてキリスト教を信仰する意義を示すことができるだろうかという問いがある。

 最後に、こうしたタイプの神学に対して、もう一つの神学モデルとしてリクールの聖書解釈学を取りあげたい。(つづく)

| | コメント (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »