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2007-05-15

ないものはない

Kinkame_2 

 前から気になっていた看板だが、商品があるのかないのか決定不可能な文章である。

①当店には存在するすべてのものがあり、当店に無い商品などこの世にはございません。
②当店には、この世に存在するすべてのものがあるわけではありませんから、当店に無い商品をお求めになられてもいかんともすることができません。

しかし、よく考えてみると実は可能な意味がもう一つあることに気づく。

③「ないもの」は、当然のことながら無いのであって、存在するのではない。

 ③はまるで哲学者パルメニデスの命題のようである。③は②と一見同じように見えるが、②が「この店には無い商品もある」ことを示唆しているのに対して、③では「無い商品があるという言い方は間違い」であることを示唆しているいるから、実際には両者は対立している。

 ちなみにこの店は質屋であるが、これが質屋の類の決まり文句なのか、それとももっと深い意図があるのかどうか私は知らない。

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2007-05-09

駒落ちにかわる究極のハンディキャップで、これは面白い息子との将棋――Ⅱ

 さて、いよいよ第二戦。今度は私が先手だ。王を囲おうと思って金をあげた瞬間に息子の歩が二つ進む。「あ、やばい」と思って、角道を挙げると、次の瞬間には角の前の歩をとられた。角は逃げたものの、そのあと桂馬、銀ととられ、そしてその銀で王手!=負け。考えてみれば、王手は何も飛車や角で遠隔からする必要はないので、王の鼻先に銀をおけばすむわけだ。われながら、こんなことに気づかないとは。

 というわけで、このハンディだと相手に持ち駒を持たせた時点で負けになることが分かった。勝とうと思った私が馬鹿だった。逆に相手がこのハンディを負てくれれば、私でも羽生さんに勝てる。(と思う)。

 いずれにしても、息子との将棋にこのハンディは使えない。そこで新しい案を考えた。2手はきついから、1.5手にするのだ。実際には2手打った後は1手というように交互に打つ。これなら、何とかなるかも知れない。

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駒落ちにかわる究極のハンディキャップで、これは面白い息子との将棋

 ふつう実力差のある者同志が将棋を指す場合には、ハンディキャップとして飛車を抜いたり角を抜いたりする。これを駒落ちと言う。(などと偉そうに言うような将棋通ではないが)。小学3年の息子と指す場合、飛車、角、桂馬、香車を全て抜いても、なお余裕で私が勝ってしまう。これまで3年間で1敗しかしていない。(大人げない?)

 ところが昨日ふと新しいハンディキャップを思いついた。それは私が一手指すごとに、息子が二手指せるというものだ。「これならいい勝負になるかも知れない」などと、軽い気持ちでやってみると、冗談じゃない。いつものように飛車の前の歩が上がってきたなと思っていると、あっというまに角をとられてしまった。そうして角が相手の持ち駒になると、次にこの角で王手をされ、それで早くも試合終了である。5分とかからなかった。

 二手一度に指すということは、単に相手に二倍有利であるというようなことではなかった。ハンディは累乗される。ちょうど、10倍の加速装置をつけたサイボーグ009と戦っているようなかんじだ。手がちょっと動いたなと思ったら、次の瞬間にはもう殴り飛ばされている。第一、ゲームとしての将棋を構成する上で重要な「王手」というものがすでに意味をなさなくなっている。この場合、王手とはすなわち王を取ることを意味してしまうからだ。

 こんなことは将棋をよく知るひとなら、あたりまえのことなのかも知れない。しかし、私には新鮮な事実だった。そして、この究極のハンディキャップマッチに気づいたおかげで、これまでいささか退屈だった息子との将棋が逆に大変スリリングなものと化した。何とかして勝てないものか? 原理的に無理なのか? 不可能を可能にするような、アッというような手はないのか?……というわけだ。とりあえず、次回は私が先手でやってみることにしよう。

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2007-05-04

なぜ人を殺してはいけないか(6)――この問いの場

 以上の回答のほとんどは、どちらかと言えば不十分で舌足らずな感じのする回答であり、残念ながら決定的に私の心を動かすようなものはなかった。また、その後も授業の中で、この話題を何度か取り上げたことがあって、その度にいろいろな形で聴講者の意見を回答を聞いたが。やはり同じであった。回答者はほとんどが20歳前後の学生であり、それくらいの年齢であればこうした結果は仕方がないのだろうと思っていた。

 しかし、今回この問題をあるゼミ形式の授業で学生たちに問いかけたところ、ちょっと異なった事態に行き当たった。最初にA5くらいの用紙に答を書いてもらうと、学生たちはやはりだいたい上に上げたもののいずれかと似た答を書いた。そこに何か新しい要素はとくになかった。ところが、ゼミの特徴を生かしてそれぞれの回答について一人一人口頭で解説をしてもううちに、彼らがこの問いに対していだいている理屈では説明しきれない複雑な思いが噴出してきたのである。

 おそらく彼らは、一見単純そうに見えるこの問いがもつ複雑さを、これまで生きてきた経験を通して直感的に洞察している。そして、この問いに答えを与えようとする中で、それらを意識しはじめていて、それがこの問いにむかうときの戸惑いのようなものとして現れはじめている。しかし、それはコメントの書面にはうまく反映されない。ことばの単純さに対して、それが指し示そうとする内容があまりにも大きく複雑で、文字として整理することができないのだ。その文字にならない思いが、しかし口頭で自由に語る時、一気にあふれ出てきたように感じた。

 ある学生は、ここに書いたコメントは表向きのものであって、実際に思うところは別にあると言った。それは簡単に人に話せるようなものではない、と。そうなのだ。この問いはとても重いテーマ様々な問いに関連しており、真剣にそれに取り組もうとすれば、自分の人生や他者や世界について感じることの全てを根本的に考え直さなければならなくなってくる。できるだけ表だっては口にしたくないような事柄を、自分や他人の意識のうちにさらさなければならなくなってくる。それは、その人の生き方の根本的にかかわる問いであり、人がそれに対してどういう答えをするかでその人がどんな人間であるのかが判断されてしまいかねないような問いでもある。そんな問いに対して、アンケートのような簡単な形式で答えを与えることができると考える方が実は安易なのかも知れない。

 その学生は、しかし、このような場(ゼミ)では、そういう表向きのコメントとは異なったことを話すことができると言った。なぜなら、心を許せるメンバーがいて、十分に説明することが出来る時間があるからだ。誤解のないように互いの意を確認しあい、納得できなければとことん議論することができる。そのような場でなら、もっと違った答えが出せるかもしれない。これは、考えてみれば当然のことである。しかし、私は学生からそう言われてはじめて、「なぜ人を殺してはいけないか」というような問いを本音で話し合い、実のある結果を得るためには、こうした対話の場が必要なのだということに気づいたのである。

 わたしはもともとアンケートなどというものを信じない人間である。安易なアンケート調査を憎んでさえいる。多くの場合、そこには誘導尋問の要素があって、答えの選択肢があらかじめ決められていて、しかもそれらがしばしば数値化されるからだ。それは複雑な問題を単純化してしまう。しかし、文書で考えを述べるという形でのコメントなら、かなり有効なのではないかと考えていたと思う。しかし、考えてみれば、それもまたアンケートであるには違いないのであって、人の本心をそれによって知ることは難しいのかも知れない。

 たくさんの学生のコメントはもちろん、知識人たちに対して雑誌が行ったアンケートにしても、一定の決められた問いに対して、一定の字数で何かを書かなければならないという状況の中で、人が何か真実を語ることができる可能性は低い。それに本当に答えるためには、文学作品一つ、あるいは人生一つを必要とする、そういう場合だってありうるのではないだろうか。

 以下では、それでもなお、あえて「なぜ人を殺してはいけないのか」という単純化された問いにこだわっていこうと思う。ただし、私は今この時点でも、それに対する明確な(単純化された)答えを持っているわけではないし、様々な検討の後にそのような答えを導き出すことが出来ると考えているわけでもない。私はいろんな人の意見を読み、いろんな仕方での回答に耳を傾け、それらを一つ一つ検討しながら、そのことを通して何かが見えてくることを期待しているにすぎない。その際に言えることは、定式化された答えを早急に求めるのではなく、問いをできるだけ深化させることが必要だということである。ゼミやこのブログなどがそのような場所になればよいと思う。

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なぜ人を殺してはいけないか(5)――C その他の回答

 「A ヒューマニスティックな回答」にも「B 現実主義的な回答」にうまく分類できない回答である。これらの中には、後で知識人たちの回答を紹介するときに出てくるような重要な視点が埋め込まれているように思われる。

⑥命のつながり (10)
  一人の命は、別の命とつながっているので、一人の命を傷つけることは、それらの命のつながり全体を傷つけることであり、結局は自分をも傷つけることにもなる。エコロジーやアニミズムとどこかで繋がっていそうな答えである。

・命というのはその人個人に規定されるものではなく、その人とつながりをもっている人すべてに影響するものでもあるから。
・人が一人死ぬということは個人だけの問題ではないので。
・人間は一人ではいきられないものであり、どんなに他人でもどこかでつながっているのだと思う。そういう人をころすことはやはり悪である
・自然の摂理にかなって生まれた命を、自然よりも小さな存在である人間の手でどうこうするのは間違っているから。
・私たちは一人では生きていけない。一人を殺すことの影響はその人だけのものではない
・人間が同じ人間である生命を奪うことは許されない。
・命は自分だけのものではないからです。
・人は他者との関わりがあって初めてその存在を認識され「存在」し得る。それを自ら断ち切る行為は、すなわち自分の「存在」をも否定する行為である。
・生かされている
・人は自分の力で生きているのではなくて、何か別の大きな力に生かされているからだ、と思っています。
・人間は本来、不自由な存在。誕生も死も自分では選べない。生は与えられた物であり、そこには人間の力を肥えた他者の存在がかいざいしている。「神」。

 先ほど、「命の尊さ」という回答のところで、「命」というなら動物や植物も「命」をもっているではないかということを言ったが、この回答はこの難点を補う可能性を持っているかも知れない。

 たとえば、仏教とかジャイナ教の教えには「不殺生」という戒律があるが、これは「人を殺してはいけない」ということではない。人だけではなく、「生きとし生けるものすべての命を奪ってはいけない」ということである。だから、どんな生き物も本当は殺してはいけないわけである。だから修行者は肉食を断って植物だけをを食べる。しかし、植物にだって「命」はある。それを食べることは植物の命を奪うことになる。すべての命を守ろうとすれば、餓死するしかないのである。しかし、餓死すれば、少なくとも自分の命を奪うことになる。どうしようもないジレンマの中に置かれるわけである。

 ここから分かることは、どんな命も、他の命の犠牲によってしか存在しえないということだ。そして、自分の命を尊ぶためには、他の命を奪わなければならない。これは命をもっているかぎり必然的に起こることであろう。そして、あらゆる命が、そういう互いの犠牲によって成り立っている。そういう命のつながりの中に、人間ははじめて存在しうるのだという観点。これは、一つの思想と言えるだけの深さをもっていると思う。仏教徒だって実際には必要最低限の生き物を食べざるを得ない。しかし、それは命のつらなに自分も加わることであって、たとえば豚や牛を大量に飼育して、それを殺して食べていくというような生活は、何かおかしいということになるだろう。

 もっとも、「命のつながり」を強調する回答は、何も食物連鎖のことだけを言っているわけではないだろう。人間が一人では生きていけない、というより生きるということは誰かとの関係に置かれることだ、「人を殺す」ということはそういう人間のありかたを打ち壊してしまうことだ。それは同時に、自分という存在のあり方をも否定することだ。倫理の根源を人と人との関わりということに見る場合、この視点は重要である。

⑦殺す人自身にとってよくない (10)
 さて、「なぜ人を殺してはいけないか?」というような問いを出すと、普通は殺される側から考えるものだが、この回答はむしろ殺す人のことを思い描いて、殺す人の側から答えようとしている。

・人としての健全な生活を送れなくなるから。
・人を殺すと言うことは、人道に反することである。
・人は簡単に殺せますが、自分の心が貧しくなる。自分の心を大切にすべき。 
・一生罪悪感に悩まされ、恨まれるから。そして自分の周りの人に迷惑がかかるから。
・自分がなぜ殺すかを考えたとき、多くは自分勝手な理由によるので、自分自身にとってすべきではない行為だと思う。
・殺したらそのときはすっきりするのかもしれないけど、それは一時的なものであとは何も残らないと思う。残るとしても後悔とか……。
・殺すとき気分が悪い。殺した後もしばらくしたら決していい気分はしないだろうから。
・人を殺すことは、最終的に自分をだめにしてしまう。
・人を殺したなら、それは相手だけでなく、自分のその先の人生を殺したも同じである。
・殺した人の人生も終わってしまう。

 つまり、人を殺すことで、その人には何もいいことはない。かえって、心はすさみ、罪意識に苦しめられながら、一生を送らなければならない。殺す人にとってもよくないことだ、という意見である。これは、これから殺人をしようとしている人を止める場合には、効果的な答えの一つだろう。また、なぜ人を殺すとその人の人生がおわってしまうのかを考えれば、先の回答と同様、倫理の本質に触れることになるだろう。

⑧生物学的説明 (12)
  これは、「人を殺してはいけない」を、人間の生物としての性質に見いだそうとするものである。このタイプの回答は、主に二つの種類に分けることができよう。

(a)動物と違う――理性をもっている
 人間は、動物と違うがゆえに、人を殺したりはしない、というもの。

・人間には理性がある。殺人を侵してよいということになると、人間はただの獣と化してしまう。
・人を殺していいとすれば、人間は他の同鬱と同じになる。他の動物と同じなら文明を持つ資格はなくなる。
・よく考えると、人間だけのルールであることに気づく。
・同種内での殺し合いが存在するのは人間だけである。われわれが社会の中で自由にやっていくには、暗黙のルールが必要である。「なぜ」は愚問だ。

(b)動物と同じ――本能をもっている
 人間は、動物と同じように、種の保存の法則にしたがって、同族を殺さないようにインプットされている。そういう本能を持っている、という答えである。

・明確には言いにくいが、生物界において例外を除き同種食いはタブーである。それは遺伝的にプログラムされているのではないか。
種の保存のため。
・動物が同じ種族内で、故意に殺し合いをすることがないのと同じように、人間に組み込まれたものではないだろうか。
・動物が同一種で殺し合うことはほとんどない。人間は生物である以上、「共存」の本能をもっている。ただ、現在、生があたりまえすぎておかしくなっている。
・人間(生物)は、子孫を残すために生存しているのに、仲間である人間を殺すのはいけないこととインプットされているのか。
・種の繁栄の点から考えると、同種が殺し合うのは禁忌であるとしか言いようがない。


 わたし自身は、こういう生物学的な回答には大変関心があるが、どちらのタイプとも少しづつ違った考えを持っている。わたしの考えでは、(b)の回答のように、人間に同族を殺さないような「本能」は存在しないのではないかと思う。あらゆる生物の中で、同族を大量に殺すのは人間だけである。つまり、人間は種の保存の法則からずれてしまっている。「本能の壊れた生物」なのである。

 しかし、人間は本能のかわりに「知性」を持っている。しかしこの知性は、(a)の回答が言うように、人間に殺人を禁ずるとは限らない。むしろ、知性は人を殺すこと抑止するよりは、抑止する力(たとえば本能や社会的タブー)に対して疑義を投げかけ、それを破ろうとする傾向をもつのではないか。たとえば、「人権」というものが存在するのだという説明に対して、そんなもの実はないんじゃないかと疑いをかけるのは、知性ではないだろうか。しかし、知性がそのままつっぱしれば、相互性の原理によって知性自体も滅んでしまう。だから、知性は自分自身が暴走して、そういう方向に走るのを止めるための工夫を必要とする。そこに宗教社会学のような学問のテーマが生まれてくるように思う。

 いずれにしろ、「殺してはいけない」ということに関して、人間の「本能」、「知性」、ないしは「理性」の関係は単純なものではない。これに関して人間は動物に対して優れているのか、その逆かという問題も同じであろう。

⑨答えはない あたりまえ (13)
 人を殺してはいけないのは、当たり前で、それに答えなどないという意見。ようするに自明なのだという意見である。

・人を殺してはいけないのは当然です。私は殺されたくないし、殺したくないし、殺せません。
・とくにこれといった理由はない。殺人者がいなくならない以上、自分が殺されないように気をつけるしかない。
・アタリマエだと思っているが、そういう自明性がくずれているのだなと思った。
・あたりまえのことで全く疑問にも思ったことがない。話し合えば分かり合えることが多い。
・理由などない。むしろ、「理由」を求めなくてはならなくなってしまったのは何故かが問題。
・誰もが納得できる答えは「ない」と思う。あるとしたら、言葉という記号では表現できない、感じる部分なのかもしれない。 
・私の個人的意見として、それは答えはないと思う。
・そんな事人に聞くことではない。そんなの当たり前だとしか言えない。なぜ?と思ってしまう社会はやはり恐ろしい。
・人を殺すのはいけないことだから。私自身がそう思っているからです。そのことに理由なんてないと思います。
・その理由ははっきりと存在しない。しかし、いけないという気持ちを持てる瞬間がやってくる。それには自分がこの世に生きている実感が必要だ。
・理屈じゃ語りきれないこと世の中にはあって、そうしたことがあると信じることが世の中の均衡を保っていると思います。
・絶対にいけないことを教えて、あとは自分で解釈するのをまつしかない。解ってはいるんだろうけど、言葉では説明できないものではないか
・いけないものはいけない。それは単なる命の尊さだけでは語れない。それは生まれながらにしてももっている判断なのかもしれない。

 ある意味この答えは正解なのかも知れない。ただ、どういう意味で答えが出せないのか?なぜ答えがないのか?という点が重要であろう。

 さて、学生たちが書いた回答は以上のようなものである。他に、「わからない」とか「教えて欲しい」といったもの、あるいは何を言っているのか不明なもの、どこにも分類しようのないものもいくつかあったが、それ以外はすべて紹介した。これを見て思うことは、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して答えうる回答には、それほど多くの種類があるわけではないということである。後で有識者たちの回答も紹介しようと思うが、それらの回答は辞学的に優れていたり論理的な説得能力に優れていたりはするが、答えの内容としてはだいたい以上の分類のどこかに入るのではないだろうか。

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なぜ人を殺してはいけないか(4)――B 現実主義的回答

 ここに分類した回答は、人間が尊い存在であるとう理想や願望はあえ持ち出さず、より現実的な観点から理由を導き出そうとするものである。ヒューマニスティックな回答が、人権とか命の尊さといった価値は本当に存在するのかという疑問に対して答えられず、したがって問いに答えたことにはなっていないという難点を持つのに対して、この現実主義的回答は、少なくとも理屈によって納得できるだけの答えを与えている。ただし、その答えが、本当に「人を殺してはいけない」という絶対的な命令の理由になっているかには疑問が残る。

④自分が殺されたくないから――相互性 (34)

  この回答には、二つのタイプがある。自分がいやなことは他人もいやだろうという「思いやりタイプ」と、他人に殺されないためには自分も殺さないといういう「取引タイプ」である。

(a)「思いやりタイプ」


・自分にされたくないことは他人にはしちゃいけない。
・自分自身が他人に殺されたくないのだから、人を殺してはいけないと思うし殺さないのだと思う。
・自分がされていやなことは、人にもすべきではないから。イヤではないというなら、他人ではなく自分を殺してみるべきだ。
・自分が殺されたら嫌だから、自分も人を殺さない。
・自分がイヤなことは他人にしてはいけない。
・自分がそうされるのがいやだから、他人に対してもしない。みとめることは、自分が殺されても仕方ないと認めることだと思う。
・じゃああなたは殺されてもいいの?ってきく。「いや」なら、自分のいやなことを人にはしちゃいけない。「いい」なら、「殺されなさい」と言う。
・人にころされたくないと思ったら、当然の如く人を殺めてはいけない。「死んでほしい」という気持ちだけでは他人をころしてもいいという理由にならない。
・「あなたは誰かに殺されて、理由もなしに命を奪われてももいい?いやでしょう?だから人を殺しちゃいけないんだ」って答える。
・自分も殺されたらいやだから。
・相手の立場に立って考えると、自分も人に殺されたくないと思うから。
・自分の生活を邪魔されたくないのと同じように、他人の生活を邪魔してはいけないから
・自分も殺されたら嫌でしょ?と答える。
・自分が生きていたい、死にたくないと思うように、人間はみなそうおもっているから。自分がされていやなことは、他人にもしてはいけない。
・子どもに自分の大切な人間が殺された事を想定させ、誰もが皆同じだと説く。(ただし)中学生ぐらいだともう効かないかも知れない。

「思いやりタイプ」中には、本来は「ヒューマニズム的な回答」に分類すべき観点も入っている。他人も自分と同じような尊厳をもっているということを理解させる手段として、まず自分が殺されたらいやだということを想起させ、そこからの類推で他人もいやなんだということを理解させるというのはごく基本的な教育手段であろう。ただ、最後の回答にもあるように、これは幼稚園くらいまでに身につけさせるべき教育であって、中高生に質問されて答える答えとしてはどうだろう。

(b)「取引タイプ」


・もし人を殺すことを許してしまえば、自分が殺されることも許してしまうから。
・人を殺してよいということは、当然自分が殺されても良いということと同義だ。
・自分が殺されたらどうかを考えなさい。人を殺すことが当たり前となれば、自分がいつ殺されるかわからない不安・恐怖に追われるんだよ・私は私がころされたくないから人をころさないと思っています。
・自分が殺されたくないと考えていて、生きる権利を主張するなら、相手の権利も認めなくてはならないため。
・なぜ人を殺してはいけないかと聴かれたら、自分が殺されたくないから、人も殺さないと答えます。
・自分から殺されたくないから殺さない。
・人の命を奪ってよいと主張することは、それと同時に自分の命は奪われてよいと主張することと同義であろう。
・他人を傷つけるもしくは殺すことは、自分が他人から傷つけられ殺されることを容認するもおであるから。
・自分が殺されたくないから、みんなで禁止するしかないとしか言うことができない。
・自分が殺されるのは御免だから。
・自分が死にたくないし、ころされたくないのは当然で、それは他の人にやっていいはずが無いからです。
・自分もしにたくないから。
・殺されたくないから。
・人は殺してもいいと思う。後で自分が殺されるのが怖くなければ。
・人は、自分が殺されないことを保証され、そのかわりに自分も殺さないという契約をむすんでいるから。
・自分を自分で守るため、「人を殺してはいけない」という自明性を生んだ。それは他人のためではなく、自分を守るための個人としての切なる願いだと思う。
・人を殺してもいいとなると、自分も人に殺されてしまうかもしれない。そこでお互い身の安全をえるため法律というものを作り禁止した。
・殺人をした後の利益がない。むしろ自分にとって不利益。

 「取引タイプ」の回答は、人間に普遍的にそなわった価値とか人権のようなものを信じないか、あるいは信じていてもそんなことを前提としないで回答しようとするものである。

 人間に価値があろうとなかろうと、大部分の人は自分は死にたくないと思っている。このことはかなり確かなことである。だとすれば、お互いが死なずにすむためには、お互いが殺さないようにするしかない。こういう観点から見れば、人権だとか、命の尊さだとかいうのは表向きのことに過ぎない。その証拠に、戦争では人が死ぬし、人を殺すような殺人者は、死刑にされる。本当のところは、お互い自分が殺されたくないから殺さないのであって、そのことをうまくオブラートに包んで上品に説明したのが、「人権」とか「命の尊さ」といった言葉なのだ、と。

 こうした説明は下に紹介するような社会契約論的な回答とも関わり合う有力な意見ではあるが、心に冷たい風が吹く感じがする。第一、このような回答は、言い方をかえれば、自分が殺されてもいいなら殺してもよいと言っていることにもなって、「(絶対に)人を殺してはいけない」ことの理由にはなっていない。

⑤社会秩序 (21) 
 「取引タイプ」と基本的には同じだが、個人同士の「相互性」よりももっと広く社会全体の秩序という観点から答えようとするものである。

・社会秩序が乱れるから。人を殺しても良いことになれば、いつ殺されるか不安感にいつも怯えなければならない。(罰がなければ、殺人は増える。)
・殺していいなら、世の中は成立しない。
・殺人を犯してもよい社会ならば、自分も殺される可能性があるから。一種の勢力均衡制のようなもの?
・そういうルールの上に社会は成り立っているからです。ルールを破った相手への、正当防衛や死刑は、ルールを保つために必要だと思います。
・人を殺すことを禁じられていた社会の中に生きるから。
・理性ある人間として、(殺さないことは)社会を守ることにつながるから。
・それを認めてしまうと、「社会」というものの基盤、つまり一人で生きてゆけない人間が助け合って生きていくという本来の意味を失ってしまう。
・社会全体において、その程度の殺意をもっている人間が殺人に踏み切る可能性が高くなるということで、ひいては自分が殺される可能性も高くなるので。
・いけないとすることで、人間社会を平和に保つため。
・信頼によって作られた社会の中で、人を殺さないのは、その信頼を裏切らず、また裏切られたくないから。
・社会秩序を守るための集団的自衛本能として当然であろう。
・人が殺されることは、社会という機械の部品がなくなること、そうすると機械は壊れてしまう。つまり社会の秩序が乱れるのだ。だから人を殺してはいけない。
・社会には暗黙の了解としてのルールがあり、それが崩れれば秩序がなくなり、社会が成り立たなくなる。
法律があるから
・法律があるから人は人を殺せないのだと思う。法律(理性)がなければ、人は戦うという本能をむきだしにすると思う。)
・社会のルールだから。社会を営む上で都合がよいから。(右折禁止やUターン禁止などと同じ)
・犯罪だからとしか言えない。イヤな目にあったり、両親を殺されたりしたら、自分んも人を殺してしまいたいと思うだろう。
・人間として生きる上でのルールとして、大人はもちろん、十代の少年たちの多くは理性で理解していると思う。だが感情がそれを上回れば殺人は起こる。
・人を殺せば、法律を犯してつかまるから、人を殺せない。しかし、そういう法律がない場合でも殺せない。なぜなら社会の拘束力があるから
・集団で生きる必要のある人間にとってルールは必要である。そのの最低限のルールの一つ。
・法律でその様に定められているから。善悪の判断は様々。大衆のための理論である法律に根拠を委ねるのが当然と思う。
・倫理に反することだからやってはいけない。しかし、そう教え込まれてきたからそう思うのかもしれない。

 これらの回答は、私やあなたが死ぬ死なないよりも、秩序全体のことを考えた意見で、まるで社会統治者の参謀のようなクールな意見である。互いに互いを殺さないという契約の上に社会は成り立っている。だから、殺人を許せば社会の秩序は保てない。この考えに立つと、たとえば法律というものは、お互い殺されたくないという利害を調整するために結ぶばれた契約であって、「人間は生まれつき生きる権利をもっている」という憲法の人権宣言のようなものは、そういう契約をもっともらしく見せるための後から作り上げたイデオロギーに過ぎない、ということになるだろう。

 私には、こういう現実主義的な回答が、事柄のすべてを言い尽くしているとは思えない。はたしてそれだけの理由でわれわれは人を殺さないのだろうか? 本当にそんな寒々とした風景の中で、私たちは暮らしているのだろうか? 少年に尋ねられて、そうこのように答えることですめばクールであり、楽でもあるかも知れないが、それで本当にいいのだろうか?

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2007-05-03

なぜ人を殺してはいけないか(3)――A ヒューマニスティックな回答

 ここに属する回答は、「人間」や「人間が生きているとういこと」を高く評価し、そこから答えを導き出そうとするタイプである。人間には、「人権」、「尊厳」、「命」、「かけがえのなさ」、「歴史性」、「アイデンティティー」といった肯定的な価値が備わっていることを主張する。

①人権・命の尊さ(41)       

  まず、もっとも標準的・教科書的な答えから。「人間は生まれながらにして、生きる権利をもっている」あるいは、「命は尊いものである」、だから人を殺してはいけないという回答である。中には、神がそう定めたからというものもあったが、一応このタイプに分類している。

・ 人の命は他に代えられない、価値の付けようのないものであり、それを人為的に奪うことはいけない。そんな権利は誰にもない。
・「人にはみな平等に生きる権利があって、その権利を個人が奪うことはできない」からだと思います。
・「人にはそれぞれ生きる権利があって、だれもその権利を犯すことはできなから」といつか誰かに教わりました。死刑は?と思うが、答えられない。
・人間誰にも、自分以外の人間の人権を自分勝手意に奪う権利は全くない。
・自分と同じ人間を殺すことは、自分を殺すのと同じ。生きるという権利をつぶしてしまうのはひどい。
・殺された人の生きる権利を奪っているから。
・被害者の自由を奪うから。
・人が生きてゆくことを故意に邪魔をしてはいけないと思う。邪魔を人は人の手によって人生を断たれるべきだと思う。
・生きるということは、人間にとっての最も基本的な権利であって、最低の条件。
・この世に生まれた以上、皆生きる権利を持っていて、それを犯すことはできない。
・一人一人は等しく作られてあり、尊き存在であるからです。
・他人の権利を奪ってはならないから。他人の自己決定権を奪うことだけはあってはいけない。
・生きる権利を奪われてはいけないから。
・その人の生きる権利の侵害になるから。
・一人一人生きる権利があって、その権利を他人が奪うということはあってはならないから。
・人が同じ人間の生きる権利を奪うことはできないからだと思います。
・自分も他人も同じ「人」なので、殺す権利というものはないと思います。
・人は皆生きる権利があるから。
・命は大切、尊いものだから。
・命は尊いものであり、自分自身だけのものではない。それはまたあかの他人によって閉ざされるものではないと思います。
・人は生きるためにうまれてきたのです。だから一生懸命生きている人の命を奪ってしまった、その人の生きてきた道を台無しにしてしまいます。
・人を殺すと言うことは、命という人の財産をうばうこと。
・そう聞かれたら、人の命の大切さとか、どんな人でもその存在がとても尊いということを伝えたい。
・万人の命は平等で尊ばれるべきであり、それが「殺人」という形で奪われるのは悲しい。
・命は無限の可能性をもつ最も尊いものであり、他者の手によって侵すことはゆるされない。
・神様が与えてくれたものをうばっちゃだめだから
・これまで考えたことがなかったが、漠然と、人間には他人の命を奪う権利はないと思う。
・人の命の大切さやすばらしさを知っているから、人は人を殺してはいけない。
・人の命ほど権利が強いものはないと思う。
・あたりまえです。人のいのちほど尊いものはありません。
・人の生死は、誰にも決定されてはいけない。自分だけの生、じぶんだけの死であるから。(自殺はいいということになる。)
・他人の生きるという行為をとめさせる資格はない。
・人の命、人生、その人の家族の幸せを勝手に奪う権利はないから
・ある人が精一杯生きて、生を全うしようとしているのに、それをうばう権利は他人にはないから。
・人の命を奪う権利は誰にもないと思うから。
・人間は生きる義務があるのではないだろうか。
・人は何か使命をもって生まれてきている。だから誰も人を殺してはいい権利はもっていない。
・私はクリスチャンで神を信じる。神の前で人は平等で、人の命もそうだ。聖書の中に殺してはいけないという神の教えがある。だから人を殺してはいけない。
・私はクリスチャンであるから、「黄金律」(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)を適応するしかない。
・神によって創られた人間なので、その肉体を傷つけること、まして殺すことは許されていない。死刑など、人が人を裁く権利さえないのでは?
・人を愛するということを知っていれば、また思いやる気持ちを知っていれば、人を殺そうなんて思わないはずである。
・殺される人がかわいそうだから。

 これらの回答の中で、おそらく「権利」ということばのうちに込められているものは大きいと思う。しかし、どうもそのことばのせいで、文部省の公式見解みたいに感じられてしまうことも確かだ。そもそも「なんで人を殺してはいけないの」と問うような子どもに、こういう答えで納得がいくはずはないだろう。こういう回答でいいのなら、もともと「なぜ……」などと問われることはないのである。

 また、これらの回答では、「人権」とか「命の尊さ」というものがれっきとして存在するかのように言われているわけだが、そんなものが本当にあるのだろうか?とういう疑問に対してどう答えるのかという問題が出てくるだろう。「人権が生まれつきそなわっている」と教えられると、あたかも自分の手足を持っているのと同じようなイメージで人間がはじめから「人権」を持っていると思ってしまうが、実際は人間が人権をもつということは、人間が手足を持っているということとは異なったことではないか。

 「命をもっているから」という答えもここに入っているが、この答えにも保留がつく。「命」を言うなら、他の動植物だって「命」は持っている。「どうして魚の命は奪ってもいいのに、人間の命は奪ってはいけないの?」という素朴な疑問が出てくるだろう。牛も豚も鶏も魚も、あるいは場合によっては米や麦や豆や野菜も、すべて命をもっている。一方で他の動物を殺して食っている人間が、はたして「命の尊さ」を無条件に言うことができるのだろうか? こうした問いかけに対して、ここに分類される回答だけでは十分に答えることは出来ない。

②かけがえのなさ――人生(過去・未来)を奪うことだから(44)

 人間は人生はとりかえがきかない。一回きりの人生を奪うことはできない、という答え。数としては一番多かった意見であり、私自身素直に共感できる意見でもある。

・人間に換わりは存在せず、貴いものだから。
・人の存在そのものが、何よりも大切なものだから。モノのように同じものを再びつくることはできない。
・人が人をつくれるわけではないから。
・自分というアイデンティティがあって、自分は生きていたいいんだと思うのと同じように、他者にもそれがあるから。
・与えられた命を精一杯生きているはずなのに、「生」を他人(自分)の手によって止めてはいけない。
・人の命は、意図度なくなってしまうととりかえしのつかないものである。その時に勝手な判断でそれをうばってしまって良いはずはない。
・一つの命というかげがえのないものを終わらせてしまったら、その命は取り返すことができないことだから。
・「世の中にまったく同じ人がいないから、代わりになる人がいないからだよ」と答えると思う。
・「天上天下 唯我独尊 (すべての世の中で、自分はただ一人のかけがえのない存在である。――岩田注)」是非わたしのような「真実を知る者」になっていただきたい。
・生まれてきて、生きる権利を奪ってよいなどというごうまんなことは許されないから
・命がいくつもの偶然の上に成り立つ貴重なものであること。人を殺すことで周囲の人に悲しみを与えることなどを説明する。(納得されるか自信はない。)
・私は自分の手で一つの人格、人生を消失させるということが怖い。だから人を殺さない。
・一人ひとりがとっても素敵だから。
・やり直しのきかない人生をその人から奪う権利は、誰にもない。ただ、死刑に関しては反対しない。
・絶対に後戻りできないことだから。
・人の命は自分がどうやってあがいても創り出せないもの。つぐなおうとしてもとりかえしのつかないもの。だから殺してはいけない。
・人を殺すことは、その人の人生を奪うことだ。その人にしか出来ない事、その人にしか感じられない事に対し、他人が責任をとることは事実上不可能だと思う。
・人を殺すということは、その人の全てを奪うことだから。
・人には他人のこれからの人生を終わらせる権利はないから
・その人の今後の未来の可能性を消してしまうことになるから。
・人は夢をもっている。あなたの夢を他の人がうばえないように、他人の夢をあなたも取ってはいけないのよ。
・人は基本的に死にたくないと思っているから、その希望を壊してしまう殺人あh悪として捉えられているのだと思う。
・私に人の人生を奪う権利はないし、私は人に自分の人生を奪う権利はないと思っているので。
・誰にも他人の人生を奪う権利はない。
・相手の許可なく、その人のこれからの人生や周りの環境を奪うことは絶対にしてはいけない。
・自分以外の他者の連続した人生を打ちきってしまうから。
・人を殺して、その人の人生を終わらせていい権利など持っていないから。
・人の命を奪うということは、その人の全てを抹消するに等しい行為であり、最も許されざる行為であるといえる。
・人の命を消すことは、その人がこれから経験することもいっしょに消してしまうことだから。
・これからも続くはずの他人の人生を奪う権利は誰にもないから。
・生きていればけいけんするだろう様々な事や、可能性を奪ってしまうなんてあってはならない。
・殺された人は、本当はやらなければいけないことや、やりたいことが叶わなくなってしまう。
・明日を当然と思うのは万人共通のはず。そういう問いを抱く人は、もう一度自分の身から振り返ると答えが見えるのでは。肉親を亡くしたのでこう感じる。
・その人の人生があるから。将来、夢、人格を否定することになるから。
・勝手にその人の人生を終わらせたてはいけないから
・人が人として生活ができるのはすべて生きて活動できるからだ。その全ての権利を奪うことはしてはらならい。
・人の人生を奪い、台無しにするから。
・その人の人生のストーリーを妨害するのであって、その権利はないから。
・その人の未来を奪う行為だから。ただし、殺人を犯した人間は、自分の未来をもつ権利はなくなると思う。
・他人の将来や人生、幸せを、自分の個人的理由やわがままで奪う権利などないから。理性で本能をおさえることで社会は成立する。
・人の存在を消してしまう。人がこれから造り出せる未来を消すということになる。
・他人の人生を終わらせる権利はない。
・自分の大切さが分からない人は、他の人の価値も大切なことも分からない。自分も他人も大切にできる人には、そういう疑問はでてこないと思う。


 これらの回答が、今紹介した「人権」とか「命の尊さ」という回答との違うのは、「人権」とか「命」というような型どおりの表現を使わずに、その人が生きているということの価値を表現しようとしているところである。おそらく「人権」とか「命の尊さ」という答えで言われていることも、実は「一人の人の歴史は取り替えがきかない」ということに近いのだろうと思うが、それを「人権」とか「命の尊さ」というような教えられたとおりの言葉ではなく、何とか別のしかたで表現してみようとすると、ここに挙げられたような回答になるのかも知れない。

 もちろん、このような回答も、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という子どもの問いに対して、完璧に納得を与える答えとは言えないだろう。「取り替えがきかない、かけがえがない」ということと、「だから殺してはいけない」ということの間には論理的には飛躍がある。むしろ、私は「取り替えがきかない、かけがえがない」ということを認識したとたん、「人を殺すことができなくなる」というのが正確ではないかと思う。殺人というものは、すべてその人の人生の「かけがえのなさ」を一瞬忘れる時に起こることではないか?

 最後の回答は、ここに分類された回答全般に関する一個の註釈のような回答であり、とても重要なことを言っていると思う。実際に殺人が起こる場合を見てみると、最近の無動機殺人のような類は、自分自身をもはや大切には思えなくなるといういわば異常な心理状態で行われる場合があるように思う。そういう常態にある人に対して、他者の命のかげがえのなさをいくら説得しても無駄であろう。むしろ、その人が自分自身をかけがえのない存在であると心底感じられるように導くことが先である。

③家族等の悲しみ (33)

  さて、意外に多かったのが、「家族や周りの人が悲しむから」とういものである。その人自身が死ぬこと以上に、その人が死ぬことによって多くの人がどれだけ深い悲しみを味わうかという点に注目した答えである。

・自分の家族や大切な人が殺されたら悲しいのと同じように、誰かを殺せばその家族や周りの人たちが悲しい思いをするから。
・悲しむ人がいるから。
・家族や大切な人が誰かに殺されることを考えれば答えは簡単にでるはず。
・その人には未来があり家族があったりするため、その人がいなくなると悲しむ人がいるから。
・被害者の家族が悲しむから。
・残された家族、友人が悲しむから。
・殺したい人間を殺しても、残された人間とは関係ありません。その人たちを悲しませる権利はないのでは。
・悲しむ人がいるからだと思う。
・殺された人やその家族の身になって考えれば、そのような問いが生じる事態が信じられない。事故で母をなくした者として。
・悲しむ人がいるから人は殺してはいけないのだと考えています。
・あえて言えば、殺された人の家族がかなしむからだということだが、これでは納得してもらえないだろう。
・誰からも必要とされていない人はいない。たとえ悪人でも、死ねば悲しむ人がいるから、人を殺してはいけない。
・自分や自分と親しい人が死んでしまったら悲しいし、自分がそんなことをされたらイヤだから。
・誰かを殺すとその人の死によって悲しむ人間がいるから。死ぬのと殺されるのとでは、周囲の人の心に与える影響はちがう。人の心は大切。
・もし自分の関係者がころされたら私はきっと悲しいから、そういう思いを人にさせてはいけないと思う。
・自分の好きな人を殺されれば、人は悲しむだろう。
・悲しむ人が生まれるから。
・人は一人で生きるわけではなく、その人がいなくなることで悲しむ人が大勢いる。
・人間には大切に思う人がいる。その人を失った時の衝撃や絶望感や悲しみがあるからこそ、人を殺すことは絶対にいけないことだと思う。
・もし身近な人が殺されたらとても悲しい。殺す相手にもその人の死を悲しむ人々がいるだろうと思う。それを考えると、してはいけないことだと思う。
・その人が死んでしまうことによって、悲しみ苦しむ人が絶対にいるから。
・もし人を殺せば、殺された人の周りの人がもう二度とおその人と言葉を交わしたり、同じ時空を共有できなくなってしまう。・殺人は全ての状況を変えてしまう。
・相手の家族や友人を悲しませることになるから。
・その人が死ぬことで悲しむ人が絶対にいるから。
・誰かしら悲しむ人がいるから。「その人が殺されたら悲しいでしょう。だったら他の人にもそういう気持ちを味合わせたくないよね」
・自分の親しい人を殺されたりすると、とてつもない悲しみが襲ってくるだろう事を考えれば、殺してはいけないと思う。
・自分の親や大好きな友達が殺されたとしたら、その人の家族や周りの人たちが悲しむから。
・「誰かを悲しませることはしてはいけない」と言うかも。
・私の大切な人を失うことはとても怖いし嫌なので、他の人にとって大切な人でもあるだろうその人を殺したくない、というようなことを答えたい。
・残された人(関係者でなくても)悲しむ人がいるから。
・自分にとっても身近な人が殺されたらとても悲しいし、他人の場合でも自分のかぞく、友人、恋人などが殺されたら悲しいと思う。それを奪う権利はない。
・母は「その人の周りがとても悲しむからよ」と教えてくれた。僕は十分理解した。私は愛されていたからでしょう。
・十分にとって、殺したい人はいやな存在であっても、その人が死んだら悲しむ人もいる。まわりの人の気持ちにまで影響を及ぼす権利はない。

 殺された人自身ではなく、その人の家族や友人の悲しみに注目する回答がこれだけ多いのは予想していなかったが、誰も自分の死を経験することは出来ず、経験されるのは常に他人の死であるという事実を考えれば、当然な答えかも知れない。

 しかも、よく考えてみると、子どもに対する説得力という点では、この答えは現実的に有効な答えであるとも言える。多くの子どもは、いつも親や周りの近しい人々に支えられて生きている。何よりもこの支えとの関係で、自分が生きるということをとらえている。そのような子どもたちにとって、自分の家族や友人が殺されることは、全てが奪い取られる途方もなく痛ましい経験として想像されるにちがいない。この想像力に訴える回答が一定の有効性を持つのは当然である。

 この回答も、視点が家族や友人の思いに移っているとは言え、言っていることは「一人の人間のかけがえのなさ」と別のことではない。社会全体から見れば、無数の殺人事件の一つに過ぎなくても、殺された人の家族にとっては「たった一人きりの取りかえがたい」存在なのである。マスコミであまり紹介されることがないが、家族を殺された人はその後その悲しみから癒えるというようなことがあるのだろうか? 殺人によってわが子を失った親は、死ぬまでそのことを引きずったまま生きていくのではないだろうか。このような事実は、それだけで殺してはいけないことの十分な理由となっている。

 もちろん、先の回答と同じことがこれらの回答にも言える。すなわち、「家族が悲しむから」という答えは、親からの愛情を感じられないような環境で育った人には決して「説得力」のある答えではない、ということである。だれからも愛されていない、大事にされていないことを痛切に感じている人に対しては、かえって腹の立つ答えかもしれない。

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2007-05-02

なぜ人を殺してはいけないか(2)――アンケート

 かつて授業の中でこの問題を取り上げたことがあった。その年は、あの9・11の事件があった年だ。それまでの数年、少年による凶悪犯罪が相次ぎ、学校崩壊が叫ばれ、若者達の傍若無人な振る舞いが取りだたされ、世の中がどうにかなってしまうのではないかという雰囲気が蔓延した時期でもあった。9・11は、そんな暗い未来へのイメージを決定的にする出来事として起こり、それ以降、われわれは、いま挙げたような事態をもはや常態として受け入れるようになってしまった感がある。

 その授業では、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、自分ならばどう答えるかというアンケートを、学生約200人に対して行った。その結果をまとめたものが手元にあるので、それを紹介することからはじめたいと思う。

 
Q 「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、あなたならどのように答えますか?
 
 上の問いに対して、自由形式で回答してもらった。ただし、コメントペーパーは確か出席票の裏を使ったと思うので、多くの人が比較的短い文章で回答していたと思う。私はこの回答を読み、回答の内容によって大まかにいくつかのタイプに分類しながら集計した。以下にそれを紹介するが、これらは実際の回答を一定の長さに短縮したもので、それぞれの回答がもっているニュアンスが生かし切れてはいない面もある。実際に子どもに聞かれたときには、答えた内容だけでなく、どう答えるかということも重要であって、答え方の工夫にその人の個性が表れるはずである。ただ、ここでは、そうした面には注目せず、多くの回答に共通する面に眼をとめている。

 分類のしかたは以下の通り。全ての回答を、大きくA「ヒューマニスティックな回答」、B「現実主義的な回答」、C「その他」の三種類に分け、それをさらにいくつかの項目に分けている。こうした分類はあくまで恣意的なものであって、今見返すと多くのまずい面に気づかざるを得ない。だが、再度分類し直してもやはり同じような不満が残るだろう。一つの文章がもつ含みは単純に類型化することはできないからだ。あくまで数多くの回答をまとめるための便宜的な手段と考えていただきたい。

A ヒューマニスティックな回答(118)   
 ①人権・命の尊さ(41)       
 ②かけがえのなさ――人生(過去・未来)を奪うことだから(44)
 ③家族等の悲しみ (33)
B 現実主義的回答(55)
 ④自分が殺されたくないから――相互性(34)
   (a)「思いやりタイプ」、
   (b)「取引タイプ」
 ⑤社会秩序 (21) 
C その他の回答(45)
 ⑥命のつながり (10)
 ⑦殺す人自身にとってよくない (10)
 ⑧生物学的説明 (12)
  (a)動物と違う――理性をもっている
  (b)動物と同じ――本能をもっている
 ⑨答えはない あたりまえ (13)

 なお、( )内の数字はそれぞれの回答数を示している。ただし、複数の理由を挙げている回答については、それぞれを別々の項目に振り分けているため、回答者の数よりも、答数項目が多くなっている。

 エントリーを改めて、①から⑨に属する各回答について、簡単なコメントをつけながら紹介することにしよう。

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