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2007-04-02

熱にうなされながら「キリスト教学」について思う

 扁桃腺がさらに悪化し、とうとうまた医者に行くはめになった。前回医者に行ってからまだ一月と少ししか経っていない。一体、いつからこんなに軟弱になってしまったのだろう。ともかく、手に入れたロキソニンを飲んだ。しかし、その効果にも限度があって、37度以下には熱が下がらず、仕方なくハードな仕事は一時中断。本当は小説でも読んで過ごしたいところなのだが、新学期を間近に控え、気がせいてなかなかその気になれない。結局、ひたすら受動的に他人の論文などを読んで過ごしている。

 先の記事にトロウ氏が寄せてくださったコメントを読んで、学問領域の線引きということについて思いめぐらした。これまで自分の専門領域を「宗教哲学」としてきたが、最近はむしろ素直に「組織神学」とすべきではないかと考えているところである。ところでそれらの周辺領域を指す概念として「キリスト教学」がある。たとえば私が所属しているのは「日本基督教学会」だし、私が卒業したのは「キリスト教学科」である。しかし、この「キリスト教学」という概念の内実が何なのかということは、いまもってよく分らない。「日本基督教学会」の機関誌が『日本の神学』であり、私の出身大学の「キリスト教学科」の大学院が「組織神学専攻」であることも、事態の曖昧さをあらわしているかもしれない。

 今日届いたばかりの雑誌に、この「キリスト教学」という概念に関する大変有益な論文が載っていた。(久保田浩「『キリスト教学』という狭間、そしてその可能性」(『キリスト教学』第48号、立教キリスト教学会、2006年、103-129頁)「キリスト教学」とは何かを理念的に定義するのではなく、「キリスト教学」という概念を成立させてきた明治以降の日本の学問制度の社会的・歴史的文脈を探りながら、「『キリスト教学』概念を巡る言説空間」(104頁)を分析し、「キリスト教学」という概念が、「神学」、「宗教学」といった概念との関係の中でいかに認識されてきたかを緻密に考察した論文である。

 これを読んで、まずは「キリスト教学」という概念が持っている便宜的な性格を改めて感じると同時に、「キリスト教学」に限らず、様々な学問的区分がもともと19世紀西洋という特殊な時空からもたらされた輸入品であることを再認識した。

 著者は、「キリスト教学」の概念を「神学」と「宗教学」という二つの概念を絶えず引き合いに出しながら考察するが、「神学」と「宗教学」の「狭間」に「キリスト教学」の「可能性」があるという立場をとらない。(120頁)というのも、「宗教学」そのものが「現在に至るまでも『キリスト教学』と同様『怪しい』学問であり続けて」(122頁)おり、「『キリスト教学』は、確立したディシプリンとしての『宗教学』と『神学』との『狭間』にあるとは決して言えない」(123頁)からである。

 日本の学問制度が19世紀における西洋的学問理解の輸入であり、その内実のうちに「特殊ヨーロッパ的な社会・政治・文化・宗教的情況の自己肯定の論理」(124頁)を宿している。そして、「20世紀後半以降そうした19世紀的な近代性の原理そのものに疑いの眼差しが向けられるようになっているのが現在」(124頁)であってみれば、今後の日本の学問の在り方を考える上では、従来とは根本的に異なった境界線の引き方を模索する必要があるのではないかというのが著者の考えである。そして「キリスト教学」が置かれている「狭間」ということの意味を、改めて次のように規定する。

「キリスト教学」というものは、一方で、西洋近代の産物である学問の自明性を出発点とする立場と、他方でそれを西洋近代の自己正当化の論理であるとして糾弾する、西洋近代の学問に対する根本的批判との『狭間』にあって、自己形成を図っていく可能性がある。(126頁)

著者はとくに、「キリスト教が社会の自明の所与ではなかった、そして現在でもそうではない日本社会」というわれわれのコンテクストが重要な要素となることを示唆しているが、これは自分の領域を「宗教哲学」と規定するにしろ「神学」と規定するにしろ、われわれが背負わざるを得ない課題なのだろう。

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