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2006-09-07

神学の二つのモデル――(3)ポスト・リベラル神学への批判

 リンドベックの主張が、これまでの宗教学や神学の理論には無かった視点を与えてくれた点は評価されるべきであり、それが宗教間の協調において何らかの役割を果たすであろうことは期待できよう。しかし、リンドベックはエキュメニズムや宗教間協調におけるプラグマティックな実効性を越えてそれを一つの神学的立場として提示し、自由主義神学の後に来るべき神学と言う意味で「ポスト・リベラル神学」と呼ぶとき、この神学に対するいくつもの疑問が生じてくるのを禁ずることが出来ない。

 第一に、リンドベック自身が認めているように、それはキリスト教神学を自己閉鎖的で翻訳不可能な言語にしてしまうのではないかという疑念がある。それが異なった主張を持つ宗教間の対立を回避させるのは、互いの主張を検討し合うための共通の地盤を放棄するという犠牲と引き替えにである。それは、他者との「共存」の為に他者との「対話」を犠牲にすることではないのだろうか。

 第二に、そのことと深い関係にあるが、このモデルは真理問題を捨象してしまうように思われる。聖書物語が形象化するリアルな世界は、どのようにわれれの日常世界に関わるのであろうか*1。フライは聖書の世界が現実世界を吸収すると言うが、われわれの世界を構成する複雑で多岐にわたる次元に対して十分な考慮がなされているとは思えない。それは結局、ある共同体の中でのみリアルと認められるにすぎないのではないか。このような立場は、一種の「かのように」(als ob)の立場と見なされてもしかたがないのであって、教会の内外にいる者にとってキリスト教を絵空事にしてしまう危険を持っている。

 第三に、ポスト・リベラル神学は、共同体の言語・文化の適切性についての批判的な観点を欠くことにならないだろうか。フライは「物語」(narrative)という概念にいちはやく注目し、「物語神学」の源流の一つとなった人物であるが、物語がキリスト教共同体のアイデンティティー形成に重要な役割を果たすという側面のみを強調し、それが同時に個人や共同体の自己正当化のためのイデオロギーとなるという側面をあまり見ようとしない傾向にある。「物語神学」にとって「物語批判」の契機をどこに見出すかは重要な課題であろうが、フライの神学はそれに対して示唆を与えてくれるものではない。

 第四に、ポスト・リベラルの方法は、宗教活動の最も生き生きとした場面を考察の対象からはずし、もっぱらその文化的沈殿物に考察を集中しているように思われる。「言語・文化」型の宗教理解は、宗教体験を可能にする言語に注目するが、そこでは言葉と体験が同時発生的に生じる言述の出来事に対する関心は禁じられ、ひたすらそのような出来事の沈殿物にすぎない言語体系だけが考察の対象となるっているのである。

 第五に、ポスト・リベラル神学は、キリスト教的な共同体のアイデンティティーを記述することを神学と考えるが、その際、何をもって「キリスト教的」とするのかが不明瞭である。この点についてはトロウ氏から指摘のあったところであり、私も同じ点について「正典をめぐる循環」(『キリスト教学』第47号)に書いている。イェール学派が共通して関心を持つ「正典」(canon)という概念は、本来歴史的に形成されたものであり、現在の形の正典の妥当性に関しても議論の余地があるはずである。しかしながら、彼らの「正典」理解は、キリスト教の共同体によって現に認められているものが正典であるという同語反復的なものであり、そこに議論の可能性ははじめから排除されている。これは、正統が異端を排除していった過去のキリスト教のありかたを、無条件に肯定してしまうことになるのではないか。

 第六に、仮に上のような批判をすべて承知の上で、現在の欧米のキリスト教社会を維持するという関心から、こうしたモデルが有効であると考えられるとしても、それは日本のような非キリスト教社会においてキリスト教を信仰する意義を示すことができるだろうかという問いがある。

 最後に、こうしたタイプの神学に対して、もう一つの神学モデルとしてリクールの聖書解釈学を取りあげたい。(つづく)

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