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2006-10-06

翻訳可能性(1)

 ここ1,2ヶ月はまともな研究発表はできそうにないので、しばらくは感想、覚え書きのようなことを書き連ねながら、この山場を乗り切ろうと思う。

 先日の学会発表の含意の一つとして、普遍性、翻訳可能性といった問題があった。「枢軸時代」(ヤスパース)に現れた世界思想、世界宗教は、あらゆる人間にとって普遍的な意味をもつ教えの可能性を初めて開いた。しかし、リンドベックらの議論は、そうした普遍的な思想、宗教の可能性に対する脅威となりうるものである。

 リンドベックの議論を、ハンチントンの「文明の衝突」論と比較してみることも出来るだろう。両者の違いは、ハンチントンの理論では、異なった文明の並存は必然的に衝突を生み出すと考えられるのに対して、リンドベックはの理論では、異なった宗教間のあいだには対立もないかわりに宥和もない、という点にある。共通するのは、そこで否定されているのが、文明間、宗教間の翻訳可能性であるということだろう。

 先日マルク・クレポン『文明の衝突という欺瞞』(新評論)を読んだが、そこで著者は、ハンチントンの「文明の衝突」論が、「人類」という概念を拒絶してしまったことを批判して次のように書いている。

われわれが知るべきなのは、「諸文明」は、固定されたアイデンティティーを守ろうとして、それぞれの文明が内向することから生成するのではなく、交換の継続、絶え間のない対話の維持から生成するということである。そしてこの対話が明かすものこそ、おそらく人類の単一性にほかならないのである。(109-110頁)

注にあるように、この人類の単一性は、実体としてあるのではなく、文化間の対話や翻訳という実践を通じて想定されるべき理念だと著者は言う。

 クレポンがハンチントンに向けたのと同様の批判が、リンドベックに対しても向けられなければならないだろう。リンドベックはハンチントンとは異なって、宗教間の対立が生じないことを目指して理論構築をしているが、それは対話や翻訳の可能性の断念を促すという点では同じ危険を犯しているのではないだろうか。

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