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2006-09-07

神学の二つのモデル(4)――リクールの聖書解釈学の可能性

 ポスト・リベラルの神学は、フライにはっきりと見られるように、歴史主義や相対主義の中の時代にあって、素朴な聖書信仰やキリスト教共同体のアイデンティティーを何とか保持したいとという願いから生まれたものであろう。それが今日の神学に対して投げかけている問題意識を意識しながらも、先に挙げた難点の克服を検討しようとする場合、リクールの聖書解釈学が示唆する解釈学的神学の方向は検討するに価するように思われる。リクールの聖書解釈学もまた、ある意味では聖書の素朴な読みがいかに現代において可能であるかを課題にしていると言ってよい。しかし、リクールはフライのように「字義通り」の読みをそのまま現代に復活させることが出来るとは夢想しない。「批判後の時代」を生きるわれわれが持つことのできる素朴さは「第二の素朴さ」であって、「字義通り」の意味を越えて「象徴的」意味を受容することの中ではじめて可能になるものである。そこには、フライと問題意識を共有つつもフライとは異なった形の聖書解釈のあり方が示されている。

 ただ、リクールの解釈学はすでにフライによって「経験・表出」型の神学の典型として批判されているので、まずその点から検討しておくべきであろう。フライは、リクールの解釈学をシュライエルマッハーの解釈学の伝統を受け継ぐ点において「経験・表出」型の神学の典型として考えている。しかし、リクールは象徴の解釈学からテクスト解釈学へと展開する過程で、シュライエルマッハー的な解釈学を「ロマン主義的解釈学」として批判し、筆者と読者との「共通の生」ではなく「テクストが開く世界」に解釈の焦点を置くようになる。そこでは聖書言語は他者の宗教体験を表現したものというよりもむしろ、人が「住むことのできる世界」を提示するものとして理解されている。これはフライやリンドベックが追求するテクストが世界を吸収するという側面なのである。

 しかし、リクールの物語論がフライと異なるのは、物語が世界を吸収するという方向だけでなく、物語から世界へ、あるいはテクストから行為へというもう一つの方向がはっきりと描かれていることである。そのミメーシス論は、日常言語によって「先行形象化」された世界に生きるわれわれが、ある物語世界に没入することによってよって「統合形象化」されるという意味においては、リンドベックの言う「内テクスト的」なアプローチを包含していると言える。しかしリクールは、それに加えて、物語のうちで統合形象化された読者の世界が、現実の世界のうちで新たな行為を産みだしていく「再形象化」の段階をプロセスの最後に置いている。このことによって、聖書物語がいかに現実と関わるのかというフライやリンドベックには欠如しがちな課題に取り組んでいるのである。このように見るなら、リクールの解釈学を「経験・表出」型というカテゴリーとして単純に批判することが出来ないばかりではなく、フライやリンドベックの「言語・文化」型の神学の要素をも持ちつつその欠点を補おうとするものであることが分かる。

 リクールの解釈理論がフライやリンドベックより優れている点はそれだけではない。フライやリンドベックの「内テクスト性」の概念に対して、リクールが支持する「間テクスト性」(intertextuality)の概念は、同じように文化と言語との密接な関係を認識しながらも、一つの文化=言語が持ってしまうイデオロギー性を批判することのできる原理を持っている。フライらの「物語神学」が、聖書の多様な言述形式の中から、共同体のアイデンティティー形成の基礎となる「物語」ジャンルを特権化するのに対して、リクールの聖書解釈学では聖書の多声性が重んじられ、いくつかのジャンルの並列が重要な役割を果たしている。たとえば、共同体の歴史物語に基づいて現在の共同体のあり方を正当化する傾向のある「物語」ジャンルに対して、共同体のあり方を厳しく批判し、その先に新たな共同体のあり方を志向する「預言」のジャンルは、聖書解釈にイデオロギー批判の視点を与えてくれる。また、リクールは、共同体を超えた普遍性を提示する「知恵」などのジャンルを重視するが、それは「知恵」が聖書自体が普遍的な人間経験への志向性を持っていることを示しているからである。フライに少なからず影響を受けたアメリカの「物語神学」には、福音は哲学的な概念とは関係を持つべきではないとする傾向があるが、リクールはこれを批判し、聖書をある共同体のメンバーにのみ通用するような特殊用語にしないためには、概念化への運動を切り捨てるべきではないと主張している。

 最後にフライやリンドベックらに向けられた「キリスト教」とは何かという問題がある。リクールは、物語神学が「聖書物語」をもっぱら「キリスト教的範例」(Christian patern)としてのみ用いようとする傾向に対して、そのような範例が形成されるのは物語的創造がすでに止んでしまった時であるということに注意を促している。リクールにおいても、ある文書群を「正典」とするのは「共同体」である。つまり、「正典」と「共同体」の間には循環の関係が存在する。しかし、それはフライやリンドベックの考えるような閉じられた循環ではない。周辺文書や他の文化に属する文書などが正典文書との間に作り出す緊張が、常に批判的な視点として作用するものと考えられているのである。

 リンドベックの提示した類型論は、これまで気づかれつつも明確にされていなかったポスト・モダンにおける神学のあり方をめぐる問題を意識化させてくれたという点において評価されるべきであるが、これを安易に用いることは危険であるし、また彼らが推奨する「言語・文化」モデルに根本的な欠点があって、リンドベック自身も認めているようにその有効性は相対的なものに過ぎない。特にそれが相対主義的な世界観を受け入れてしまった上で、教会共同体の内部に自閉しようする傾向を持っている点を見逃しにすることは出来ない。

 以上で、研究発表の準備草稿は終わりである。最後の2回はほぼそのまま当日の発表原稿になるだろう。25分という時間内に収めなければならないので、まるで骨組みだけのような文章になってしまい、自分でも何とも味気なく感じる。特に、リクールとフライを比較する必然性などは、聴いている人には分かりにくいところがあるだろう。ともかく、みなさんにどんどん容赦のないご批評いただいて(少しくらいは容赦もしていただきたいが)、発表に役立てたいと思う。

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コメント

白頭庵です。議論の全貌がついに出ましたね。

全体を読んでみて、まだ十分に咀嚼していませんが、桶川さんの論点が(遅ればせながら)見えてきました。リンドベックおよびフライの新イェール学派が提唱する「ポスト・リベラルの神学」とリクールの聖書解釈学の神学的立場とを対比しつつ、(4)のリクール論でリクール神学の創造的な神学言語を浮き彫りにするのが、この論文の狙いだったのですね。

論文の標題が「神学の二つのモデル」から「神学言語の二つのモデル」に変わっていますが、予定されている発表の標題は後者なのでしょうか。後者の題は、(3)と(4)の議論の主旨をよく示していると思います。

質問というより、まず、感想を言わせていただきます。

面白いです。いい意味で、とても、面白い論文です。

リクール神学の現代的な意義が、はっきりと見えてくる論文だと思います。新イェール学派の神学が、宗教多元的状況において、「わしらも他人のこと、とやかく言わんから、あんたらもわしらのこととやかく言わんと、それぞれにそれぞれの言語ゲームをしようや」といった感じの、ある意味で思考停止した閉塞状況を肯定するような方向に向かいがちなのに対して(言い過ぎですか)、リクールの立場は、キリスト教の自己同一性に対して常に緊張をもって批判的に向きあいつつ、創造的に言葉を(あるいは物語を、そして生を)生み出していく、という対比が見事です。

ただ、ひとつだけ、小さな不満があります。僕のような門外漢で理解の遅い輩にとっては、(3)の六つの批判点は、より詳しい解説が必要のようです。もちろん、論文の(1)と(2)、およびコメントでの議論でかなり補足していただいておりましたので、悪いのはリンドベックやフライを読んでいない不勉強な僕なのですが・・・

学会の発表時間の制約や、ブログでのプレ発表という形式を考えれば、ここまで明確に表現された桶川さんの手腕に感服します。この小さな不満は、結局、僕の不勉強から来たもので、桶川さんの議論が悪いのではありません。

いくつか質問が出てきそうなのですが、リンドベックを注文したところですので、桶川さんの論文を読みながら、もう少し時間をおくことにします。

投稿: 白頭庵 | 2006-09-08 01:36

桶川です。

とても嬉しい感想です。おっしゃるとおりで、もともとアメリカでのリクールの評価について考えている途上で、物語の神学やイェール学派のことを知ったので、私の一番の関心はやはりリクールとの違いという点にあります。リクールが何でないか、ということを考える上で、イェール学派の神学は私に多くを教えてくれています。

六つの批判点が簡単すぎる点は、その通りだと思います。学会発表はこれ以上は長くできませんが、ここでは時間は無限ですので、おいおい補足していくつもりです。

タイトルは直しました。学会発表でのタイトルは「神学言語のの二つのタイプ」です。副題は、ずっと前に申し込んだ時には「解釈学と言語ゲーム理論」としていましたが、レジュメを贈るときに「解釈学的神学と新イェール神学」に変更しました。「リクールの聖書解釈学と新イェール神学」の方が良かったのではないかと今では思っています。ようするに、広げすぎたふろしきを、どんどん小さくしていっているわけです。

最初は二つの神学のタイプの違いを、解釈学と言語ゲーム理論の違いとして考えてみると面白いかな、と思っていたのですが、それを展開する余裕は結局ありませんでした。それは今後、ここで「屋根裏」的にやっていければと思います。

「わしらも他人のこと、とやかく言わんから、あんたらもわしらのこととやかく言わんと、それぞれにそれぞれの言語ゲームをしようや」というのは決して言いすぎではなく、リンドベックの主張から私が感じる率直な印象です。

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-09 00:17

リクール(+トレーシー)とフライの比較という研究では、既にコムストックの非常に優れた研究がありますね。曰く、「物語に意味が内在すると考える『純粋な』ナラティヴィストのフライに比べ、リクールは解釈学的循環を認める『不純な』ナラティヴィストであるが、そうであるが故に、純粋なナラティヴィストとは異なり、理論的破綻を免れている」と。

ただ、個人的な印象なのですが、リクールにしても、リンドベック・フライにしても、いずれの議論でもある一つの決定的な事象に対して、あまり説得的な説明ができないという気がしました。それは、「聖書を読んでも、全然何の触発も受けない人が存在しうる」という事象です。

イェール系であれば、一見すると、その事象に対して「それは言語ゲームが異なるからだ」と説明できそうな気するのですが、そう言って言語ゲーム同士の共約不可能性だけを強調すればするほど、「でも、何故かたまにはキリスト教言語ゲームへ新規参入する人も存在しうる」ことが説明できなくなる。従って、その説明は明らかに破綻してしまう。

他方、リクール解釈学の場合、テクスト世界が開示されても、その世界に住まわない自由、つまり、その世界の前で自己理解しないで、その世界をなかったことにする自由が存在するはずです。リクール聖書解釈学の場合、まるで、世界が開示されたら誰でもその世界との解釈学的自己理解&自己批判のプロセスに巻き込まれていくかの如く記述されるのですが、それはやはり上記の事象を考えると、あまり現実的ではない。となると、(時々指摘されることですが)リクール解釈学は結局のところ「理想的な読者共同体」をモデルとし、また、そこにおいて起こることのみの理論に終始してしまっているのではないか…

というのが私の疑念です。その意味において、桶川さんが正しくも指摘された「特にそれ[イェール系のモデル]が相対主義的な世界観を受け入れてしまった上で、教会共同体の内部に自閉しようする傾向を持っている点を見逃しにすることは出来ない」という指摘は、実はリクールとて免れえないのではないかと感じます。(また、たとえば聖書をinter-textualに読むことを前提とする時点で、「聖書を広く沢山読む《真面目で熱心な》読者」がリクール解釈学の前提となっています)

こうした意味において、「成功した読解」「理想的な読者」から論を組み立てていくという点で、両者は厳しい意味での「ポストモダンの宗教状況」には対応しきれないという限界を感じてしまうのは私だけでしょうか。

投稿: pensie_log | 2006-09-09 02:18

 桶川です。Pensie_logさん、お忙しい中、たいへん刺激的なコメントありがとうございました。リクールを熟知している方のご意見だけに重く受け止めています。

 フライとリクールの比較の研究はいくつか目を通したのですが、コムストックのその論文は読んでいませんでした。かなり早い時期に両者の異同に注目した論文のようで、真っ先に参照すべきものでした。早く図書館で手に入れなければ……。

 さて、「聖書を読んでも、全然何の触発も受けない人が存在しうる」という事象に対して、リクールは答えられないというPensie_logさんの問いですが、全くその通りだと思います。もともと解釈学だの文芸理論だのというものは、テクストに触発されるという出来事に対して常に事後的に生じるものです。それらの理論が妥当性を持つと言えるのは、そのような触発が事実すでに起こっているからに過ぎません。ですからリクールの理論は、聖書を読めばそのような出来事が起こる必然性を論じているわけではないと思うのです。なぜかそういう事態が生じる。少なくとも自分には生じた。その事実を後から反省しているのです。

 なぜ、他の書物ではなく聖書がそのような事態を引き起こすのかは謎です。リクールの理論からは、聖書でなければならないという理由はもちろん発見できません。他の様々な宗教聖典でもいいはずです。しかし、リクールはどういうわけか聖書を選んだ。それはリクールが聖書を自然に選ぶような環境に育ったためだったのか、それとも、そうでもなかったのだが、たまたま聖書とのよい出会いがあったのか、それは分かりません。それは、私が他の人とでなく「この」人との出会いを説明できないのと同じでしょう。「なぜ聖書?」と言われれば、「そこに聖書があるから」としか言えないのであって、それは「なぜ私がここにいて、あそこにいるのではないのか」という問いが謎であるのと同じように謎なのではないでしょうか。リクールが聖書を特権化しているように見えるのは、リクールにとってそれがたまたま特権的であったからであり、彼の理論はその特権性を説明するものではありません。ただ、解釈学は何かを特権化する中ではじめて始まるものであるということは言っていると思います。

 「テクスト世界が開示されても、その世界に住まわない自由、つまり、その世界の前で自己理解しないで、その世界をなかったことにする自由」は当然存在します。ところがリクールでは、「世界が開示されたら誰でもその世界との解釈学的自己理解&自己批判のプロセスに巻き込まれていくかの如く記述される」という印象が確かにあるかも知れません。しかし、それは先に述べたように、おそらくリクール自身のうちに既に起こっている事態を前提にしているからであり、リクールの哲学はそのことに自覚的ば哲学だと思います。加えてリクールの聖書解釈に関する論文の多くは、そのような事態が生じることを前提にした人々(神学校の教師や学生とか、聖書学や神学の学者グループなど)に対して書かれているという事情もあるでしょう。

 ですから、リクールが「聖書を広く沢山読む《真面目で熱心な》読者」を想定していることは確かです。逆に言えば、聖書の一部を時々つまみ食い的に参照するような読者を想定してはいません。どんなテクストを読む場合でも、そういう断片的な読み方は可能だし、それがいけないということでもないでしょう。ただ、そういう断片的な読み方によっては、キリスト教神学の基礎としての聖書解釈にならないのもまた当然のことです。

 ではリクールが想定するような奇特な読者はどこにいるかと言えば、それは「聖書」を読むに価すると考えてるばかりではなく、他のいかなる文書以上に読むに価すると考えているような共同体にいるのでしょう。ここにもやはり、聖書が共同体を養い、共同体が聖書を読む態度を養うという循環があります。たとえば、子どもの頃から聖書を最重要テクストと考える家庭・教会の中で育った私だから、いろいろな本を読むようになっても、聖書にいつまでもこだわっているわけで、聖書と無縁な環境に育った学生に、聖書がいかに重要であるかをいくら教えても、まず彼らは聖書を読むようにはならないでしょう。

 このことを考えるとき、聖書は共同体の中でのみ「聖書」として読まれるというイェール派の主張にも妥当性があることを認めなざるを得ないのですが、問題は、そのような聖書の読みが「教会共同体の内部に自閉しようする傾向」となるか否かです。私の考えでは、リクールの想定している共同体は、フライやリンドベックはとは違って開かれた共同体です。もちろん共同体である以上、そうした共同体の外で聖書を読む場合とは異なった読み方になります。しかし、その場合にも、共同体の外での聖書の読みや、聖書外のテクストの読みは排除されることはないのです。私は確かに聖書を最重要テクストと考える家庭に育ちましたが、別のテクストも参照してきました。貧しい読書経験に過ぎませんが、それらは時に聖書の特権性を時に脅かしたし、今でも脅かし続けています。しかし、それらは聖書を基礎にした信仰にとって脅威であっても、そのような脅威にさらされることで信仰は豊かになっていく気がします。フライやリンドベックの理論とは違って、リクールの理論はそういう聖書の読み方を説明してくれるのです。

 おっしゃるように、フライやリンドベックの場合、「何の触発も受けない人がいるという事実」に対しては、「言語ゲームが異なるからだ」と開き直ることでしょう。しかしリクールはそうではありません。たしかに聖書は最重要テクストであるとする共同体の存在は、聖書に触発を受けるという経験に対して決定的に重要です。しかし、それが全てではないのです。それは、ご指摘のように、そんな規則が存在しない場所においても聖書が読まれるようになる場合があるという事実によって裏付けられるはずです。また、私が様々な他のテクストから影響や脅威を受けながらも、その中で聖書がなおも重要なものになっているとすれば、それは聖書自体の内容がそうさせるのであって、聖書は重要であるという共同体の規則がではありません。

 佐藤さんはいつか、「そもそもなぜ聖書を読まなければならないのか」と問われていたように思います。しかし、リクールは、「テクスト」(文字で書かれているとは限らない)を読む必然性が万人にあるとは言っているかも知れませんが、「聖書」を読む必然性が万人にあるとは言っていないと思います。ただ、自分にとってその「テクスト」は何故か「聖書」なのだと言っているに過ぎないのではないでしょうか。

 とは言え、

>「成功した読解」「理想的な読者」から論を組み立てていくという点で、両者は厳しい意味での「ポストモダンの宗教状況」には対応しきれないという限界を感じてしまうのは私だけでしょうか。

というご指摘には何か心を動かされるものがあります。逆に言えば、「成功しなかった読解」「理想的でない読者」から論を組み立てる読解があり得るということでしょうか。

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-09 20:25

pensie_logさんだけではありません。新イェールの人々およびリクールの両者ともが、ポストモダンの宗教状況に対応しきれないという限界を私トロウも感じています。もっとも、ここで「ポストモダンの宗教状況」についての説明が必要でしょうから、私が思うところを簡単に言えば(pensie_logさんとは当然のこと、状況分析が異なると思われます故)次のようになるでしょうか。とくにキリスト教の「信仰者」であるとは、どのようなことなのかは、一定に定義できない状況にある、ということです。かつてのように、たとえば信仰者と無神論者というような対立概念だけでは、私たち現代に生きる者たちの複雑な宗教性を到底説明できるものでないと思われます。pensie_logさんがおっしゃる

>「成功した読解」「理想的な読者」から論を組み立てていくという点で、両者は厳しい意味での「ポストモダンの宗教状況」には対応しきれないという限界を感じてしまう

という点、「テキストを読む」ことが解釈学の前提である以上、テキストをあまりよく読まない読者のための解釈学が、果たしてありうるのだろうかという疑問はありますが、pensie_logさんのご感想に追加となるような感想+疑問を、私も持ちました。

たとえば聖書に救いを求めたとしても、intertextualに読んだ読者が得られるものが、果たして福音となるかどうか、という問題。とくに現代人の場合、まず「信仰ありき」の上聖書を読むというよりも、聖書を読んだ上で信仰を持つという状況が許されています。その場合、「聖書を読む」が即ち「信仰を持つ」ことにつながらないことでさえ、大いにありうると思います。つまり「聖書を読む」→「種々の疑いが生じる」というような。

それはたとえば、聖書というテキストに含まれる数々の矛盾や差別的表現・思想、福音書に現れているイエスの「わがまま」とも思える言説(イチジクの木に対する呪い、とか)、さらには旧約の神の残酷さ…といった、要するに聖書にある福音とは逆のベクトルに向かっているとしか思えない記事も聖書全体に散在していますが、歴史主義を排除してしまったら、このような記事をどのように解釈するのでしょうか。まさか、「それらは神から与えられたつまずきの試練としての記事である」などという説明にはなりませんよね?

ここら辺のところ、桶川さんが『キリスト教学』47号で、聖書の聖典性と正典性について述べられていることと関連すると思います。トロウ個人としては、宗教改革以来の「聖書主義」という概念について、改めて見直す時期にきていると、最近はとくに思います。つまり、聖書とは、正典とは何か、ということを、です。

確かにブルトマンの聖書解釈の方法論は、ティリッヒや野呂先生に批判されているとおり、キリスト教という宗教性が持つ豊かさをそぎ落としてしまっていると私も思います。しかし、そのようなブルトマン的解釈学の欠点を補うのは、懐古調的「ポスト・リベラル」な解釈学ではなく、歴史を見つめることから新たに生まれる神話なのではないかと私は思っています。

最近忙しくて時間が取れず、丁寧なコメントができずに申し訳ありません。論理が飛んでいて、あまりよくお伝えできていませんねぇ…。

投稿: トロウ | 2006-09-09 20:27

 トロウさんのご批判は、Pensie_logさんとはまた別で、リクールが歴史を排除しているということだろうと思います。リクールは、聖書の歴史性を無視してその文学性だけに視点を絞っているわけではなく、歴史主義一辺倒の聖書の見方では駄目だと言っているだけです。ただ、リクールのテクスト解釈学が歴史を真面目に取り扱わないという意見は、リクール批判の代表的なもので、十分に検討を要することだと思います。その先にあるのが、歴史批評か文学批評かという二者択一でないことはもちろんです。

 Pensie_logさんもトロウさんも、イェール派もリクールも大して違わないじゃん、と言われますけれども、このへんの受け止め方は、その人が置かれている「神学的位置」(?)によって微妙に異なるのかも知れません。私にとっては、両者の違いを強調しておくことはきわめて重要です。

 イェール派にとって、聖書解釈の目的は現在の教会が聖書をどのように用いているかの記述なので、それがどのような歴史的経験の沈殿物であるかは問題とならないように思われます。リンドベックのように、宗教的体験の表出としての側面を聖書から意図的に排除してしまうと、聖書が内に含んでいる「立体的構造」(野呂先生)が無視されることになります。

 これに対してリクールは、聖書の諸文書は様々な歴史的経験の中から生まれてきたものであって、それが様々な文学的な形式のもとで構造化されていると考えます。歴史的経験というもの自体、それを語るということの中ではじめて可能になるものですが、それは書かれた文書となることで、そのような最初の経験の場から切り離されていきます。このことは、テクストの文学構造はテクストの背後にある歴史的経験から一応自立して考察できるということを意味しています。ただし、それはテクストの読み全体の中では、あくまでも操作的なものであって、そのような考察は、再び生きた経験との関わりの中に入れられなければなりません。

 ただ、リクールはその場合、テクストの背後にある著者の経験よりも、テクストの前に開けるであろう読者の経験へと向かいます。それはテクストを読むという行為が現在の行為であることを重視するからですが、そこにテクストの歴史性なり立体性といったものがおろそかにされているのではないかという批判者たちの疑念も生じてくるわけです。

 しかし、リクールの解釈学は、聖書の背後にある歴史的経験を無視するわけではありません。歴史批評が明らかにしているように、書かれた文書は編集や加筆などの変容を被り、他の諸文書との深い関連におかれ、やがて選別と排除の過程を経て「正典」といった地位におかれることで、われわれが「聖書」と呼ぶ書物となります。このような形での「聖書」が今日大多数のキリスト教徒のあいだで読まれているという事実の背後には、きわめて複雑で膨大な歴史的過程が存在します。「今ここに聖書66巻がある」という事実を、ア・プリオリなものであるかのごとく考えることは出来ません。聖書は、複雑で膨大な形成過程の最終段階を示しているとともに、この形成過程そのものをも示唆する痕跡を至る所に残しているわけで、歴史批評を知っているわれわれはそれを無視することは出来ません。イェール派はそれを無視せよと言いますが、リクールはそうではありません。

 たとえば「啓示の観念の解釈学」(1977)の中でリクールは、「啓示」という観念が、信仰告白のレベルから、教義学のレベルへ、さらには正統的教会の教導権のレベルへと高められていく中で、その本来の形を失っていくことを説明しています。その中で解釈学の課題について次のように書いています。

「信仰共同体の教義は、その解釈の歴史的性格を失ってしまって、教導権の固定化した文言の監督下に置かれる。すると今度は信仰告白のほうが、生き生きとした宣教の持つ柔軟性と流動性を失い、伝承の教条化した文言と、また教導権によって中軸的カテゴリーをおしつけられたある学派の神学的言述と一致してしまう……(中略)……こうして神学的言述の起源にもどってみることの主な利点は、反省を一挙に、信仰の多様な表現の前に位置づけることであり、そうした信仰表現は、イスラエルの信仰が、次の原始教会の信仰がそこに刻印されている多様な言述によって変化がつけられているのである」。(『聖書解釈学』ヨルダン社、113-135頁)

つまり、リクールにとって解釈学とは、教導権に支配された共同体の中で歴史的性格を失って固定化してしまいがちな聖書を、その生き生きとした歴史的生成の中に戻して読み直すということなのです。

 この点で、イェール派とリクールとでははっきり異なっていて、両者を一緒に考えるべきではないと私は思います。両者の差異こそが私にとっては重要です。少なくとも、イェール学派では野呂先生とは話が通じないが、リクールなら通じる、少なくとも議論が成り立つ程度には通じると私は考えています。

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-11 10:00

トロウです。大変興味深く桶川さんのお答えを読ませていただいています。まず、リクールとイエール派の差異について、それを大きいとみるか小さいと見るか、これは人それぞれだなあということは、私も感じておりました。

思うに、両者の差異について、カール・バルトの前期(『ロマ書講解』第1版の出版までの時期。この時期にはキルケゴール哲学を神学構築に応用する姿勢もみられる)と後期(第2版以降、とくに『教義学』にその特徴が現れる)の神学の違いに比類できるのではないかという気もします。いうまでもなく、前期バルト神学がリクールであり、後期がイエール派ということになります。このことがどれだけ的を射ているかは分かりませんが、私はそのような印象を持ちました。この両者の差異について、それが大きいか小さいか、どちらともいえないところがあるようにも思いますが、やはり私は両者の差異に意味を見出してしています。桶川さんがおっしゃるとおり、(野呂先生にとってのみならず)イエール派の神学は「取り付く島もない」感じですが、リクールはそうではないのでしょう。

次に、テクストとその読者との関連について、やはり私には気になるところがあります。リクールの「間テクスト」論については、歴史を軽視することはないが、間テクスト的な解釈によって、凝り固まった既存の共同体(あるいはテクスト)に新たな息吹を与えるものとなる、ということだと私は理解していますが、これが、とくに『聖書』に適用されるべき方法論とされるのは何故なのでしょうか。おそらくこの点は既に、pensie_logさんに対して桶川さんが答えられているのかもしれませんが(なぜリクールにとっては『聖書』なのか、というあたり)、これは実に重要な問いだと思われます。

つまり、聖書が信仰の基礎となるべき書物である以上、聖書以外のテクストにも通用する解釈論だけでは、私には物足らなさを感じる、と表現できるかもしれません。どういう意味かというと、前のコメントで述べたことが一例ですが、間テクスト解釈から得られる聖書のメッセージは、必ずしも万人にとって福音とはなり得ない可能性があるからです。言い換えると、「聖書は神の啓示の書である」と主張する場合、間テクストから得られる解釈では説得力に欠けるように私には思われるのです。

結局、桶川さんがご指摘のとおり、私のような立場はリクールによって「歴史主義一辺倒」だと批判されるでしょう。しかしその批判を私は恐れていません。歴史主義に徹することへの批判として、歴史に徹することが聖書に現れた啓示を軽視することにつながるのではないか、という恐れがあるとすれば、それ杞憂に過ぎないと思います。ちなみにここで私が「歴史主義」と言う場合、聖書の諸文献を地ならし(平坦化)して、骨抜きにすることを指すのではなく、それらを批判的に見ることの出来る立場を指します。具体的には、聖書の中の福音を最もよく伝えていると思われるいくつかの文献の観点から、逆に聖書のあらゆる部分を歴史的・批判的に評価する立場のことです。つまり、聖書の中でも、「聖書以上の『聖書』」とも言うべき文献があるのだと考えます。

投稿: | 2006-09-11 14:20

桶川先生の「二つの神学」(1)から(4)を読ませていただきました。不勉強で桶川先生のお名前を初めて知りましたので、どういう背景の方か知らずに申し上げるのも失礼なのですが、実に要領よく60年代後半から80年代中ごろの解釈学の状況をまとめていらっしゃると思いました。

確かに、Lindbeck の立場からは(正典の文脈あるいは伝統に合わせて)何が本当のキリスト教徒かは言いえても、何が真のキリスト教かあるいは何が真実かは出てこないのかもしれません。

このことに関連して、もとより先生はそのおつもりでしょうが、正典と非正典(偽典、外典)、正統と異端の成立に関心を持つ者の立場から申し上げると、正典や正統が非正典や異端を叩き出したという構図は誤解を生みます。むしろ、正典は非正典との鬩ぎ合いから錬られたものであるし、また異端の出現によってそうでない立場の自覚から正統が育まれたものであることは、原始キリスト教を研究する者には明らかです。つまり、正典も正統も弛まずイエス・キリストを宣べ伝える営為から形作られたものであって、先に正典や正統が与えられたものとして固定的なものとして存在していたわけではありません。

私は、本来は David Tracy のいうfundamental theology (もちろんこれはファンダメンタリストの神学ではなく、教会神学の「組織神学」を超え、「実践神学」とも距離を置いた「神学基礎論」のことですが)畑であり、種々の方法論が専門のはずだったのですが、今は初期キリスト教にほとんど時間を割いています。そんな関係で、偶さか桶川先生のようなブログを読ませていただくと、日常の作業をする際、顧みる余裕を持てたようで喜んでいます。

しかし、いつも思うのですが、解釈学を含めた方法論は究極のところ研究するものの心構えです。Text(古代文献)も context(古代歴史事情)も正確に読み込んだ上で、読み込む者の主観(我々自身の生活世界)も心得た上で、次代に残す具体的なものができたらいいなと思っています。

学会発表の成功をお祈り申し上げます。

Mark W. Waterman, Ph.D.

投稿: Dr. Waterman | 2006-09-13 06:09

 Watermanさん、コメントありがとうございます。イェール派が「正統が異端を排除していった過去のキリスト教のありかたを、無条件に肯定してしまうことになるのではないか」という表現に対するご指摘だと思います。確かにこの表現では、「正統」が最初から固定されたものとしあるかのような印象を当えるかも知れませんので、発表では使わないことにいたします。

 もちろん、それは私の意図ではなく、むしろ逆に「正統」が形成されるのは、「異端」が排除されることと同じ事柄の別の面だと考えています。「正統」が「異端」を排除することで「正統」となったように、「異端」もまた「正統」により排除されることで「異端」として出現したわけです。問題は、イェール学派のようにテクスト内在的な聖書の読み方で完結してしまうと、こうした正統と異端が形成されていく歴史は顧みられなくなってしまうということです。私は必ずしも「異端」の復権を叫んでいるのではありませんが、なぜそれらが排除されなければならなかったのか、それを排除することで「正統」は何を獲得し、何を失ったのか、そのような排除の仕方を今日どう評価すべきか、といったことは神学にとってきわめて重要なことだと考えています。

 ですから私もこういう基礎神学的な事にはそろそろ区切りをつけて、初期キリスト教や聖書そのものについてもっと具体的に考えていきたいと思っています。その意味ではもしかするとWatermanさんと興味の方向が似ているのかも知れません。これからも、このブログにもちょくちょくいらして下さって、コメントをして戴けるなら、大変嬉しく思います。

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-14 00:37

 順序が逆になりましたが、なかなか書けないでいたトロウさんのコメントにも簡単にお答えしておこうと思います。

『ロマ書』(リクール)と『教会教義学』(フライ)の違いというのは面白い捉え方だと思います。厳密にはどうだか分かりませんが、イメージとしてはあたっているのではないでしょうか。

 聖書を解釈するのに、聖書以外のテクストにも通用する一般解釈学だけでよいかどうかという問題については、私はブルトマンの伝統に従って、それでよいのだと考えています。聖書を特別な書物にするのは、その内容でなければならなし、実際にそうなのだと思うからです。

 ただ、内容的なものは述語によって述べられる以上は一般化されるものです。すると、聖書の唯一性(uniqueness)はどこにあるのか。それは結局、聖書に含まれる固有名にしかないのでしょう。そういう固有名(たとえばアブラハム、イサク、ヤコブ)に私が出会ったということ、それが決定的です。それ以上のことは言えないのではないでしょうか。このような言い方はイェール学派とどうちがうのか?ということについては、これまでいろいろ議論してきた中で言ってきたつもりですが、なかなかぴしっとした適格な表現が見つからないという感じです。

 もう一つ、「聖書以上の聖書」という立場は、ヤコブ書をわらの書簡と言い切ったルターのような立場でしょう。「正典の中の正典」という理解は、その意味で正典を考える上での一つの有力な立場だろうと思います。リクールの場合は、野呂先生がおっしゃるように確かにルターよりもカルヴァン的な要素が強いと思います。

 いずれの問題も、私にとってはそう簡単に答えられそうもない問いです。さしたり、今日はこのくらいにさせていただきます。

投稿: 桶川利夫 | 2006-09-14 00:44

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