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2007-05-04

なぜ人を殺してはいけないか(5)――C その他の回答

 「A ヒューマニスティックな回答」にも「B 現実主義的な回答」にうまく分類できない回答である。これらの中には、後で知識人たちの回答を紹介するときに出てくるような重要な視点が埋め込まれているように思われる。

⑥命のつながり (10)
  一人の命は、別の命とつながっているので、一人の命を傷つけることは、それらの命のつながり全体を傷つけることであり、結局は自分をも傷つけることにもなる。エコロジーやアニミズムとどこかで繋がっていそうな答えである。

・命というのはその人個人に規定されるものではなく、その人とつながりをもっている人すべてに影響するものでもあるから。
・人が一人死ぬということは個人だけの問題ではないので。
・人間は一人ではいきられないものであり、どんなに他人でもどこかでつながっているのだと思う。そういう人をころすことはやはり悪である
・自然の摂理にかなって生まれた命を、自然よりも小さな存在である人間の手でどうこうするのは間違っているから。
・私たちは一人では生きていけない。一人を殺すことの影響はその人だけのものではない
・人間が同じ人間である生命を奪うことは許されない。
・命は自分だけのものではないからです。
・人は他者との関わりがあって初めてその存在を認識され「存在」し得る。それを自ら断ち切る行為は、すなわち自分の「存在」をも否定する行為である。
・生かされている
・人は自分の力で生きているのではなくて、何か別の大きな力に生かされているからだ、と思っています。
・人間は本来、不自由な存在。誕生も死も自分では選べない。生は与えられた物であり、そこには人間の力を肥えた他者の存在がかいざいしている。「神」。

 先ほど、「命の尊さ」という回答のところで、「命」というなら動物や植物も「命」をもっているではないかということを言ったが、この回答はこの難点を補う可能性を持っているかも知れない。

 たとえば、仏教とかジャイナ教の教えには「不殺生」という戒律があるが、これは「人を殺してはいけない」ということではない。人だけではなく、「生きとし生けるものすべての命を奪ってはいけない」ということである。だから、どんな生き物も本当は殺してはいけないわけである。だから修行者は肉食を断って植物だけをを食べる。しかし、植物にだって「命」はある。それを食べることは植物の命を奪うことになる。すべての命を守ろうとすれば、餓死するしかないのである。しかし、餓死すれば、少なくとも自分の命を奪うことになる。どうしようもないジレンマの中に置かれるわけである。

 ここから分かることは、どんな命も、他の命の犠牲によってしか存在しえないということだ。そして、自分の命を尊ぶためには、他の命を奪わなければならない。これは命をもっているかぎり必然的に起こることであろう。そして、あらゆる命が、そういう互いの犠牲によって成り立っている。そういう命のつながりの中に、人間ははじめて存在しうるのだという観点。これは、一つの思想と言えるだけの深さをもっていると思う。仏教徒だって実際には必要最低限の生き物を食べざるを得ない。しかし、それは命のつらなに自分も加わることであって、たとえば豚や牛を大量に飼育して、それを殺して食べていくというような生活は、何かおかしいということになるだろう。

 もっとも、「命のつながり」を強調する回答は、何も食物連鎖のことだけを言っているわけではないだろう。人間が一人では生きていけない、というより生きるということは誰かとの関係に置かれることだ、「人を殺す」ということはそういう人間のありかたを打ち壊してしまうことだ。それは同時に、自分という存在のあり方をも否定することだ。倫理の根源を人と人との関わりということに見る場合、この視点は重要である。

⑦殺す人自身にとってよくない (10)
 さて、「なぜ人を殺してはいけないか?」というような問いを出すと、普通は殺される側から考えるものだが、この回答はむしろ殺す人のことを思い描いて、殺す人の側から答えようとしている。

・人としての健全な生活を送れなくなるから。
・人を殺すと言うことは、人道に反することである。
・人は簡単に殺せますが、自分の心が貧しくなる。自分の心を大切にすべき。 
・一生罪悪感に悩まされ、恨まれるから。そして自分の周りの人に迷惑がかかるから。
・自分がなぜ殺すかを考えたとき、多くは自分勝手な理由によるので、自分自身にとってすべきではない行為だと思う。
・殺したらそのときはすっきりするのかもしれないけど、それは一時的なものであとは何も残らないと思う。残るとしても後悔とか……。
・殺すとき気分が悪い。殺した後もしばらくしたら決していい気分はしないだろうから。
・人を殺すことは、最終的に自分をだめにしてしまう。
・人を殺したなら、それは相手だけでなく、自分のその先の人生を殺したも同じである。
・殺した人の人生も終わってしまう。

 つまり、人を殺すことで、その人には何もいいことはない。かえって、心はすさみ、罪意識に苦しめられながら、一生を送らなければならない。殺す人にとってもよくないことだ、という意見である。これは、これから殺人をしようとしている人を止める場合には、効果的な答えの一つだろう。また、なぜ人を殺すとその人の人生がおわってしまうのかを考えれば、先の回答と同様、倫理の本質に触れることになるだろう。

⑧生物学的説明 (12)
  これは、「人を殺してはいけない」を、人間の生物としての性質に見いだそうとするものである。このタイプの回答は、主に二つの種類に分けることができよう。

(a)動物と違う――理性をもっている
 人間は、動物と違うがゆえに、人を殺したりはしない、というもの。

・人間には理性がある。殺人を侵してよいということになると、人間はただの獣と化してしまう。
・人を殺していいとすれば、人間は他の同鬱と同じになる。他の動物と同じなら文明を持つ資格はなくなる。
・よく考えると、人間だけのルールであることに気づく。
・同種内での殺し合いが存在するのは人間だけである。われわれが社会の中で自由にやっていくには、暗黙のルールが必要である。「なぜ」は愚問だ。

(b)動物と同じ――本能をもっている
 人間は、動物と同じように、種の保存の法則にしたがって、同族を殺さないようにインプットされている。そういう本能を持っている、という答えである。

・明確には言いにくいが、生物界において例外を除き同種食いはタブーである。それは遺伝的にプログラムされているのではないか。
種の保存のため。
・動物が同じ種族内で、故意に殺し合いをすることがないのと同じように、人間に組み込まれたものではないだろうか。
・動物が同一種で殺し合うことはほとんどない。人間は生物である以上、「共存」の本能をもっている。ただ、現在、生があたりまえすぎておかしくなっている。
・人間(生物)は、子孫を残すために生存しているのに、仲間である人間を殺すのはいけないこととインプットされているのか。
・種の繁栄の点から考えると、同種が殺し合うのは禁忌であるとしか言いようがない。


 わたし自身は、こういう生物学的な回答には大変関心があるが、どちらのタイプとも少しづつ違った考えを持っている。わたしの考えでは、(b)の回答のように、人間に同族を殺さないような「本能」は存在しないのではないかと思う。あらゆる生物の中で、同族を大量に殺すのは人間だけである。つまり、人間は種の保存の法則からずれてしまっている。「本能の壊れた生物」なのである。

 しかし、人間は本能のかわりに「知性」を持っている。しかしこの知性は、(a)の回答が言うように、人間に殺人を禁ずるとは限らない。むしろ、知性は人を殺すこと抑止するよりは、抑止する力(たとえば本能や社会的タブー)に対して疑義を投げかけ、それを破ろうとする傾向をもつのではないか。たとえば、「人権」というものが存在するのだという説明に対して、そんなもの実はないんじゃないかと疑いをかけるのは、知性ではないだろうか。しかし、知性がそのままつっぱしれば、相互性の原理によって知性自体も滅んでしまう。だから、知性は自分自身が暴走して、そういう方向に走るのを止めるための工夫を必要とする。そこに宗教社会学のような学問のテーマが生まれてくるように思う。

 いずれにしろ、「殺してはいけない」ということに関して、人間の「本能」、「知性」、ないしは「理性」の関係は単純なものではない。これに関して人間は動物に対して優れているのか、その逆かという問題も同じであろう。

⑨答えはない あたりまえ (13)
 人を殺してはいけないのは、当たり前で、それに答えなどないという意見。ようするに自明なのだという意見である。

・人を殺してはいけないのは当然です。私は殺されたくないし、殺したくないし、殺せません。
・とくにこれといった理由はない。殺人者がいなくならない以上、自分が殺されないように気をつけるしかない。
・アタリマエだと思っているが、そういう自明性がくずれているのだなと思った。
・あたりまえのことで全く疑問にも思ったことがない。話し合えば分かり合えることが多い。
・理由などない。むしろ、「理由」を求めなくてはならなくなってしまったのは何故かが問題。
・誰もが納得できる答えは「ない」と思う。あるとしたら、言葉という記号では表現できない、感じる部分なのかもしれない。 
・私の個人的意見として、それは答えはないと思う。
・そんな事人に聞くことではない。そんなの当たり前だとしか言えない。なぜ?と思ってしまう社会はやはり恐ろしい。
・人を殺すのはいけないことだから。私自身がそう思っているからです。そのことに理由なんてないと思います。
・その理由ははっきりと存在しない。しかし、いけないという気持ちを持てる瞬間がやってくる。それには自分がこの世に生きている実感が必要だ。
・理屈じゃ語りきれないこと世の中にはあって、そうしたことがあると信じることが世の中の均衡を保っていると思います。
・絶対にいけないことを教えて、あとは自分で解釈するのをまつしかない。解ってはいるんだろうけど、言葉では説明できないものではないか
・いけないものはいけない。それは単なる命の尊さだけでは語れない。それは生まれながらにしてももっている判断なのかもしれない。

 ある意味この答えは正解なのかも知れない。ただ、どういう意味で答えが出せないのか?なぜ答えがないのか?という点が重要であろう。

 さて、学生たちが書いた回答は以上のようなものである。他に、「わからない」とか「教えて欲しい」といったもの、あるいは何を言っているのか不明なもの、どこにも分類しようのないものもいくつかあったが、それ以外はすべて紹介した。これを見て思うことは、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して答えうる回答には、それほど多くの種類があるわけではないということである。後で有識者たちの回答も紹介しようと思うが、それらの回答は辞学的に優れていたり論理的な説得能力に優れていたりはするが、答えの内容としてはだいたい以上の分類のどこかに入るのではないだろうか。

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