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2007-03-28

「屋根裏のネットワーク」は必要か?

 このブログを開設して1年が経った。公にする前の屋根裏の思考にもネットワークがあってもよいのではないか、というのが当初の目論見だった。メンバーの離散によって困難になった「文明と宗教」研究会の活動を、ネットを使って行うという意味では、それはなかなかうまくいったと思う。ブログによる関わりがなかったら、この研究会は1年間ほとんど何の活動も出来なかったに違いない。メンバーの方々の論考や日々の活動の様子を読むことは大変有益だったし、大きな刺激にもなった。また、私自身の研究についても、いろいろな貴重な意見をもらい、自分自身が鍛えられたと思う。

 ただ、「屋根裏のネットワーク」という発想についてはネガティブな意味での反省もある。「屋根裏部屋」というものは、ものを考える人間にとって必要な空間だと思う。言いかえれば、それは思考する者にとっての孤独の大切さを意味している。思想を他者へ伝達することも、他者から批評をうけることも、また他者と交流することも重要である。しかし、思想は最終的には個人が一人で担うべきものである。誰も他人の思想を担うことは出来ない。ものを考える人間は、どこかで完全に孤独になって、自分の思想を問いつめる場面が必要なのである。もし、それが「屋根裏部屋」なのだとすれば、それを他の「屋根裏部屋」とつなげようとすることは矛盾かも知れない。

 先日、アニメの宮崎駿監督の創作現場に密着取材するというNHKの番組をやっていた。10年前に『もののけ姫』の映画が作られた時、「『もののけ姫』はこうして生まれた」という6時間半に渡るドキュメンタリーが作られたが、私はそのフィルムが好きで、これまでに繰り返し見てきた。今度の番組も、その続編のようなつもりで見た。しかし、今回大きく違ったのは、スタジオ・ジブリに制作体制が出来、多くのスタッフが共同作業に入る以前の、構想段階での宮崎氏のアトリエを取材しているということである。

 氏は10年前のフィルムとは異なって、終始きわめて無愛想で、不機嫌であった。最初私は、10年の歳月がそうさせているのかと思った。あるいは取材しているの人物との相性の違いなのかとも思った。だが、やがてそうではないことに気づいた。先の映画と今回の番組は全く取材の対象となっている空間が異なっていたのだ。今回、カメラが入ったのは、いわば宮崎駿の「屋根裏部屋」である。それはスタジオ・ジブリという社会的な場所ではなく、宮崎氏個人の全く一人きりの秘密の空間であって、そこで行われていたのは、氏の全く孤独な一人の作家としての作業だったのである。本来いてはいけないところに取材者がおり、あってはならないところにカメラがあった。

 番組の終わりの方で、氏は取材者の不躾な質問に対して怒りをあらわしながら、不機嫌さと創作の関係について語っていた。自分は本当はいつも不機嫌でいたい人間なのだ。でも、それじゃあならないなと思うから笑顔を浮かべている人間なのだ。そして、映画はそういう時間に作られるものなのだと。このことは、映画であっても論文であっても変わらないのではないだろうか。交流や相互批判も大切だが、この不機嫌な孤独の時間がなければ、それは意味がないのではないだろうか。

 事実、わたしは本当に悩みぬきながら考えている時にはブログを書いていない。人のことはわからないが、たとえば白頭庵氏の「鬱」などにもそういった意味あいがあるのではないかと想像する。「屋根裏部屋」とは本当はそういう空間なのである。

 このブログをやめるつもりはない。ただ、こうしたブログを作ることによって、思考という行為にともなう孤独から逃れられるというような幻想は戒めなければならない。人はみな一人で死ぬように、私はやはり一人で考えなければならないのだ。ネットワークは有用だが、孤独な思考作業のかわりには決してならない。それがこの一年で学んだことだ。

 一年目を終えるにあたり何だか非常に否定的なコメントになってしまいましたが、これからもどんどん積極的に投稿していくつもりなので、皆様もよろしくお願いいたします。

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