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2007-04-11

コピー屋の人生哲学

 前回、熱を出したことを書いてそのままにしていたら、いろんな人から大丈夫かと聞かれた。熱を出しているときは暇なのでついつい更新してしまうが、治ると忙しくなってついつい後回しにしてしまう。もう一週間以上更新してないのか……。気づかなかった。

 おかげさまで熱は治ったのだが、それと同時に新学期に突入してしまった。これからまた講義にあけくれる毎日がはじまる。べつにあけくれる必要はなく、適度に講義をし適度に自分の勉強をし適度に休めばいいのだが、私の場合、器用な人間ではないので、講義がはじまるとそちらにのめりこんでしまって別のことができなくなってしまう。今年はそういうわけには行かないぞ、と思ってはいる。しかし、それは毎年思っていることでもある。

 ところで、学校の脇の路地にあったコピー屋が無くなってしまった。先日、新学期前に学校に行ったときに寄ってみると、コピー機はすべて取り払われ、連絡先の電話番号が記された小さな紙だけが貼ってあった。とうとうこの時が来たか、という思いで私はそれを見つめていた。

 いつからその店があったのかは分からないが、少なくとも私が大学に入った時にはすでにあったと思うから、20年以上お世話になってきたことになる。最初は1枚7円くらいだったのが少し値上がりして1枚8円となり、それからはずっとそのままである。1枚10円が当たり前の時代にあってかなり安い。とくに大量コピーする場合には、この2円の違いは大変なものである。

 狭いスペースに10台くらいのコピー機が置いてあり、地味な、しかしやたらと元気のいいおねえさんが一人できりもりしていた。この方が実に素晴らしい仕事をしていた。大量のコピーをしなければならないときには、このおねえさんに頼むと代わりに作業をやっておいてくれる。それを嫌な顔一つせず、むしろすすんで引きうけてくれるので本当にに助かったものだ。われわれが使う本には絶版になって入手困難な本が多い。そういう本を5,6冊図書館で借りてきて、そのままこの女性に渡すと、元気よく「いつまで? いまちょっと他のやってるから、夕方まで出来ないけど……」などとおっしゃる。こちらは、一週間くらはかかるだろうと思っていたのである。数時間で5、6冊の本をコピーすることがいかに大変であるかは、2、3冊くらいならやったことがある私には想像できる。とにかく黙々とやるしかない仕事なのである。

 このおねえさんは、私が気づいた時にはすでにその店にいたから、失礼だけれども、もうおねえさんと呼ばれるような年ではないだろう。彼女は、なぜかくも長い間、こんな地味で大変な仕事を続けることが出来たのだろう。こういうコピー屋にとって、コピー作業は本来ならやらなくてもよい仕事ではないだろうか。コピーしたければ各自でやればいいのである。少なくとも彼女が断っても問題はないような気がする。まあ会社の方から、やるようにと言われていたのかも知れないが、それにしても彼女の引きうけ方は、決して会社から言われたから仕方なくやってますというような消極的なものではなかった。いつ行っても即座に「いつまで?」と元気に聴く。そして、読みかけの文庫本を伏せて立ち上がり、すぐに空いているコピー機に向かうのである。そういう態度を20年間、首尾一貫してとることができた背後には、何らかの人生哲学なり、生きていく上での方針があったに違いない。

 彼女がとってくれたおびただしいコピーの束が、250枚まで綴じられる私の自慢のホッチキスによって製本されて、今でも本棚のかなりの部分を占めている。しかし、彼女がいなくなってしまった以上、もうそういう形でコピーを利用することは難しくなるだろう。何か非常に今大きな喪失感を私は味わっている。これからあのコピー屋なしでやっていかなければならないと思うとなんだが心細くなる。しかし、そのことよりも今は、長い間私のささやかな勉強を支えてくれたこのコピー屋とそのおねえさんに、心からありがとうを言いたい。

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2007-04-03

熱の原因となった朝のジョギングを振り返りつつ、私の住む町を紹介する

 まだまだ熱は下がらない。仕方がないから、またブログの更新だ。ここのところ私としては画期的なペースとなっている。

 今回の熱の直接の原因は、おそらく娘と一緒にやっている朝のジョギングにある。ジョギングの途中、とある公園で休憩した折りに、そこらじゅうに書かれている落書きを見て回るうちに体がすっかり冷えてしまったことがあった。娘はぴんぴんしているが、私の方はどうもあれ以来、徐々に具合が悪くなっていったように思う。

 ジョギングは運動不足解消のために始めた。昔みたいにランニング・ハイの状態になる前に、足ががくがくしてしまうのはやはり長年の運動不足を物語っている。しかしこのへんで何とかしておかなければ、この先ちゃんと生きていけないと思う。

 朝のジョギングはやはり気持ちのいいものである。走りながら目に入る風景がみな昼間とは違って神秘的である。そこでついつい立ち止まって写真をとってしまい、娘に怒られるのである。せっかくだからその数枚をアップして私の住んでいるこの精霊が跋扈する町並を紹介したい。なお、最後のものは、いわゆる「トマソン」である。

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2007-04-02

熱にうなされながら「キリスト教学」について思う

 扁桃腺がさらに悪化し、とうとうまた医者に行くはめになった。前回医者に行ってからまだ一月と少ししか経っていない。一体、いつからこんなに軟弱になってしまったのだろう。ともかく、手に入れたロキソニンを飲んだ。しかし、その効果にも限度があって、37度以下には熱が下がらず、仕方なくハードな仕事は一時中断。本当は小説でも読んで過ごしたいところなのだが、新学期を間近に控え、気がせいてなかなかその気になれない。結局、ひたすら受動的に他人の論文などを読んで過ごしている。

 先の記事にトロウ氏が寄せてくださったコメントを読んで、学問領域の線引きということについて思いめぐらした。これまで自分の専門領域を「宗教哲学」としてきたが、最近はむしろ素直に「組織神学」とすべきではないかと考えているところである。ところでそれらの周辺領域を指す概念として「キリスト教学」がある。たとえば私が所属しているのは「日本基督教学会」だし、私が卒業したのは「キリスト教学科」である。しかし、この「キリスト教学」という概念の内実が何なのかということは、いまもってよく分らない。「日本基督教学会」の機関誌が『日本の神学』であり、私の出身大学の「キリスト教学科」の大学院が「組織神学専攻」であることも、事態の曖昧さをあらわしているかもしれない。

 今日届いたばかりの雑誌に、この「キリスト教学」という概念に関する大変有益な論文が載っていた。(久保田浩「『キリスト教学』という狭間、そしてその可能性」(『キリスト教学』第48号、立教キリスト教学会、2006年、103-129頁)「キリスト教学」とは何かを理念的に定義するのではなく、「キリスト教学」という概念を成立させてきた明治以降の日本の学問制度の社会的・歴史的文脈を探りながら、「『キリスト教学』概念を巡る言説空間」(104頁)を分析し、「キリスト教学」という概念が、「神学」、「宗教学」といった概念との関係の中でいかに認識されてきたかを緻密に考察した論文である。

 これを読んで、まずは「キリスト教学」という概念が持っている便宜的な性格を改めて感じると同時に、「キリスト教学」に限らず、様々な学問的区分がもともと19世紀西洋という特殊な時空からもたらされた輸入品であることを再認識した。

 著者は、「キリスト教学」の概念を「神学」と「宗教学」という二つの概念を絶えず引き合いに出しながら考察するが、「神学」と「宗教学」の「狭間」に「キリスト教学」の「可能性」があるという立場をとらない。(120頁)というのも、「宗教学」そのものが「現在に至るまでも『キリスト教学』と同様『怪しい』学問であり続けて」(122頁)おり、「『キリスト教学』は、確立したディシプリンとしての『宗教学』と『神学』との『狭間』にあるとは決して言えない」(123頁)からである。

 日本の学問制度が19世紀における西洋的学問理解の輸入であり、その内実のうちに「特殊ヨーロッパ的な社会・政治・文化・宗教的情況の自己肯定の論理」(124頁)を宿している。そして、「20世紀後半以降そうした19世紀的な近代性の原理そのものに疑いの眼差しが向けられるようになっているのが現在」(124頁)であってみれば、今後の日本の学問の在り方を考える上では、従来とは根本的に異なった境界線の引き方を模索する必要があるのではないかというのが著者の考えである。そして「キリスト教学」が置かれている「狭間」ということの意味を、改めて次のように規定する。

「キリスト教学」というものは、一方で、西洋近代の産物である学問の自明性を出発点とする立場と、他方でそれを西洋近代の自己正当化の論理であるとして糾弾する、西洋近代の学問に対する根本的批判との『狭間』にあって、自己形成を図っていく可能性がある。(126頁)

著者はとくに、「キリスト教が社会の自明の所与ではなかった、そして現在でもそうではない日本社会」というわれわれのコンテクストが重要な要素となることを示唆しているが、これは自分の領域を「宗教哲学」と規定するにしろ「神学」と規定するにしろ、われわれが背負わざるを得ない課題なのだろう。

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