« 北海道 | トップページ | 原初的心性――プンク・マンチャとぶたぶたくん »

2006-11-02

教育の目的

 教科の履修不足の問題について、今朝の毎日新聞は、学習指導要領が求める「幅広い基礎的教養」と生徒や学校が求める「入試に対応する学力」の乖離がその原因だと論じている。いわば建て前と本音は違うということだろう。

 「二つの学力」のうち、前者はより漠然とした広い目的をめざしているのに対して、後者は目先の目的に焦点をしぼっている。しかし、いずれも何かの役に立つものとして学力を考えている点では同じである。学習、研究、教育の目的は、何かに役に立つ能力を身につけることなのだろうか。

 先日ふと読んだ本の中で、シモーヌ・ヴェイユはこう書いていた。

今日では、だれもそれを知っていないように見えるのだが、注意力の形成こそ、学習の真の目的であり、ほとんど唯一の関心の的である。(『神を待ち望む』田辺保・杉山毅訳、勁草書房、85頁)

ここで注意力は祈りと深い関係にある。注意は様々なものに向けられるが、その最も高い目標は神である。祈りとは「たましいにとって可能なかぎりの注意力をつくして、神の方へ向かっていくことである」。学習、学問研究、教育の目的は、そのような注意力の形成だと彼女は言うのである。祈りをもって学問をやる――というよりも、祈りへと導かれるように学問をやるということだろう。

 ヴェイユはこうも書いている。

神を愛する中学生、大学生なら、「わたしは数学が好きだ」とか、「わたしはフランス語が好きだ」とか、「わたしはギリシア語好きだ」とかいうようなことは、決して口にしてはならない。学生たちは、そういうもののすべてが好きになれるようにしなければならない。なぜなら、それらはどれもこれも、いったん神の方へ向けられるならば、まさに祈りの本質そのものとなる注意力を育て上げてくれるものだからである。(同上、86頁)

勉強というものをこのようにとらえている教育者が、今の日本にいるのだろうか。われわれ研究者でさえ、研究という作業をもっと相対的なものとしてとらてしまっているのではなだろうか。ヴェイユのようなとらえ方は、ある意味ストイックで、修道僧のようである。だが、逆の意味では、こういうとらえ方をすればどんな地味な研究であっても、また語学修得のような単調な作業であっても、楽しんでおこなうことができるのかも知れない。

|

« 北海道 | トップページ | 原初的心性――プンク・マンチャとぶたぶたくん »

コメント

とくにヴェイユのような人にとって、勉強・学習・研究に限らず、生きることすべてがすなわち祈りであり、神との和解を求める営みということになるのでしょうね。

関係があるかどうか分かりませんが、桶川さんが以前、野呂先生の講義が「説教調」とおっしゃていたのを、ふと思い出してしまいました。

このヴェイユの意見、信仰を持たない人たちは、果たしてどのように考えるのでしょうか、興味があります。神が不在な場合、なぜ勉強・学習・研究をするのか、教育がなぜ存在しなければならないのか、そしてなぜ、生きることに意味があるのか、ということを是非、聞いてみたいです。

投稿: トロウ | 2006-11-03 17:41

おそらく「判断停止」ということではないでしょうか。これは神を信じない人がそうだと軽蔑しているのではなく、私自身が日常に埋没している時にそうなっているということです。

ただ、ヴェイユが言っているのは神へ向けられた注意力であって、観念的な目的として神を持っているということではないということは重要だと思います。神よ、神よ、と言っていれば神に注意をむけていることになるわけではない。その点では、自分では神を信じてはいるとは思っていない人の営為が、祈りをはらむということもありうるのかも知れません。

ヴェイユは、注意力を必要とするのは、神への愛だけではなく、隣人への愛もそうだと言っています。ラテン語や数学の勉強と、隣人愛と、神への愛を、同じ注意力の線上にあるものと考えているところが、ヴェイユの面白いところですね。つまり、おっしゃるとおりで、ヴェイユは同じことをあらゆる生活の営みに対して言っているのだと思います。

投稿: 桶川利夫 | 2006-11-03 21:09

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 北海道 | トップページ | 原初的心性――プンク・マンチャとぶたぶたくん »