なぜ人を殺してはいけないか(10)――大澤真幸
「ヒューマニスティックな回答」の「かけがえのなさ」に分類されるものを紹介しよう。社会学者の大澤真幸氏の回答だ。最初に読んだとき、もっとも自分の考えに近いと感じたのがこの回答だった。
人を殺してはならないということは、道徳的な命令(当為)である前に事実の問題です。人を殺してはならないのではなくて、人は人を殺すことができないのです。できないからしてはならないのであって、逆ではありません。
他人が生きているということは、私がこの私であるということと同じことです。他人とは次のようなことです。それは、ある意味で私とまったく同じです。つまり、それには、私が生きていることの証となるものと同じものが所属している。それは、私と同じように何かを感じ、欲している。それは魂をもつのです。が、にもかかわらず、と言うより正確には、まさにそれゆえに、私には、最終的には、それが狂おしいほどにわからない。それが何を感じ、欲しているかを知り尽くすことはできない。それは不可知であり、謎です。このように、同じであることが根拠になって不可知であるもの、それが他人です。こういう他人に直面していること、このことが私がこの私として生きているということの反面なのです。
(……中略……)
他人を否定すること、人を殺すことは、あなたも名前で呼びかけられ、名前で覚えられる者として存在しているということを否定することになる。私がこの私として生きているということ、私が名前によって指示される者としてのみ生きているということは、同様に他人が名前によってしか指示でいない者として存在しているということと表裏一体のことだからです。繰り返せば、他人を殺すことは、この私がこの世界に存在しているということを否定することになる。私がこの私として生きているということ、私が名前によって指示される者としてのみ生きているということは、同様に他人が名前によってしか指示できない者として存在しているということと表裏一体のことだからです。繰り返せば、他人を殺すことは、この私がこの世界に存在しているという実感の中で生きることを否定することです。それは、誰かとおしゃべりして笑うとか、口げんかして泣くとか、そういう普通の時間を過ごせなくなるということです。
だから人は人を殺すことはできないのです。でも殺人も死刑も戦争もあるじゃないか、と反論されるかもしれません。しかしそういう場合ですら、人は人を殺しきれてはいない。たとえば銃殺系では受刑者に目隠しをする。あれは殺される側ではなく殺す側の恐怖を和らげるためにやるのです。他人が他人として迫ってくるのは、他人の顔や目に直面したときです。目隠しは、だから他人が他人であることを隠蔽するわけです。戦争も同じです。戦争の大量殺戮は、それぞれの人が名前で呼ぶほかはない単一者であるという事実を、意識から隠す効果をもちます。だから戦争では人を殺すことができるわけです。しかし、もう一度言えば、人をまさに他人としての資格において殺すことはできない。私が生きている以上は。
(大澤真幸、 社会学 『文芸』(河出書房新社)1998年夏号、61頁)
この回答は、様々な視点を含む総合的な回答であるが、なんと言っても目をひくのが、「人を殺してはならないのではなくて、人は人を殺すことはできない」という視点である。その主張の背後にはエマニュエル・レヴィナスの次のような思想があると想像される。
他者が私に抗してつきつけるもの、それは、より大きな力、すなわち算定可能であるがゆえに全体の一部分をなすかにみえるエネルギーではなく、そこの全体に対する他者の超越の無限にほかならない。殺人よりも強いこの無限は他者の顔を通じてすでにわれわれに抵抗しているのだが、この無限が他者の顔であり根源的表出であり、「汝、殺人を犯すなかれ」という最初の言葉なのである。無限は殺人に対して無限に抵抗することで権能を麻痺させる。そしてこの抵抗は、圧殺しえないしぶとい抵抗として、他者の顔、他者の眼のまったき裸出性、<超越者>の絶対的開けの裸出性のうちで輝く。殺人に対する抵抗はきわめて大きな抵抗との関係ではなく絶対に<他なる>何ものかとの関係であり、この関係は抵抗しないものの抵抗、つまりは倫理的抵抗である。殺人への無限の誘惑を、前面破壊への誘惑としてだけでなく、殺人への誘惑と殺人の試みとの純粋に倫理的な不可能性として測ることもできる。このような可能性を生ぜしめるもの、それが顔の公現である。
(レヴィナス『全体性と無限』合田正人訳、国文社、301頁)
大沢氏とレヴィナスの文章のキーワードの一つは「顔」である。「殺人への誘惑と殺人の試みとの純粋に倫理的な不可能性」とレヴィナスは言っているが、これは要するに、「他人の顔を見てしまったら、その人を殺せなくなる」ということである。もちろん「顔」といってもそれは文字通りの意味での単なる顔のことではない。それは顔が象徴するような何かであろう。それが何かを説明することは難しいが、私は次のような自分の経験でそれを理解している。
私が小学生の頃、クラスにいじめられっ子がいた。どこからか転校してきた子で、兄妹でいじめられていた。そして、私もいじめに荷担していた。身だしなみや生活態度にだらしがないところがあり、性格的にも問題があるのでいじめられてもしょうがないんじゃないかと私は思っていた。しかし、あるとき私は、彼が自分の弁当箱を広げて食べているのを見た。それは、むかしのサラリーマンが誰でも持っていたような、何のへんてつもないアルミの弁当箱である。それが、やはり当時よく目にした無骨な白いハンカチにつつんである。中身はご飯の真ん中に梅干しが一つ入っている日の丸弁当だった。私は、彼がそれを広げているのを見て、ものすごく変な感じに襲われた。それを言葉であらわすことは難しいが、あえて言えば、この子には母親がいて、その母親がこの子の弁当箱にご飯と梅干しをつめたのだ、という事実に突然気づいたというような、そういう言わく言い難い感じだった。それとともに、彼の後ろ髪を見た。それは、はえぎわの髪の毛が先に向かって集まってとがったようになっていた。今でも彼の弁当箱とその後ろ髪の形を忘れることが出来ない。
そして、それを見てからというもの、私は彼に対するいじめに加わることが出来なくなった。私がその時見たものこそ、レヴィナスの言う「顔」ではないかと思うのである。もちろん、われわれはいつも他人の顔を見ている、弁当箱も後ろの髪のはえぎわも目に入ってはいる。しかし、レヴィナスの言う意味での「顔」は隠されているのだ。だから、人をいじめたり、傷つけたり、殺したりすることが出来る。しかし、もしほんとうに「顔」が現れてきたら、人はその人をいじめたり、傷つけたり、殺したりできなくなるのではないだろうか?
大澤氏の文章の中のもう一つのキーワードとして、「名前」がある。これは「顔」ということと深いつながりがある。「名前」と言っても、この場合、「黒板」とか「人間」といった普通名詞のことはでなく、「木村」とか「酒井」といったその人固有につけられた固有名詞のことである。普通名詞が反復可能な一般概念を意味するとしたら、固有名詞は歴史的な一回性を指示するものである。
「普通名詞」は氏の言葉で言えば、「概念」である。それは定義を持っている。たとえば、「人間」という概念は、「二足歩行し、大脳の発達した哺乳動物」というように定義されるかも知れない。しかし「木村」という固有名は、そういう定義ができない。仮りに「木村」を「いつも汚い服を着ていて、性格が暗く、のろまな男の子」と定義するとしても、木村君はこの定義によっては「汲み尽くせない余り」を持っている。彼は成長すればこれらの性質を全て持たなくなって、「いつもきちんとスーツを着た、明るい、きびんな男の人」になるかも知れないが、それでも彼は「木村」である。では「木村」という固有名詞は何を示しているのか。それは彼が生きてきた、あるいはこれから生きていくであろう1回きりの歴史、取り替えのきかない彼の存在そのものを示しているのある。それは言いかえれば「かけがえのなさ」というものをトータルに指し示していると言えるだろう。
「北の国から」というドラマのどこかで、村に住む偏屈者の老人が馬を売る話が出てくる。その馬は10数年間おじいさんと苦楽をともにしてきた馬である。そして、主人公の純君を雪の中から助け出してくれたこともあった馬だ。しかし、おじいさんはお金がなく、生活が苦しくなってきて、ついに馬を売るしか手だてはなくなってしまう。それで、馬を売るのだが、そのすぐ後に、泥酔し誤って川に落ちて死んでしまう。
その老人が生きていた時の回想シーンとして、彼が「馬に名前とつけてはいかん」と語る場面があった。自分の飼っている馬には名前をつけてはいけない。なぜなら、名前をつけると情がうつるからだ。情がうつると決して馬を売れなくなってしまうというのである。ここで名前というのは、「固有名詞」のことである。固有名詞は、宇宙で唯一、そのものだけにつけられた名前のことである。固有名詞で呼ぶということは、それが他のものによっては取り替え不可能であること、つまりかけがえのない存在であることを意味している。「畑で鍬や隙を弾くときに使う力の強い動物」と定義される概念にあてはまる馬であれば、他の馬で替えることが出来る。しかし、「黒兵衛」と固有名詞で呼ばれる馬のかわりになる馬は黒兵衛以外にはいない。自分の飼っている馬を固有名詞で呼ぶということは、その馬をかけがえのないとりかえ不可能なものとして扱うということなのだ。人間でも同じ事である。ある人を「固有名」で呼ぶことは、その人のうちにかけがえなさを見出すことだ。すると、他の人では彼のかわりにはならない。
もちろん、大澤氏やレヴィナスはごくあたりまえのことを言っているだけである。それは要するに、「人権」とか「命の尊さ」とか「かけがえのなさ」といった使い古されて魅力を失った言葉が本来持っているはずの意味について、「顔」とか「固有名」という言葉を使って説明しているにすぎない。だが、この回答の決定的に重要な点は、「殺してはいけない」のではなく「殺せない」と言っている点である。われわれが人を殺せるように思うのは、その人の「顔」を見ないからに過ぎないのであって、もし本当に「顔」を見てしまったら人を殺すことは不可能だというのである。わたしはこの答えに深くうなずかざるをえないし、自分が回答者の立場におかれたら、同じような答えをするだろうとその当時思ったものである。
だが、この答えに対する学生たちの反応はあまりかんばしくなかった。その理由は、「殺せないと言うけど、実際には殺しているではないか」というものだった。もちろん大澤氏は、戦争や死刑で人を殺すことが出来るのは、「顔」が見えていないからであると正当にも答えている。しかし、学生たちの言わんとするのは、無差別殺人のような特殊な例はともかく、怨恨による殺人のような場合には、殺人者はまさに顔と固有名詞をもったその人をこそ殺そうとすのではないか、ということである。それを「殺せない」などと言うのは、結局はきれいごとだというのだ。うーん、何かが伝わっていない気がする。確かに、学生たちの言うことも一理あって、怨恨による殺人の場合には、相手は匿名の他者などではなく、むしろよく知っている人物である。知っているからこそ殺人が起こるのであって、その場合、殺人者はもちろん相手の顔を確かめてから殺すに違いない。
だが……。私は立ち止まる。怨恨による殺人は殺す相手の「顔」を本当に見ているのだろうか? ここで私は、「顔」と「固有名」以上に大澤氏の回答において重要な概念があったことを思い起こした。それは「他者」である。「他者」ということの意味を学生たちに十分に伝えていなかったかも知れない。「他者」とは自分と「同じであることが根拠になって不可知であるもの」と大澤氏は定義づけていた。「顔」によって現れ出てくるものとは、そのような他者性なのである。怨恨による殺人者は、そのような彼の他者性を本当に見ているのだろうか。彼が見ているのは、自分にとっての彼でしかないのではないか。私のすべてを彼が知らないように、彼のすべてを私は知らない。それは本質的に知り得ないものなのだ。そのような他人には決して知り得ないものを持っているという意味において「私とまったく同じもの」が、彼にもあることを、殺人者は見てはいないのではないだろうか。
学生たちとの討論で、親殺しという極端な例が出た。親はいい意味でも悪い意味でも、その年頃の若者たちにはリアルな他者なのだろう。親を殺す子はもちろん、親を固有名詞で呼び、その顔を見る。彼にとって取り替えのきかない存在だからこそ、彼にとって殺さなければならない相手になるはずだ、と学生たちは言う。その通りである。だが、その時、少年は親の「顔」が本当は見えているのだろうか。親の他者性に本当に触れているのだろうか。確かに、自分との関係における親、自分にとってこれこれこうであった親はいやと言うほど見えているかも知れない。だが、少年の目には決して見ることの出来ない歴史をもった親、少年と同じように/しかし少年のそれとは全く別の少年時代があり、少年と同じように/しかしそれとは全く別の形で親に対して反感を持ち、親を殺してやろうと思った経験があること、さらに少年がこれから経験するであろうような/しかしそれとは全く別の様々な挫折や失敗や喜びや悲しみなどを経験して今に至っていること、ようするに親は少年にとって一人の「他者」であることが、少年には見えていないのではないか。
誤解されやすいことだが、私がいじめられっ子の「顔」を見たとき、それは彼の気持ちが分かったというようないわゆる「共感」という事情とは少し違っていたと思う。私はそれを彼への共感として解釈したかも知れないが、彼自身はと言えば私が得たそんな感覚にはおそらく全く無頓着であり、あいかわらず私にとって不可解な存在でありつづけた。彼と私のあいだに何か新しく親しい交流のようなものが生じたわけでもなかった。ただ、端的に私は彼をいじめることが出来なくなったのだ。あのとき垣間見たのは何だったのか、それはむしろ、私にはけっして触れることのできない他者としての彼だったと言えるのではないか。「顔」や「固有名」というメタファーは、そのような「他者」をこそ示すために使われているのではないか。
わたしがそのことを言うと、ある学生はまさにそのことを考えていたと言い、今度は納得してくれたようだった。伝えているつもりで十分に伝わっていなかったのか、あるいは伝えている本人がうかつにもポイントをはずしていたのか、いずれにしろ容易には納得しない学生たちのおかげで私の説明の不十分さが明らかになり、そこで今一度立ち止まって互いに納得するまで話し合うことで、ふつうの講義ならさらっと通り過ぎてしまったはずの問題についてより深めることができた。
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