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2007-03-31

なぜ人を殺してはいけないか(1)

 先日より扁桃腺がはれて熱が出ているのを、例のロキソニンでおさえながら、とうとう再来週にも始まってしまう新学期の授業の準備を、よろよろとしているところである。その中に倫理に関する授業があって、そこでは学生たちと議論する題材として「なぜ人を殺してはいけないか」という問いを取り上げようと思っている。

 トロウ氏が言われるように、この問いには明解な答えがない。子どもから問われて、完全無欠な答えを与えられる親はいない。それどころか、世間から「知識人」とか「有識者」と呼ばれる人たちも十分な答えを与えることができない。このことが嘆かわしい事態として、数年前にさかんに宣伝されたように記憶している。

 しかし、誰もが明確な答えを出せないということは、現代社会が倫理性を欠如していることを直接示しているのだろうか。私はどうもそうではないように思う。むしろ、「人を殺してはいけない」という命題に明確な理由づけが出来ないということは、その命題自体が他の命題とは根本的に異なる究極性を持っていることを意味しているに過ぎないのではないだろうか。

 たとえば、もともと問いに答えるとはどういうことか考えてみる。命題Aに説得力のある根拠を示すということは、命題Aより上位にある命題、あるいはより自明な命題を示すということに他ならない。たとえば「なぜロキソニンを一度に2錠飲んではいけないか?」という問いに対しては、「ロキソニンを飲み過ぎるとかえって健康をそこねるからだ」と答えれば、それは説得力を持つ。「ロキソニンを一度に2錠飲んではいけない」というそれ自体は議論の余地のある命題Aは、その上位の「健康をそこねてはいけない」という誰もが反論できない自明な命題Bによって根拠づけられているわけである。これがわれわれが求める「明確な答え」というものだ。

 「人を殺してはいけない」を命題Aとした場合、それを根拠づける命題Bを探すことは困難である。なぜなら、それ自体が他の様々な命題を根拠づけるような自明性をもった命題だからである。このような根本命題を根拠づけようとするなら、それは形而上学的な命題を持ちださざるを得なくなる。すなわち、人間が存在することが善であるか否かといったレベルでの議論にならざるを得ないのである。しかし、現代の多くの人々にとっては、そうした議論は「人を殺してはいけない」が持つ自明性に比べれば、根拠の薄いものと感じられるであろう。

 この問いをめぐる議論で興味深いのは、だから、大人や有識者たちがそれに答えられないということではなく、むしろそのような自明な至上命題に有識者たちが躍起になって根拠を与えようとする現象そのものであろう。そんな問いを発した少年を叱りつければすんでいた時代とは異なって、そんな問いさえ寛容に受け止め、生真面目に答えを与えようとする、今はそういう時代なのだということである。この問いに答えがないということが問題なのではなく、このような問いに人々が答えなければならないと考えることこそが問題なのである。

 それを「現代社会の病理」と言いたければ言ってもよいが、私はむしろこのような問題を問わざるを得ない時代というのは、人間がより人間らしさを露呈した時代なのだと思う。もともと人間とはそのような存在としてあるのではないだろうか。ベルクソンの言う「仮構機能」がもはや機能しなくなってしまい、知性が本当の問題に直面せざるを得ない時代なのだ。

 私は、数年前にさんざん問題になったこのこの問いを改めて授業で取り上げることで、この問題に対してこれまでになかった独創的な答えを提示できるとは思わない。むしろ、この問いに対する様々な答えを吟味することで、倫理の本質的な問題について何か見えてくるものがあるのではないかと期待しているだけである。このブログでも、授業と並行して、この問いに対する様々な答えの可能性をを紹介し、みなさんと議論を深めていければと思う。

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2007-03-28

「屋根裏のネットワーク」は必要か?

 このブログを開設して1年が経った。公にする前の屋根裏の思考にもネットワークがあってもよいのではないか、というのが当初の目論見だった。メンバーの離散によって困難になった「文明と宗教」研究会の活動を、ネットを使って行うという意味では、それはなかなかうまくいったと思う。ブログによる関わりがなかったら、この研究会は1年間ほとんど何の活動も出来なかったに違いない。メンバーの方々の論考や日々の活動の様子を読むことは大変有益だったし、大きな刺激にもなった。また、私自身の研究についても、いろいろな貴重な意見をもらい、自分自身が鍛えられたと思う。

 ただ、「屋根裏のネットワーク」という発想についてはネガティブな意味での反省もある。「屋根裏部屋」というものは、ものを考える人間にとって必要な空間だと思う。言いかえれば、それは思考する者にとっての孤独の大切さを意味している。思想を他者へ伝達することも、他者から批評をうけることも、また他者と交流することも重要である。しかし、思想は最終的には個人が一人で担うべきものである。誰も他人の思想を担うことは出来ない。ものを考える人間は、どこかで完全に孤独になって、自分の思想を問いつめる場面が必要なのである。もし、それが「屋根裏部屋」なのだとすれば、それを他の「屋根裏部屋」とつなげようとすることは矛盾かも知れない。

 先日、アニメの宮崎駿監督の創作現場に密着取材するというNHKの番組をやっていた。10年前に『もののけ姫』の映画が作られた時、「『もののけ姫』はこうして生まれた」という6時間半に渡るドキュメンタリーが作られたが、私はそのフィルムが好きで、これまでに繰り返し見てきた。今度の番組も、その続編のようなつもりで見た。しかし、今回大きく違ったのは、スタジオ・ジブリに制作体制が出来、多くのスタッフが共同作業に入る以前の、構想段階での宮崎氏のアトリエを取材しているということである。

 氏は10年前のフィルムとは異なって、終始きわめて無愛想で、不機嫌であった。最初私は、10年の歳月がそうさせているのかと思った。あるいは取材しているの人物との相性の違いなのかとも思った。だが、やがてそうではないことに気づいた。先の映画と今回の番組は全く取材の対象となっている空間が異なっていたのだ。今回、カメラが入ったのは、いわば宮崎駿の「屋根裏部屋」である。それはスタジオ・ジブリという社会的な場所ではなく、宮崎氏個人の全く一人きりの秘密の空間であって、そこで行われていたのは、氏の全く孤独な一人の作家としての作業だったのである。本来いてはいけないところに取材者がおり、あってはならないところにカメラがあった。

 番組の終わりの方で、氏は取材者の不躾な質問に対して怒りをあらわしながら、不機嫌さと創作の関係について語っていた。自分は本当はいつも不機嫌でいたい人間なのだ。でも、それじゃあならないなと思うから笑顔を浮かべている人間なのだ。そして、映画はそういう時間に作られるものなのだと。このことは、映画であっても論文であっても変わらないのではないだろうか。交流や相互批判も大切だが、この不機嫌な孤独の時間がなければ、それは意味がないのではないだろうか。

 事実、わたしは本当に悩みぬきながら考えている時にはブログを書いていない。人のことはわからないが、たとえば白頭庵氏の「鬱」などにもそういった意味あいがあるのではないかと想像する。「屋根裏部屋」とは本当はそういう空間なのである。

 このブログをやめるつもりはない。ただ、こうしたブログを作ることによって、思考という行為にともなう孤独から逃れられるというような幻想は戒めなければならない。人はみな一人で死ぬように、私はやはり一人で考えなければならないのだ。ネットワークは有用だが、孤独な思考作業のかわりには決してならない。それがこの一年で学んだことだ。

 一年目を終えるにあたり何だか非常に否定的なコメントになってしまいましたが、これからもどんどん積極的に投稿していくつもりなので、皆様もよろしくお願いいたします。

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2007-03-21

神学的見地から

 トロウ氏のホリエモンに関する記事について考えていて、長くなってしまったので、自分のブログの記事にしてトラックバックをとばすことにする。(ちなみに言い遅れたが、私のブログはトラックバックを受け付けていない。理由はろくでもないスパムがうっとうしいからだ。しかし、他人のブログにはトラックバックさせてもらう)。

 ホリエモンに実刑判決が下ったが、彼が関わっているのは、インターネットの発達などによって開かれた新たな経済活動の領域である。どこまでがアリなのか誰もはっきりとは言えない面も確かにあるに違いない。だから、実刑判決は厳しいのではないかという見方もあるだろうし、本人はそこが不満なのだろう。

 しかし、誰もが頭のかたすみで「もしかするとそういうのはアリかな」と考えながらも躊躇していたことを、彼はどんどんやっていったのであり、だからこそ時代の寵児みたいに持ち上げられたのだ。それを見ていた社会が、これはちょっと行き過ぎではないかと判断すれば、社会は彼をスケープ・ゴートにして社会の方向を修正するということは、社会力学的にはあるのだと思う。ホリエモンもそれくらいわかっているはずだ。リスクを承知でその分を儲けてきたのだから、結果は当然負うべきであって、いまさら「慎重に/中途半端に」やってきた人たちに対して愚痴をこぼすのはお門違いではないだろうか。

 しかし、それとは別に、われわれにとっては神学的な見地から、ホリエモンのやったことの是非を問う必要もあるではないか。その場合、たとえば自社株を買って値段を釣り上げるといった手法の是非にとどまらず、そもそも株式市場のような実体性の薄い営みによってわれわれの社会が右往左往させらることの是非も問われなければならないだろうし、極端な話、「市場経済」とか「資本主義」とか「高度消費社会」が神学的に見て良いのか悪いのかといったことについても考えなければならない。たとえば、イスラム神学では利息は悪だという。また、宮沢賢治の例の「ベジタリアン大祭」では他の生き物を食うというシステムについての神学的議論が交わされている。われわれが他の生命を取り込まなければ生きていけない生命体であるとするなら、この罪は人間が必然的に抱えざるを得ない運命ということになるだろう。埴谷雄高『死霊』の「最後の審判」では、この問題があらゆる宇宙の終局という究極の状況設定の中で問われる。

 ところで、自由主義経済にはたしかに様々な問題があるが、それに対する有力な反論は、「それは必要悪」だということである。たしかに今の経済システムでは、第二のホリエモンが出てくる可能性がある。株の暴落によって自殺者も出るかも知れない。しかし、そういう危険を抱えつつも、イスラム原理主義が牛耳る社会や、かつてのソビエトのような厳しい統制社会よりはましだ……。そういう反論である。自由主義経済システムのお陰をこうむって生きている私たちには、この反論を否定することは難しいように思う。しかし、こうした「言い訳」にあぐらをかいて、「これでいいのだ」と居直ってしまえば、それはホリエモンとかわらなくなる。「悪いことはわかってるけど、みんなやってるじゃないか……」と。

 そこで神学の役割ということを考える。一つは、神学は現実にただなんとなく流されるのではなく、まず原理的に何がいいか悪いかを考えなければならないということ。それは現実の世界をどう作り変えて行くべきかの方向を示さなければならない。しかし、第二に、その原理が現実とのせめぎ合いでどのように実現されるか、あるいはされないか。そういうところまでしっかりと考えていかなければならないだろう。これはアガペーという至上の理念が、人々の実際の相対的な行動を上からひっぱるという、野呂芳男『実存論的神学と倫理』(創文社、1970年、207頁以下)で紹介されているニーバーの倫理学から影響を受けた考えであるが、戦争の問題、靖国の問題などを考える場合にも重要になってくるように思うので、これからもっと考えを深めていきたいと思う。

 さて、ホリエモンの場合、そういう上からひっぱってくれるものが彼にはおそらくなにも存在しないため、その行動は、見かけは新しくても何一つ世界を本当に変えていく原動力にはならない。

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