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2007-06-27

なぜ人を殺してはいけないか(10)――大澤真幸

 「ヒューマニスティックな回答」の「かけがえのなさ」に分類されるものを紹介しよう。社会学者の大澤真幸氏の回答だ。最初に読んだとき、もっとも自分の考えに近いと感じたのがこの回答だった。

 人を殺してはならないということは、道徳的な命令(当為)である前に事実の問題です。人を殺してはならないのではなくて、人は人を殺すことができないのです。できないからしてはならないのであって、逆ではありません。

 他人が生きているということは、私がこの私であるということと同じことです。他人とは次のようなことです。それは、ある意味で私とまったく同じです。つまり、それには、私が生きていることの証となるものと同じものが所属している。それは、私と同じように何かを感じ、欲している。それは魂をもつのです。が、にもかかわらず、と言うより正確には、まさにそれゆえに、私には、最終的には、それが狂おしいほどにわからない。それが何を感じ、欲しているかを知り尽くすことはできない。それは不可知であり、謎です。このように、同じであることが根拠になって不可知であるもの、それが他人です。こういう他人に直面していること、このことが私がこの私として生きているということの反面なのです。

 (……中略……)

 他人を否定すること、人を殺すことは、あなたも名前で呼びかけられ、名前で覚えられる者として存在しているということを否定することになる。私がこの私として生きているということ、私が名前によって指示される者としてのみ生きているということは、同様に他人が名前によってしか指示でいない者として存在しているということと表裏一体のことだからです。繰り返せば、他人を殺すことは、この私がこの世界に存在しているということを否定することになる。私がこの私として生きているということ、私が名前によって指示される者としてのみ生きているということは、同様に他人が名前によってしか指示できない者として存在しているということと表裏一体のことだからです。繰り返せば、他人を殺すことは、この私がこの世界に存在しているという実感の中で生きることを否定することです。それは、誰かとおしゃべりして笑うとか、口げんかして泣くとか、そういう普通の時間を過ごせなくなるということです。

 だから人は人を殺すことはできないのです。でも殺人も死刑も戦争もあるじゃないか、と反論されるかもしれません。しかしそういう場合ですら、人は人を殺しきれてはいない。たとえば銃殺系では受刑者に目隠しをする。あれは殺される側ではなく殺す側の恐怖を和らげるためにやるのです。他人が他人として迫ってくるのは、他人の顔や目に直面したときです。目隠しは、だから他人が他人であることを隠蔽するわけです。戦争も同じです。戦争の大量殺戮は、それぞれの人が名前で呼ぶほかはない単一者であるという事実を、意識から隠す効果をもちます。だから戦争では人を殺すことができるわけです。しかし、もう一度言えば、人をまさに他人としての資格において殺すことはできない。私が生きている以上は。

(大澤真幸、 社会学  『文芸』(河出書房新社)1998年夏号、61頁) 

 この回答は、様々な視点を含む総合的な回答であるが、なんと言っても目をひくのが、「人を殺してはならないのではなくて、人は人を殺すことはできない」という視点である。その主張の背後にはエマニュエル・レヴィナスの次のような思想があると想像される。

 他者が私に抗してつきつけるもの、それは、より大きな力、すなわち算定可能であるがゆえに全体の一部分をなすかにみえるエネルギーではなく、そこの全体に対する他者の超越の無限にほかならない。殺人よりも強いこの無限は他者の顔を通じてすでにわれわれに抵抗しているのだが、この無限が他者の顔であり根源的表出であり、「汝、殺人を犯すなかれ」という最初の言葉なのである。無限は殺人に対して無限に抵抗することで権能を麻痺させる。そしてこの抵抗は、圧殺しえないしぶとい抵抗として、他者の顔、他者の眼のまったき裸出性、<超越者>の絶対的開けの裸出性のうちで輝く。殺人に対する抵抗はきわめて大きな抵抗との関係ではなく絶対に<他なる>何ものかとの関係であり、この関係は抵抗しないものの抵抗、つまりは倫理的抵抗である。殺人への無限の誘惑を、前面破壊への誘惑としてだけでなく、殺人への誘惑と殺人の試みとの純粋に倫理的な不可能性として測ることもできる。このような可能性を生ぜしめるもの、それが顔の公現である。

(レヴィナス『全体性と無限』合田正人訳、国文社、301頁) 

 大沢氏とレヴィナスの文章のキーワードの一つは「顔」である。「殺人への誘惑と殺人の試みとの純粋に倫理的な不可能性」とレヴィナスは言っているが、これは要するに、「他人の顔を見てしまったら、その人を殺せなくなる」ということである。もちろん「顔」といってもそれは文字通りの意味での単なる顔のことではない。それは顔が象徴するような何かであろう。それが何かを説明することは難しいが、私は次のような自分の経験でそれを理解している。

 私が小学生の頃、クラスにいじめられっ子がいた。どこからか転校してきた子で、兄妹でいじめられていた。そして、私もいじめに荷担していた。身だしなみや生活態度にだらしがないところがあり、性格的にも問題があるのでいじめられてもしょうがないんじゃないかと私は思っていた。しかし、あるとき私は、彼が自分の弁当箱を広げて食べているのを見た。それは、むかしのサラリーマンが誰でも持っていたような、何のへんてつもないアルミの弁当箱である。それが、やはり当時よく目にした無骨な白いハンカチにつつんである。中身はご飯の真ん中に梅干しが一つ入っている日の丸弁当だった。私は、彼がそれを広げているのを見て、ものすごく変な感じに襲われた。それを言葉であらわすことは難しいが、あえて言えば、この子には母親がいて、その母親がこの子の弁当箱にご飯と梅干しをつめたのだ、という事実に突然気づいたというような、そういう言わく言い難い感じだった。それとともに、彼の後ろ髪を見た。それは、はえぎわの髪の毛が先に向かって集まってとがったようになっていた。今でも彼の弁当箱とその後ろ髪の形を忘れることが出来ない。

 そして、それを見てからというもの、私は彼に対するいじめに加わることが出来なくなった。私がその時見たものこそ、レヴィナスの言う「顔」ではないかと思うのである。もちろん、われわれはいつも他人の顔を見ている、弁当箱も後ろの髪のはえぎわも目に入ってはいる。しかし、レヴィナスの言う意味での「顔」は隠されているのだ。だから、人をいじめたり、傷つけたり、殺したりすることが出来る。しかし、もしほんとうに「顔」が現れてきたら、人はその人をいじめたり、傷つけたり、殺したりできなくなるのではないだろうか?

 大澤氏の文章の中のもう一つのキーワードとして、「名前」がある。これは「顔」ということと深いつながりがある。「名前」と言っても、この場合、「黒板」とか「人間」といった普通名詞のことはでなく、「木村」とか「酒井」といったその人固有につけられた固有名詞のことである。普通名詞が反復可能な一般概念を意味するとしたら、固有名詞は歴史的な一回性を指示するものである。

 「普通名詞」は氏の言葉で言えば、「概念」である。それは定義を持っている。たとえば、「人間」という概念は、「二足歩行し、大脳の発達した哺乳動物」というように定義されるかも知れない。しかし「木村」という固有名は、そういう定義ができない。仮りに「木村」を「いつも汚い服を着ていて、性格が暗く、のろまな男の子」と定義するとしても、木村君はこの定義によっては「汲み尽くせない余り」を持っている。彼は成長すればこれらの性質を全て持たなくなって、「いつもきちんとスーツを着た、明るい、きびんな男の人」になるかも知れないが、それでも彼は「木村」である。では「木村」という固有名詞は何を示しているのか。それは彼が生きてきた、あるいはこれから生きていくであろう1回きりの歴史、取り替えのきかない彼の存在そのものを示しているのある。それは言いかえれば「かけがえのなさ」というものをトータルに指し示していると言えるだろう。

 「北の国から」というドラマのどこかで、村に住む偏屈者の老人が馬を売る話が出てくる。その馬は10数年間おじいさんと苦楽をともにしてきた馬である。そして、主人公の純君を雪の中から助け出してくれたこともあった馬だ。しかし、おじいさんはお金がなく、生活が苦しくなってきて、ついに馬を売るしか手だてはなくなってしまう。それで、馬を売るのだが、そのすぐ後に、泥酔し誤って川に落ちて死んでしまう。

 その老人が生きていた時の回想シーンとして、彼が「馬に名前とつけてはいかん」と語る場面があった。自分の飼っている馬には名前をつけてはいけない。なぜなら、名前をつけると情がうつるからだ。情がうつると決して馬を売れなくなってしまうというのである。ここで名前というのは、「固有名詞」のことである。固有名詞は、宇宙で唯一、そのものだけにつけられた名前のことである。固有名詞で呼ぶということは、それが他のものによっては取り替え不可能であること、つまりかけがえのない存在であることを意味している。「畑で鍬や隙を弾くときに使う力の強い動物」と定義される概念にあてはまる馬であれば、他の馬で替えることが出来る。しかし、「黒兵衛」と固有名詞で呼ばれる馬のかわりになる馬は黒兵衛以外にはいない。自分の飼っている馬を固有名詞で呼ぶということは、その馬をかけがえのないとりかえ不可能なものとして扱うということなのだ。人間でも同じ事である。ある人を「固有名」で呼ぶことは、その人のうちにかけがえなさを見出すことだ。すると、他の人では彼のかわりにはならない。

 もちろん、大澤氏やレヴィナスはごくあたりまえのことを言っているだけである。それは要するに、「人権」とか「命の尊さ」とか「かけがえのなさ」といった使い古されて魅力を失った言葉が本来持っているはずの意味について、「顔」とか「固有名」という言葉を使って説明しているにすぎない。だが、この回答の決定的に重要な点は、「殺してはいけない」のではなく「殺せない」と言っている点である。われわれが人を殺せるように思うのは、その人の「顔」を見ないからに過ぎないのであって、もし本当に「顔」を見てしまったら人を殺すことは不可能だというのである。わたしはこの答えに深くうなずかざるをえないし、自分が回答者の立場におかれたら、同じような答えをするだろうとその当時思ったものである。

 だが、この答えに対する学生たちの反応はあまりかんばしくなかった。その理由は、「殺せないと言うけど、実際には殺しているではないか」というものだった。もちろん大澤氏は、戦争や死刑で人を殺すことが出来るのは、「顔」が見えていないからであると正当にも答えている。しかし、学生たちの言わんとするのは、無差別殺人のような特殊な例はともかく、怨恨による殺人のような場合には、殺人者はまさに顔と固有名詞をもったその人をこそ殺そうとすのではないか、ということである。それを「殺せない」などと言うのは、結局はきれいごとだというのだ。うーん、何かが伝わっていない気がする。確かに、学生たちの言うことも一理あって、怨恨による殺人の場合には、相手は匿名の他者などではなく、むしろよく知っている人物である。知っているからこそ殺人が起こるのであって、その場合、殺人者はもちろん相手の顔を確かめてから殺すに違いない。

 だが……。私は立ち止まる。怨恨による殺人は殺す相手の「顔」を本当に見ているのだろうか? ここで私は、「顔」と「固有名」以上に大澤氏の回答において重要な概念があったことを思い起こした。それは「他者」である。「他者」ということの意味を学生たちに十分に伝えていなかったかも知れない。「他者」とは自分と「同じであることが根拠になって不可知であるもの」と大澤氏は定義づけていた。「顔」によって現れ出てくるものとは、そのような他者性なのである。怨恨による殺人者は、そのような彼の他者性を本当に見ているのだろうか。彼が見ているのは、自分にとっての彼でしかないのではないか。私のすべてを彼が知らないように、彼のすべてを私は知らない。それは本質的に知り得ないものなのだ。そのような他人には決して知り得ないものを持っているという意味において「私とまったく同じもの」が、彼にもあることを、殺人者は見てはいないのではないだろうか。

 学生たちとの討論で、親殺しという極端な例が出た。親はいい意味でも悪い意味でも、その年頃の若者たちにはリアルな他者なのだろう。親を殺す子はもちろん、親を固有名詞で呼び、その顔を見る。彼にとって取り替えのきかない存在だからこそ、彼にとって殺さなければならない相手になるはずだ、と学生たちは言う。その通りである。だが、その時、少年は親の「顔」が本当は見えているのだろうか。親の他者性に本当に触れているのだろうか。確かに、自分との関係における親、自分にとってこれこれこうであった親はいやと言うほど見えているかも知れない。だが、少年の目には決して見ることの出来ない歴史をもった親、少年と同じように/しかし少年のそれとは全く別の少年時代があり、少年と同じように/しかしそれとは全く別の形で親に対して反感を持ち、親を殺してやろうと思った経験があること、さらに少年がこれから経験するであろうような/しかしそれとは全く別の様々な挫折や失敗や喜びや悲しみなどを経験して今に至っていること、ようするに親は少年にとって一人の「他者」であることが、少年には見えていないのではないか。

 誤解されやすいことだが、私がいじめられっ子の「顔」を見たとき、それは彼の気持ちが分かったというようないわゆる「共感」という事情とは少し違っていたと思う。私はそれを彼への共感として解釈したかも知れないが、彼自身はと言えば私が得たそんな感覚にはおそらく全く無頓着であり、あいかわらず私にとって不可解な存在でありつづけた。彼と私のあいだに何か新しく親しい交流のようなものが生じたわけでもなかった。ただ、端的に私は彼をいじめることが出来なくなったのだ。あのとき垣間見たのは何だったのか、それはむしろ、私にはけっして触れることのできない他者としての彼だったと言えるのではないか。「顔」や「固有名」というメタファーは、そのような「他者」をこそ示すために使われているのではないか。

 わたしがそのことを言うと、ある学生はまさにそのことを考えていたと言い、今度は納得してくれたようだった。伝えているつもりで十分に伝わっていなかったのか、あるいは伝えている本人がうかつにもポイントをはずしていたのか、いずれにしろ容易には納得しない学生たちのおかげで私の説明の不十分さが明らかになり、そこで今一度立ち止まって互いに納得するまで話し合うことで、ふつうの講義ならさらっと通り過ぎてしまったはずの問題についてより深めることができた。

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2007-06-16

なぜ人を殺してはいけないか(9)――山の手緑

 次に「人間には人権があるから」という答えに分類できるものを紹介する。「人権」という言葉を安易に使えば当然紋切り調の答えになってしまいがちだが、この答えはかえってわれわれに「人権」の意味を再考させてくれる。

 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」と問う少年がもし本当にいるのなら、私たちはまずその問いをさえぎって怒ろう(喜びながら)。そして、そのような問いに怒り、あたまごなしに禁止する態度が、民主主義なのだと明言しよう。

「知恵遅れの少年を殺してはいけない理由」などというものは、絶対にあってはならないし、その生を価値づけることで殺人を禁止するような条理(の説法)は、周到に排除されるべきだ。

人の生を等しく価値化することで「人権」や「平等」を観念するのが国家主義(天皇主義)だとして、私たちは、人の生を等しく没価値化し、価値も理由もない生をあからさまに肯定する態度を民主主義と呼ぼう。(……中略……)だから、少年の問いに対したとき、回答は二つある。「私たちはみな陛下の(神の、民族の、地球の)子どもなのだから、殺し合ってはいけないのだ」と教えることもできるし(整合的)、逆に「俺はただのデラシネだよ、でもだめなものはだめなんだよ」と言うこともできる(無理矢理)。

 重要なのは、論理的な整合性ではなく、また(階級の)しみったれた現実感でもなく、私たち各々がどのような政治的態度を示すのかである。少年が問うているのはそれ以外ではない。

(山の手緑 『文芸』1998年夏号、河出書房新社、29頁

大江氏がなぜ人を殺してはいけないのかという問いを「問うべきではない」と言うのに対して、山の手氏はこの問いに「答えてはいけない」と言う。

 普通「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えようとすると、人間には何か価値があるから生きる権利があるというように説明したくなってしまう。その人には「尊い命」があるから、「心配してくれる人がいる」から、そして「人権」があるから……など。しかし、あなたはこうこうこういう価値を持っているから生きる権利があると考えることは、そういう価値のないものは生きる権利がないという考えをひそかにはらんでいる、と氏は考える。それは、「世の中に役に立たない人は死んでもいい」とか「心配してくれる人など誰もいない人は死んでもいい」という考えにつながっていく、と。(たしか、『罪と罰』でラスコリニコフが金貸しの老婆を殺す理由は、そのようなものだった)。

  面白いのは最後の一文である。この問いにどう答えるかは、その人がどういう政治的な立場をとるかの問題だというのだ。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して理由を挙げて説明するのが「国家主義」である。天皇制は、人の命が尊いのはその人が「陛下の子」だからだと答える。ナチズムは、人類の未来のためには劣ったユダヤ人は死ななければならないと考える。ちなみに、こうした「優生思想」は現代でも、遺伝子治療などをめぐる問題の中で生きている。

 それに対して、「なぜ人を殺してはいけないのか」とうい問いに理由などないと言うことこそが「民主主義」だという。「民主主義」はすべての人が生きる権利を持っていると主張するが、それは、その人がこういう人であるから、こういう価値をもっているから人権を認めようということではない。どんなに「デラシネ」であろうと、社会にとって役立たずだろうと、その価値を認めるということである。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたとき、そこでわれわれがすべきことは、どこかに答えを探すことではなく、「国家主義」を選ぶのか「民主主義」を選ぶのか決めることだというのである。そして、「民主主義」を選ぶなら、この問いには答えてはいけないのである。

 民主主義とか人権思想の本質を、文部省的な紋切り調にならずに答えている点で、また答がないことをマイナスではなくむしろプラスに転じてしまう点で、大変ユニークな答えだと思う。また、一つの問題も投げかけている。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、たとえば「その人を愛している家族や友達がいるから」と答えることはごく自然に思えるが、しかし今見た視点からすれば根深い問題をはらんでいるかも知れないということである。もしそれが「国家主義」が持っている問題とどこかで繋がっているのだとすれば、「国家主義」を支える考え方の基本はわれわれの日常的な意識の中に潜んでいることにもなる。

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2007-06-15

なぜ人を殺してはいけないか(8)――田口ランディ

 某大学での倫理学の授業では、この問いを導入に使うはずが、議論が大いに沸騰したために、ついに今日(第8回)まで引っ張ってしまった。「先生、シラバスでは最初の1回だけということになってますよ」と学生に言われた。しかし、こうなったのは、いかにみんながよくしゃべったかということである。ここの学生は、講義をすると寝るが(お疲れなんです)、議論をさせると大いに盛り上がる。聴いているうちに私も引き込まれ、思わぬ思考の冒険をすることになる。自分一人でしゃべっている授業と違って、議論がどこへ行くかはまったく予想がつかないため、ホントにまとまるのかという不安と同時に、いったいどうなるのだろうという期待もあいまって、実にスリリングな時間だった。議論をもりあげてくれた学生のみなさん、どうもありがとう。このブログでは、このゼミでの議論を振り返りながら、私自身の頭をもう一度整理していくことにする。

 さて、番組での高校生の発言をきっかけに、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いをめぐる新聞や雑誌の記事、TV番組の特集などが相次いだ。それらの企画の中には、「有識者」「知識人」たちにこの問いをアンケートし、答えを提出してもらおうというものがいくつかあった。当時私はそれらに眼を通して、めぼしい回答を抜き出すという作業をした。そのときのメモが今も残っているので、それを以下に紹介しながら、この問いにどのような答えがありうるのかを検討してみたい。

 様々な回答があったが、便宜上先に使用した分類をここでも使って、全体を「ヒューマニスティックな回答」と「現実主義的な回答」に分けることにする。「ヒューマニスティックな回答」の一番手として、まず紹介したいのは、かつて「インターネットの女王」と呼ばれたメルマガエッセイの名手で、『コンセント』をはじめとする小説作品もある田口ランディー氏の回答である。ただしこれは雑誌のアンケートに答えたものではなく、自分のエッセイの中で氏が自発的に取り上げたものである。字数制限がないという利点もあってか、大変生き生きとした記述になっており、学生たちに紹介してもダントツで共感を得た回答である。かなり長くなるが、ニュアンスを伝えるために文書の流れをあまり省略せずに引用する。(なお、これはメルマガで配信されたエッセイの一部で、当時ネットで読むことが出来たが、現在はリンクが切れている。おそらくその後出版されたエッセイ集などの書籍に収録されているかも知れない)。

……テレビを観ていた私たちは、けっかって「ばっかもーん」と怒鳴ったのである。「なんでどいつもこいつも、このバカ少年の頭をぶんなぐってやんないんだろうね。私が親だったらこいつの頭をドついて、家にひきずって帰るけどね」と、彼女は息まいた。「まあまあ、だってテレビだからさ。みんなそういう大人の権力を振りかざしてはいけないと思ってるんだよ」

「違う」彼女は断言した。「この番組に出てる奴らは、みんな男か、もしくは子供を産んだことのないガリガリ女みたいな奴らだからわかってないんだよ」私は思わずのけぞった。そりゃ、あなたあんまりな言い分ではないですか。「こういう番組にはね、こういい気持ちで酔っぱらっていた。そして、「なぜ人を殺してはいけないんですか? 」という質問が出た時に、彼女はテレビに向いや、こういう番組こそね、そこらのフツーのお母さんが出てこなくちゃダメなんだよ。なんでこんな頭でっかちの男と女ばかり登場させるのかな」確かに言われてみるとなるほどと思う。たぶん、このような討論番組で物事を論理的に語るのに、主婦や母親は適切ではないと判断されているのだろう。少なくとも、活字にしてもまかり通るくらいの言葉でしゃべらないといけないわけだから。しかし、生命について考えるとき、母親である女性、という存在はもっとクローズアップされていいのかもしれない。「でもさあ、フツーのお母さんが出てきたら、感情論みたいなんで終わってしまうんじゃないの? 」

「感情論のどこが悪いんや。なんで人を殺してはアカンか、なんちゅう問題に感情以外のどんな回答があるっちゅーんや。だいたいなあ、人なんか戦争でいっぱい殺してきた男がだよ、人を殺してはいけません、ってルール作って子供に押しつけて、子供がハイそうですか、って信じますかいな」ついに彼女は生れ故郷の大阪弁をしゃべり出した。「じゃあさあ、あんたは、人を殺してはいけない理由が言えるの? 」「それは、子供を産めばわかる」「そんなんじゃ男は一生わからないじゃん」「だから男は戦争するんだよ、バカで人を殺してはいけない理由がわかんないから」「子供を産むと本当にわかるの? 」「わかんないバカ女もたまにいるけどね、だいたいはわかる」彼女が言うには、子供というのは、自分から生れてくるそうなのである。自分の判断で自分が出てきたい時に自分でうんこらしょと出てくるそうなのである。生れる時は自分で決める。そして、体内に宿った瞬間から生きようと始める。「そりゃあそうだよなあ、死のうとする胎児なんて聞いたことないもんな」「そやろ、赤ちゃんってのは、そらあもう必死で生きようとしてる。なぜだかわからん。とにかく生きようとする。本能っていうんかなあ。その生きようとする生命力はすごいんや。生れて来て、ぎゃあぎゃあ泣いてミルクほしがって、うぱうぱ飲んで、寝て、うんこして、一生懸命お母さんの顔を覚えてなあ。だって、赤ちゃんはお母さんが命綱やから、顔覚えんかったら死んでしまう。だからもうお母さんのことは真っ先に覚えるんや」「ふうん、そういうものなのか」「そうや。誰でもそうやって大きくなった。自分が生れたくて出てきて、必死で生きようとしてた。そしてな、これが大事なんやけど、生れたばかりの赤ちゃんはほっておいたらどうなる? 」「そりゃあ、死ぬでしょう」「そやろ、人間は3、4歳くらいになるまで、ほっておかれたらすぐ死ぬ存在なんや。2才くらいまでは誰かがつきっきりで、ご飯食べさせたり、おしめとりかえたり、とにかく四六時中誰かの世話が必要なんや。ようは24時間介護が必要な人間ってわけだ。つまりな、こうして自分が生きているってことはよ、誰かがそれをやってくれたっていう証やねん」すべての生きとして生ける人は、2歳までの間に誰かがつきっきりで寝食を削って自分の世話をしてくれたはずだ。彼女はそう断言する。そうでなければ、赤ちゃんは死ぬのだそうだ。世話をしてくれたのが母親であれ、父親であれ、施設の人であれ、この24時間つきっきりの世話というのを誰かがしてくれたからこそ、今生きているすべての人は存在している。「それを考えたら、人間が生きているってすごいなあ、って思わへんか? こんなたくさんの人がだよ、生れてすぐに死なずに、誰かの世話になってこうして生きているわけや。うちなあ、母親になって思ったんよ。よくもまあ、みんな子供を殺さずにやってるなあって。だって、あんた本当に24時間介護でっせ。それでもさあ、殺される子供なんてめったにいないわけよ。なんだかんだ言いながら、大人になる。すごいことだよね。奇跡だよ奇跡」「うーん、そんな風に考えたことは無かったけど、確かに、当たり前すぎるけどすごいかも」「なんで、赤ちゃんは殺されずに生き延びると思う? 」

「わかんない」「赤ちゃんのもっている生きようとする力が大人を感動させんねん」「生きようとする力? 」「そや。そりゃあもう、生れてきたってだけですごいんやけど、その後も、成長して生きようとする力に大人はぼう然とさせられる。目から鱗やね、もう、赤ちゃんのパワーは。それを見せつけられるから、大人はもう赤ちゃんの奴隷になって育てるんよ。赤ちゃんは、大人を圧倒して、屈服させるくらいの力を持ってるんだと思う」「そういやあ、赤ちゃんて、なんか存在がきらきらしてるよね」「誰でもそうやったんや。そのことを知っているのは母親だけや。腹の中で暴れたことまで記憶してるのは母親だけや。だから、あたしはね、なんで人殺したらあかんのか、とか言うボケガキには、お前がどうやって生れて来てどんなに必死で生きようとしていたか、ってことを話してやらなあかんと思う。どれくらい、生きたがって泣いて叫んでもがいたか。手の平に乗る大きさのくせに、自分で産道をこじあけて出てきたこと、生れてから2年間、ただ生きるためだけに懸命だったこと、そしてそれがどんなに世界を明るくしたかってこと、全部話してやる。そんで、この世の中の誰もがそうやって生れて来たんだってこと、わからせたる」……

(田口ランディ 「母親のお仕事」1999.02.20 配信メールマガジンhttp://pcweb.mycom.co.jp/column/dream/dream036.html リンク切れ)

この文章は関西弁のイントネーションが鍵になるが、ゼミに関西弁の得意な(というかネイティブの)学生がいたため、彼女に読んでもらったら臨場感溢れるすばらしい朗読となった。ちなみに、この文章はこの後、「母親の仕事」がいかに重要であるかというテーマに移っていくが、その部分は省略してある。

 さて、「なぜ人を……」への答えとしては、「命の尊さ」に類型化されることになるだろうが、命の尊さの実感を、酔っぱらいのおばさんの大阪弁を通して生き生きと描いているところがさすが「女王」である。

 酔っぱらいがくだまいているのを要約するというのもどうかとは思うが、とりあえず主張されていることのポイントを列挙してみよう。

①答えはそこいらのふつうのお母さんが知っている。
②感情論意外の答えはないし、それでよい。(直感的なもの)
③答えは子どもを生めばわかる
④生まれた赤ちゃんは生きようとする
⑤赤ちゃんが生きるためには他者の力がいる → 今生きているすべての人は他者のおかげで生きている
⑥大人になるまで生きていることは奇跡である。
⑦赤ちゃんが殺されないのは、赤ちゃんの生きようとする姿が人を感動させるからである。
⑧「なぜ人を殺してはいけないか」と聞かれたら、あなたがどうやって生れて来てどんなに必死で生きようとしていたかを話す。

論説ではないから、つっこめば論理的に破綻をおこしそうな暴論もないわけではないが、全体として言わんとするところはきちんと伝わってくる。

 ①ふつうのお母さんが答えを知っているとか、②子供を産めば答えは分かるというのは、なにも父親は分からないということではないだろう。通常母親が代表している考えられるような感覚、つまり子供を産み育てるような人の感覚のうちにこそ、殺してはいけないことの根拠があるということだ。そして、それは②理屈ではなく直感的なものだ。

 ただ、彼女は何とかその直観に説明を与えようととして、二つのことをつけ加える。一つは、④赤ちゃんは必死で生きようとするという事実である。これは、確かに赤ちゃんを育ててみれば誰でも容易に分かることである。生まれてきた者は自然に生きようとする。それを殺すことは自然の流れに逆らった行為である。もう一つは、⑧そのような生きようとする姿が、他者に感動を与え、ごく自然の流れとして赤ちゃんが生きる手助けをするという行為を導くということである。生きようとすることも自然であれば、それを助けようとすることも自然な営みなのだ。「人を殺してはいけない」という原則は、こういう人間のもっとも自然な営みから出てきているはずのものだ。

 「なぜ人を殺してはいけないか」への答えは、結局は論理で説明するといった手続きによるのではなく、母親が実感として感じとっているものを同じように感じとってもらうように伝える以外にないということだろう。大江氏が言っていた「直観」を、女性の立場から実感をもって解説してくれている答えと言える。「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して知的な満足感を与える答えとは言えないが、ここから先どんな説得力のある理屈が登場しようと、彼女が言っている実感を越えることはないだろうということだけは予想できる。理屈はおそらくこの実感に後から説明を加えることに過ぎないのであって、そのような実感を持つことの出来る者だけが、その説明に同意することができることになるのかも知れない。

 しかし、以下では、あえてそのような説明をした人々の回答をさらに見ていきたいと思う。

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2007-06-12

なぜ人を殺してはいけないか(7)――大江―永井論争

 例の番組のあった年、朝日新聞誌上に大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題された文章が掲載された。この文章の導入部に、番組での高校生の発言について次のような言及があった。

テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。/私はむしろ、この質問に問題があると思う。まとまな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたい。/人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

大江氏によれば、問題は大人がこのような問いに答えられないことにあるのではなく、若者がこのような問いを問うことにある。そして、氏は、このように問う若者や、そのような問いを誘発してしまう社会に対する強い懸念を、「まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」という過激な言葉で表明している。「人を殺してはいけない」というのは直観的に誰もが知っているべきことであって、この直観に対して「なぜ」というのは無意味だというのである。言いかえれば、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような問いには答えがなくてよいのだということにもなる。

 以上のような大江氏の発言に対して、哲学者の永井均氏は、翌年に出た著書の中で、以下のようにはげしく批判している。

1997年11月30日の朝日新聞の朝刊に、大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」という文章が載っていた。私はそれを読んでとても嫌な感じがした。その嫌な感じにはある懐かしさがともなっていた。少年のころの私が何度も感じた嫌な感じだったからである。/……(中略)……大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。/「どうして人を殺してはいけないのか」というのは、本来、素朴で単純な問いだと私は思う。「なぜ動物は殺して食べてもいいのか」とか、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」とか、あるいはまた「宇宙の果てはどこか」とか「私はなぜ存在するのか」といった問いと同じように、率直で素朴な問いである。/ところが、ある種の人は、それをすなおに受けとることができないらしいのだ。問い自体に何か不穏なものを感じるようだ。何の気なしにそういう疑問を感じた者は、答える者のその態度と口ぶりのうちに、何か不穏なものを感じとってしまう。力で問いをねじ伏せようとするある種の威圧感を感じとり、何か秘密があるなと直観する。問い自体は、素直で素朴な疑問だったのに、その答えに<嘘>を感じ取ったとたんに、問い自体が不穏なものに変じる。問いに不穏さを感じとる大江健三郎のような「聖人」たちの心の動揺が、問い自体を不穏なものに変質させる。――少なくとも私の場合はそうであった。(永井均『これがニーチェだ』講談社学術新書、20-21頁)

『子どものための哲学』の著者でもある永井氏は、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような疑問は、子供時代にはごく自然に出てくる素朴かつ根源的な問いの一つであって、大江氏の反応はそういう子どもの純粋な問いを力でねじふせようとするものだと非難する。なぜ勉強しないかを教えないでただ勉強しろと言うことがよくないのと同じように、なぜ殺してはいけないかを教えないで「なぜ」という問いを抑圧することはよくない。子どもたちは、大人たちのそういう過剰な反応にかえって何か不穏なものを感じ、そこに何か「嘘」が隠されていることを疑うようになるというのである。

 この二つの記事を読んだ当時、私は永井氏のいかにも哲学者らしい意見に共感した。哲学者の仕事とは、誰もがあたりまえだと思っていること(自明性)を、もう一度根本から考え直すところにある。誰でも子供時代には、宇宙の成り立ちや、社会のきまりについて、素朴な疑問を抱く。そして多くの場合、大人はそのような問いに対して答えを与えてはくれない。子供自身が成長につれて、だんだんそのような問いを問わなくなるとき、そこに1人の大人が誕生する。これに対して、大人がこの子供の頃の問いをもう一度想起して、それに正面から答えようとするとき、1人の哲学者が誕生する。そういう意味では、大江氏のように頭ごなしに問いを押さえつけるのは、大人の立場からの子供や哲学者の問いへの抑圧ではないか。そういう感想を私は抱いたのだった。

 しかし、数年後に同じことを振り返ったとき、やや異なった感想をいだくようになっていた。たしかに、哲学者や学者はそういう自明性を問うことが必要である。しかし、はたして哲学はそれに答えられるのだろうか? 結局答えは与えられないのではないだろうか? そもそも「人を殺してはいけない」というような問いには、論理的に納得のいく答えなどはないのではないだろうか? それはむしろ、大江氏が言うように、理屈を越えて直観すべきものなのではないか。だとすれば、理屈をひねくりまわしてその理由を若者に教えるよりも、むしろ「人を殺してはいけない」ということが直観的に分かるような教育をしていくべきではないのだろうか? そういう社会を作るべきではないだろうか? そのような感想を持つようになっていたのである。

 子供たちは、哲学的な根源的な問いに答えをあたえることによって、「人を殺してはいけない」ことを知るのではなく、人と人とのかかかわりの中で知らず知らずのうちにそのことを直感的に身につけていくものだということは疑えない。そして「人を殺さない」という態度は常に人と接する時の基本となるはずのものであって、それをあえて「なぜ」と他者にむかって問いかけるという行為には、他者と共に生きている世界に対する挑戦的、否定的、破壊的な態度を含んでいるように思える。はたしてそのような挑戦を、哲学的に根源を問う問いと同一視するべきなのだろうか? そんな疑問を今度は逆に永井氏に対していだいた。

 永井氏は、その若者の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、「なぜ悪いことをしてはいけないか」、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」、「宇宙の果てはどこか」といった人が子供時代に抱きがちな素朴な問いと同列の問いとして扱っている。しかし、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、実は他の問いとは異なった特殊な問いではないだろうか。とりわけ、その問いに「なぜ人を殺していけいないはずがあろうか、殺してもよいのだ」という反語的な意味合いが加えられた場合にはそうである。そもそも哲学的な議論は対話によって成り立つものである。「なぜ悪いことをしてはいけないか」とか、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」とか、「宇宙の果てはどこか」といった問いは、この対話の中ではじめて意味を持つ。ところが「なぜ人(あなたを)を殺してはいけないのか(殺してもよいのではないか)」という問いは、対話の相手を抹殺する可能性を問うことによって、このような対話の場を不可能にしてしまう可能性を持った問いなのだ。大江健三郎氏は、そのことに文学者的な直観によって気づいたのではないだろうか。

 先にも述べたゼミの学生は言っていた。若者が「なぜ殺してはいけないの」という疑問をもつことは十分に分かるが、それはあのような場所では口にすべきではなかった、と。私はこの学生の言ったことに深くうなずかざるを得なかった。若者の問いかけは、永井氏が言うように、子供なら自然に抱く問いなのかも知れないし、哲学的に意味のある問いなのかも知れない。しかし、それは公共の場で口にすべき言葉ではなかった。それは単に賢く世をわたるためにという意味ではなく(それもあるが)、自分が人との関わりに置かれているという事実の中で、その人との関わりにおいて何を口にすべきか、という問題なのだ。人との関わりの中で、他者の存在があるがゆえに、私は何かを他者へと問いかけることができる。とすれば、その問いかけることの中で、私はどうして他者の存在を否定することができようか。

 以上の感想をふまえた上で、しかしやはり、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いそのものについては、われわれは答えていく必要があると思う。この問いに対して、「殺してはいけないものは殺してはいけないのだ」と押さえつけるように答えるべきではない。たしかに「人を殺してはいけない」ということは、本来直観的に分かっているべきことであり、倫理のもっとも基礎にある事柄である。しかし、様々な理由でこのような直観に揺らぎが起こることもあるだろう。そういう時には、論理でもってその直観を再び呼び戻すことも必要だと思う。直観に分かっているということは、根拠なく分かっているということではない。ちゃんと根拠はあるのだけれども、あまりにも基本的なことすぎて、その根拠が意識化されていないということだろう。「なぜ?」という問いが出てくるということは、この無意識に分かっていたことが意識化されてきたということである。であるなら、この際、徹底的に意識化させて、「人を殺してはいけない」ということがいかに根拠をもった命令であるかを確かめればよいのではないだろうか。ちょうどそれは、スランプになったバッターが、ビデオを見ながらバッティングフォームをチェックするのと同じように。

 「なぜ人を殺してはいけないか」という問い対して、どんなに説得力のある理屈を与えても、人を殺してもよい、あるいは人を殺そうと思っている人にはあまり効果はないだろう。では、そんな問いに答えることは意味がないのか? 否、それはむしろ、人を殺してはいけないことを直感的に知っている人にとっては意味があるのだ。世間で、人の命が奪われる事件が多発し、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが問われ、この問いに答えがないかのように言われる。すると、人を殺してはいけないことを直感的に知っているはずの人の心が揺らいでくる。意識しなければちゃんと出来ていたバッティングが、何かのきっかけで意識しだすとうまく出来なくなることがあるように。直観の弱さはそこにある。何も考えなくても出来るということは、なぜそれが出来るかが自分で分からないということなので、ひとたび揺らぐと脆いのだ。

 だから、「殺してはいけない」という言葉以前の直観が揺らぎ始めている時代には、われわれは、直観を何とか言葉にもたらす必要があるのではないだろうか。それは、人を殺そうと思っている人に思いとどまらせるためではなく、「人を殺してはいけない」と分かっている人が、そのことをはっきりとした言葉で意識的に理解できるようになるためである。「なぜ人を殺してはいけないのか」といったことが話題になるような時代にあっては、そのような営みも必要になるのだと思う。

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