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2007-03-21

神学的見地から

 トロウ氏のホリエモンに関する記事について考えていて、長くなってしまったので、自分のブログの記事にしてトラックバックをとばすことにする。(ちなみに言い遅れたが、私のブログはトラックバックを受け付けていない。理由はろくでもないスパムがうっとうしいからだ。しかし、他人のブログにはトラックバックさせてもらう)。

 ホリエモンに実刑判決が下ったが、彼が関わっているのは、インターネットの発達などによって開かれた新たな経済活動の領域である。どこまでがアリなのか誰もはっきりとは言えない面も確かにあるに違いない。だから、実刑判決は厳しいのではないかという見方もあるだろうし、本人はそこが不満なのだろう。

 しかし、誰もが頭のかたすみで「もしかするとそういうのはアリかな」と考えながらも躊躇していたことを、彼はどんどんやっていったのであり、だからこそ時代の寵児みたいに持ち上げられたのだ。それを見ていた社会が、これはちょっと行き過ぎではないかと判断すれば、社会は彼をスケープ・ゴートにして社会の方向を修正するということは、社会力学的にはあるのだと思う。ホリエモンもそれくらいわかっているはずだ。リスクを承知でその分を儲けてきたのだから、結果は当然負うべきであって、いまさら「慎重に/中途半端に」やってきた人たちに対して愚痴をこぼすのはお門違いではないだろうか。

 しかし、それとは別に、われわれにとっては神学的な見地から、ホリエモンのやったことの是非を問う必要もあるではないか。その場合、たとえば自社株を買って値段を釣り上げるといった手法の是非にとどまらず、そもそも株式市場のような実体性の薄い営みによってわれわれの社会が右往左往させらることの是非も問われなければならないだろうし、極端な話、「市場経済」とか「資本主義」とか「高度消費社会」が神学的に見て良いのか悪いのかといったことについても考えなければならない。たとえば、イスラム神学では利息は悪だという。また、宮沢賢治の例の「ベジタリアン大祭」では他の生き物を食うというシステムについての神学的議論が交わされている。われわれが他の生命を取り込まなければ生きていけない生命体であるとするなら、この罪は人間が必然的に抱えざるを得ない運命ということになるだろう。埴谷雄高『死霊』の「最後の審判」では、この問題があらゆる宇宙の終局という究極の状況設定の中で問われる。

 ところで、自由主義経済にはたしかに様々な問題があるが、それに対する有力な反論は、「それは必要悪」だということである。たしかに今の経済システムでは、第二のホリエモンが出てくる可能性がある。株の暴落によって自殺者も出るかも知れない。しかし、そういう危険を抱えつつも、イスラム原理主義が牛耳る社会や、かつてのソビエトのような厳しい統制社会よりはましだ……。そういう反論である。自由主義経済システムのお陰をこうむって生きている私たちには、この反論を否定することは難しいように思う。しかし、こうした「言い訳」にあぐらをかいて、「これでいいのだ」と居直ってしまえば、それはホリエモンとかわらなくなる。「悪いことはわかってるけど、みんなやってるじゃないか……」と。

 そこで神学の役割ということを考える。一つは、神学は現実にただなんとなく流されるのではなく、まず原理的に何がいいか悪いかを考えなければならないということ。それは現実の世界をどう作り変えて行くべきかの方向を示さなければならない。しかし、第二に、その原理が現実とのせめぎ合いでどのように実現されるか、あるいはされないか。そういうところまでしっかりと考えていかなければならないだろう。これはアガペーという至上の理念が、人々の実際の相対的な行動を上からひっぱるという、野呂芳男『実存論的神学と倫理』(創文社、1970年、207頁以下)で紹介されているニーバーの倫理学から影響を受けた考えであるが、戦争の問題、靖国の問題などを考える場合にも重要になってくるように思うので、これからもっと考えを深めていきたいと思う。

 さて、ホリエモンの場合、そういう上からひっぱってくれるものが彼にはおそらくなにも存在しないため、その行動は、見かけは新しくても何一つ世界を本当に変えていく原動力にはならない。

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コメント

堀江被告の今回の判決を受けて、私たちが考えなければならない問題を具体的に、また、包括的にまとめてくださって大変有難いです。

自由経済社会に生きる多くの人々が少なくとも、自分たちの経済活動には必要悪が含まれているという認識があればまだ、その問題を話し合う余地が残されていると思いますが、ホリエモンや、彼に追随する彼の(あるいはこのような社会の)信奉者たちには、もはやそのような感覚は失われているのではないかと思われるところに、私は戦慄を覚えます。判決を受ける前もその後も、彼は一貫して自分の瑕疵が分からないと言っています。それはもはや、善悪の判断能力が麻痺してしまっていると言えるのではないでしょうか。

極論をすれば、(以前にもちらっと話題になったと思いますが)なぜ人を殺してはいけないか、という問題に対して、この世の論理は明確に答を与えてはくれないことと同じではないかと思うのです。もっと具体的には、たとえば、なぜ人々はクローン人間の製造に躊躇を覚えるのか、という問題と同様です。少子化問題を解決したければ、クローンで人間を生産したっていいじゃあないの、生産することは良いことなのだから、という論理と、経済活動で利益を生むことはいいことなのだから、自社株を買い占めることぐらいいいじゃあないの、という論理は、両者の違いもさりながら、共通するものがかなりあると思います。クローン人間の製造に関しても、明確な理由をもって「悪」とは言い切れないのですから。

なぜ人を殺してはならないの、なぜクローン製造は悪なの、なぜホリエモンは有罪なの…、という諸問題に対して、神学は明確な答えを与えてくれるのかといえば、そう簡単でないことも確かです。しかし少なくとも、その学の専門家たちは、そのような問題に対して粉骨砕身、生活を捧げて(この自由主義経済の体制の中、その活動を敢えてせずに貧乏暮らしに身を任せ…トホホ)解明を試み、解決のクルーを見出そうとするのが仕事ですから、神学は、「なぜ」だらけのこの世界に対して、少しずつかもしれませんが、納得できる答えを発信し続けることができるのではないかと思っています。自戒を込めて。

投稿: トロウ | 2007-03-21 18:48

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