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2007-05-04

なぜ人を殺してはいけないか(6)――この問いの場

 以上の回答のほとんどは、どちらかと言えば不十分で舌足らずな感じのする回答であり、残念ながら決定的に私の心を動かすようなものはなかった。また、その後も授業の中で、この話題を何度か取り上げたことがあって、その度にいろいろな形で聴講者の意見を回答を聞いたが。やはり同じであった。回答者はほとんどが20歳前後の学生であり、それくらいの年齢であればこうした結果は仕方がないのだろうと思っていた。

 しかし、今回この問題をあるゼミ形式の授業で学生たちに問いかけたところ、ちょっと異なった事態に行き当たった。最初にA5くらいの用紙に答を書いてもらうと、学生たちはやはりだいたい上に上げたもののいずれかと似た答を書いた。そこに何か新しい要素はとくになかった。ところが、ゼミの特徴を生かしてそれぞれの回答について一人一人口頭で解説をしてもううちに、彼らがこの問いに対していだいている理屈では説明しきれない複雑な思いが噴出してきたのである。

 おそらく彼らは、一見単純そうに見えるこの問いがもつ複雑さを、これまで生きてきた経験を通して直感的に洞察している。そして、この問いに答えを与えようとする中で、それらを意識しはじめていて、それがこの問いにむかうときの戸惑いのようなものとして現れはじめている。しかし、それはコメントの書面にはうまく反映されない。ことばの単純さに対して、それが指し示そうとする内容があまりにも大きく複雑で、文字として整理することができないのだ。その文字にならない思いが、しかし口頭で自由に語る時、一気にあふれ出てきたように感じた。

 ある学生は、ここに書いたコメントは表向きのものであって、実際に思うところは別にあると言った。それは簡単に人に話せるようなものではない、と。そうなのだ。この問いはとても重いテーマ様々な問いに関連しており、真剣にそれに取り組もうとすれば、自分の人生や他者や世界について感じることの全てを根本的に考え直さなければならなくなってくる。できるだけ表だっては口にしたくないような事柄を、自分や他人の意識のうちにさらさなければならなくなってくる。それは、その人の生き方の根本的にかかわる問いであり、人がそれに対してどういう答えをするかでその人がどんな人間であるのかが判断されてしまいかねないような問いでもある。そんな問いに対して、アンケートのような簡単な形式で答えを与えることができると考える方が実は安易なのかも知れない。

 その学生は、しかし、このような場(ゼミ)では、そういう表向きのコメントとは異なったことを話すことができると言った。なぜなら、心を許せるメンバーがいて、十分に説明することが出来る時間があるからだ。誤解のないように互いの意を確認しあい、納得できなければとことん議論することができる。そのような場でなら、もっと違った答えが出せるかもしれない。これは、考えてみれば当然のことである。しかし、私は学生からそう言われてはじめて、「なぜ人を殺してはいけないか」というような問いを本音で話し合い、実のある結果を得るためには、こうした対話の場が必要なのだということに気づいたのである。

 わたしはもともとアンケートなどというものを信じない人間である。安易なアンケート調査を憎んでさえいる。多くの場合、そこには誘導尋問の要素があって、答えの選択肢があらかじめ決められていて、しかもそれらがしばしば数値化されるからだ。それは複雑な問題を単純化してしまう。しかし、文書で考えを述べるという形でのコメントなら、かなり有効なのではないかと考えていたと思う。しかし、考えてみれば、それもまたアンケートであるには違いないのであって、人の本心をそれによって知ることは難しいのかも知れない。

 たくさんの学生のコメントはもちろん、知識人たちに対して雑誌が行ったアンケートにしても、一定の決められた問いに対して、一定の字数で何かを書かなければならないという状況の中で、人が何か真実を語ることができる可能性は低い。それに本当に答えるためには、文学作品一つ、あるいは人生一つを必要とする、そういう場合だってありうるのではないだろうか。

 以下では、それでもなお、あえて「なぜ人を殺してはいけないのか」という単純化された問いにこだわっていこうと思う。ただし、私は今この時点でも、それに対する明確な(単純化された)答えを持っているわけではないし、様々な検討の後にそのような答えを導き出すことが出来ると考えているわけでもない。私はいろんな人の意見を読み、いろんな仕方での回答に耳を傾け、それらを一つ一つ検討しながら、そのことを通して何かが見えてくることを期待しているにすぎない。その際に言えることは、定式化された答えを早急に求めるのではなく、問いをできるだけ深化させることが必要だということである。ゼミやこのブログなどがそのような場所になればよいと思う。

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コメント

> ある学生は、ここに書いたコメントは表向きのものであって、実際に思うところは別にあると言った。それは簡単に人に話せるようなものではない、と。

> できるだけ表だっては口にしたくないような事柄を、自分や他人の意識のうちにさらさなければならなくなってくる。

そうした学生の心情を察するに、突き詰めれば「答えが分からない」という状況、いや、それどころか「答えが分からないのみならず、そもそも殺してはいけないと前もって決めてよいかすら分からない」――究極的には、殺してもいい場面もある(例:死刑)――という答えを認める可能性の存在に対する「不安」があるのかもしれませんね。

「何故殺してはいけないか」という問いの裏側から、常に問う者の思惟を脅かす「殺してもいいのかもしれない」という暗い疑念。それは、最初から除外してしまうべきものではなく、むしろ、倫理的な問いを進める推進力になるのではないでしょうか。

投稿: pensie_log | 2007-05-08 02:42

 おそらくそういうことなのだと思います。実際、「戦争や死刑での殺人は社会によって許容されているではないか」という疑念が、この問いに対して当然起こってくるはずですが、その疑念については封印して、とりあえず「殺してはならない」理由を書くことになれば、その回答は必然的に精彩を欠いた立て前論にならざるを得ないのでしょう。

 ちなみに、その学生は、1999年の山口母子殺人事件に言及し、記者会見で司法が死刑にしないなら自分の手で殺すと発言した被害者の父親を非難することは出来ないと言いました。問題は、Pensie_logさんが話題にされている「復讐」というテーマにおよんでいるわけです。私自身も、当時あの事件に接した時、この父親の気持ちに共感を覚えたことを記憶しています。もし、自分が同じ目にあった場合、この父親と同じことを感じるに違いないと思います。

 そういう場合なら殺してもよいという主張するつもりは私にはないし、その学生にもないでしょう。しかし、「なぜ殺してはいけないか」について考える際には、そのような復讐の感情が自分の中にたしかにあることに目をつむって論じるわけにはいかないと思うのです。そうなると、アンケートのような形式で容易に答えられるような問題では到底なくなってくるでしょう。倫理学が単なる道徳の再確認ではなく、倫理の根源を問う学問であるなら、おっしゃる通り、そのような暗い感情の存在を正面から取り上げることが必要なのでしょう。

 Pensie_logさんは、確かどこかで、「赦し」が本当にそれとして問題になるのは、「復讐」の感情がある場合だけであるといった意味のことを述べておられたように思います。そのような意味での「復讐」と「赦し」が語られるようなレベルで、「なぜ人を殺してはいけないか」という問題も議論すべきなのかも知れません。

投稿: 桶川利夫 | 2007-05-09 00:07

ところで、この講義は全体として「倫理学」という科目なのですか?あるいは別の名前なのですか?いや、どの辺まで踏み込んだ議論が展開されてゆくのかな~って、気になったものですから。たとえば尊厳死とか安楽死とか、死刑廃止論とか、憲法9条論とか、あるいは…まあ、いろいろと展開が可能かな、と。

仮にこのようなテーマが展開されてゆく場合、扱う範囲はいわば状況倫理ということになりますよね。(その場合でももちろん、状況倫理と絶対倫理規定を全く切り離して扱うことはできないとは思いますが。まあ、このあたりが、すでに私が神学的視点に立っているということなのでしょう)

しかし、状況倫理の範囲のみでやっていくということになりますと、

>実際、「戦争や死刑での殺人は社会によって許容されているではないか」という疑念が、この問いに対して当然起こってくるはずですが、その疑念については封印して

というわけにはいかなくなってくるのではないかと考えてしまいますがいかがでしょう。もちろん、問いの出発点として「疑念を封印」することもアリだとは思います。

しかし、あくまでも状況倫理の論理だけでこの問題を扱おうとすれば、私などは「回答不能(場合によっては人を殺すこともあり得るから)」という結論に、あっさりと到達してしまうような気がします。せっかちなものですから、私。

投稿: トロウ | 2007-05-10 16:27

 科目名は「倫理学」です。が、ゼミ形式の授業なので、どこまで踏み込んでいけるかは、学生次第です。はっきり言って、どういう授業になるのかも、全部終わってみないと分かりません。「生命倫理」は別に立派な授業があるので、その方面のテーマは特には取り上げませんが、話の中で当然出てくるでしょうし、その他どんな実際的な問題が出てきても不思議ではありません。

 「なぜ殺してはいけないか」という問いからはじめたのは、まったく何もない状態から、いきなりこの問いをめぐって議論していくことで、当然様々な混乱を体験しながらも、倫理の問題を考えるという行為がどんなことかを体験させたかったということ、それから、倫理学でふつう問題になるような様々なテーマを、すでに整理された形として教えるのではなく、学生自身の問題意識として自然に浮き上がってくるように学ばせたかったかったからです。

 実際にやっていくなかで、すでに「絶対倫理と状況倫理」とか、「心情倫理と責任倫理」といった問題もすでに上がってきていますし、そもそも倫理の問題を議論することはどういうことかといった「メタ倫理」的な問題も出てきています。「キリスト教倫理学」ではないので、神学的な考えの筋道では話は進まないだろうと思いますが。

投稿: 桶川利夫 | 2007-05-11 00:48

なぜ人を殺してはいけないか、について。
突然このような質問を受ければ、誰しもが道徳的観点から、いけない理由を捜し求めるでしょう。それが普通です。それは理性で考えるということです。理性は生まれつきの能力、育った環境、知識の量や価値観の違い、それに性格(好き嫌いの感情など)に大きく影響されます。したがって一人ひとり答えが違ってくるのです。いろいろな意見が出て収拾がつかなくなります。一つの答えを求めるならば感情の方面より見るしかないのです。人の心には神、仏とつながっている好ましいほうの心、良心があります。また仏教では煩悩という、悪魔とつながっている好ましくない心があります。人の好ましいほうの心、良心(やさしさとか)が人を苦しめるようなことをするでしょうか。するのは好ましくないほうの心ですね。その神、仏につながっている良心がそんな残酷なことはしてはいけないと思うのです。それは神、仏の心が、人の心に反映しているからです。神、仏は善。悪魔は悪、との定義は誰もが認めるところでしょう。したがって神、仏の意思に反するので悪いこと、でいいのじゃないでしょうか。

投稿: mi-ta(ミータ) | 2007-07-21 21:08

mi-taさん、ありがとうございます。

学生の中には、キリスト教徒や仏教徒もいて、それぞれ「命は神からの贈り物である」、「すべての命はつながっている」という、それぞれの信仰に基づいた回答をしてくれました。私はこうした回答があることを大変うれしく思い、共感もします。私自身もそうした信仰に基づいた回答をそれなりに持っています。

しかし、「神」や「悪魔」を最初から回答に持ち込むことは、それらをはなから信じていない人たちには受け入れられないでしょう。ですから、万人にある程度共通と考えられる理性的な認識の範囲で話を進めていったわけでです。

そういう理性的な回答の可能性をぎりぎりまで追求した後でこそ、宗教的な回答の意味と重要さがより深く理解できるのでないかと思っています。

投稿: 桶川利夫 | 2007-07-22 23:42

宗教=信仰としてしまうと‘いわしの頭も信心’も入ってしまいかねないので、‘宗教’は、精神世界を究明(釈尊が)したものとして考えています。とはいっても宗教=信仰ではないとは言い切れません(常識として)
でも釈尊の世界への信仰は‘信心’とは違うと考えています。
なぜ人は『人を殺すことは良くない』と思うのでしょうか(例外は省きます)
ほとんど‘悪いこと’との思いのもとにさまざまな考えを述べています。
その発生もとに着目してほしいのです。そしてその源にこそ好ましい宗教の本質があるのだと訴えるべきなのですl。

投稿: mi-ta(ミータ) | 2007-08-05 21:25

善悪の二元論や、宗教感情論で人間の生活がすっきりと割り切れれば、mi-ta(ミータ)さんのおっしゃるように、良心にしたがえばいいと言い切れるでしょう。しかし、人間の「精神世界」が、本当にそんな二元論構造で成立しているのかどうか、良い感情とか悪い感情というのは、何なのか、そんなにすっぱり割り切れるのか、問い直してみるのが、学の営みではないでしょうか。

少なくとも、僕には、それは情緒のレベルで明証的なことがらとは思えません。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発した若者たちが、自分の精神の深みに気づき、そこまで下りていこうとしたとき、まっすぐに良心に出会えるかどうか、とても心もとないと思います。そのとき、若者たちは、ものすごく危ないけれど、人生の中でとても重要なところを通っている最中なのだと思います。きっと、僕らは、自分の精神世界の深みまで行く前に、社会的な制約だの習慣だのを脱したり、良心の声によく似た別の声に惑わされたり、短絡的になったり、絶望したり、怒りを覚えたり、自分の弱さを痛感したりすることでしょう。

要するに、僕らが体験するのは、僕らの社会生活も、精神生活も、なかなか善悪の二元論では割り切れないということです。

そんな試行錯誤のなかを生きているとき、mi-ta(ミータ)さんの答えは、僕には、とても危険なものに思えます。

自分のなかの悪には蓋をして、良心にだけしたがえばいい、というのは、何が悪で何が善かを自分自身のことがらとして問いかけ、迷いながら、弱さと惑いの直中にいて「なぜか」と問う人たちにとっては、あまりに安易な答えではないでしょうか。

殺してしまうかもしれない自分、徹底的に悪であるかもしれない自分、情けなく弱い自分にぶつかっているときに、それは悪いことですね、良心にしたがいましょう、という言葉に何ほどの力があるというのでしょうか。

僕は、良心の発生もとに注目して清く正しく生きるなどという境地主義的で非現実的な生き方より、むしろ、限りなく悪であるかもしれない自己に悩み、惑い、その弱さに苦しみながら、「それでも人を殺しちゃならない」というところに留まり続けることができるかどうかが大事だと思います。

そのとき、惑い苦しむ心弱い僕らにとって、理性的で明証的なレベルで、人を殺してはいけないという確固とした理由が、僕らの迷いや弱さといった情緒的な次元を超えた冷徹な論理の次元で示されているということはとても大事です。

そうした論理を探求するのが、倫理学や哲学の仕事です。

ぞっとするような問いを問いかけている人間に、その問いがもっているかもしれない悲惨さや切実さや危機や不気味さを共有しつつ、情緒のレベルに届くような論理を探求することこそ、学の営みです。問いを共有することも、論理を十分に探求することもしないで、澄み切った境地から答えているつもりでいるというのは、とても危険なことです。良心(に似た声)が、ホームレスを殺すのはゴミ掃除するようなものですね、すっきりしてとてもいいですよ、とでも言ったら、どうするんですか。

投稿: 白頭庵 | 2007-08-07 14:00

白頭庵さんのご意見の冒頭、よい感情、悪い感情、は割り切れるものではない、とのコメントは私もそう思います。善悪を一本の線で分けることなど凡人には不可能です。本来引けないのかもしれません。しかし‘情緒のレベル’を理性より軽く見てはいけません。理性の世界こそ‘危険’であるかもしれないと‘哲学’してみてください。例として適当かどうかわかりませんが、向こう三軒両隣的世界では争いは考えられませんが、イデオロギーの世界では争いが付き物です。
中間の若者の精神活動については、いいかげん人間だったのでコメントできませんし、資格もありません。
後半で「人を殺しちゃならない」との思いが大事だといっていますが、なぜそう『思って』しまうんでしょうか。それこそ‘良心’のなせる業ではないでしょうか。お釈迦様の手のひらの上の孫悟空です。一度、悪魔の手のひらの上で論理を展開してみるのも面白いかもしれません。
ホームレスの話はごみとして捨てましょう。同感でしょう?
心の世界(宗教的な意味も含めて)に関心のある知識人に訴えたいのです。スポーツの世界では基本を大事にしていることは皆さん承知でしょう。芸能の世界でもそうです。オペラ歌手も毎朝の発声練習を欠かさないと聞きます。しかし心の世界においては‘基本の重要性’が認識されていますでしょうか。

投稿: mi-ta(ミータ) | 2007-08-08 01:09

>ホームレスの話はごみとして捨てましょう。同感でしょう?
に、背筋がゾッと寒くなりました。
確かに10代の少年たちが、公園でただ寝ていただけの人をホームレスと勘違いして「人間の屑だ」といって火をつけたのは、おぞましい出来事です。しかし、そのおぞましさは、どこから来るのか、誰の責任なのか、この事件の背景にあるものは一体何なのか。この少年たちにとっては、ここで展開されている「なぜ人を殺してはいけないか」という問いが、この先まさに人生の中心問題とならざるを得ない状況に置かれていくのでしょう。この少年たちや事件そのものが「ごみ」に等しいものだから、そんな話は考えるに値しない、とは、私にはとても言い切ることはできません。

このような現実に目をつむり、ひたすらに「良心」(であると信じるもの)にすがるという姿勢、これと情緒とは、まったく別のものです。失礼ながら、この姿勢は盲信です。情緒と理性とは、連動関係にあるものであって、理性を封じれば、同時に情緒の働きも停止するのです。この点、釈尊も同様の考えだったと思います。

mi-ta(ミータ)さんが良心とか基本とかおっしゃるものは、それらのように思えて実はまったく別の、ひょっとしたら悪魔的な力の作用なのかもしれませんよ。この点、白頭庵さんのおっしゃるとおりだと思います。現実を、ありのままに眺める目を持たないことを是とする精神活動が、宗教だの信仰だのとよばれてしまうことに、一宗教人として、改めて疲れのようなものを感じてしまいます。

投稿: トロウ | 2007-08-08 12:21

桶川様、白頭庵様、トロウ様、そしてここの訪問者の皆様、「ホームレスの話はごみとして捨てましょう」のコメントは撤回します。安易過ぎました。反省しています。私の心持をよく見つめた上で再度投稿したいと思います。

投稿: mi-ta(ミータ) | 2007-08-08 21:54

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