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2007-06-12

なぜ人を殺してはいけないか(7)――大江―永井論争

 例の番組のあった年、朝日新聞誌上に大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題された文章が掲載された。この文章の導入部に、番組での高校生の発言について次のような言及があった。

テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。/私はむしろ、この質問に問題があると思う。まとまな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたい。/人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

大江氏によれば、問題は大人がこのような問いに答えられないことにあるのではなく、若者がこのような問いを問うことにある。そして、氏は、このように問う若者や、そのような問いを誘発してしまう社会に対する強い懸念を、「まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」という過激な言葉で表明している。「人を殺してはいけない」というのは直観的に誰もが知っているべきことであって、この直観に対して「なぜ」というのは無意味だというのである。言いかえれば、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような問いには答えがなくてよいのだということにもなる。

 以上のような大江氏の発言に対して、哲学者の永井均氏は、翌年に出た著書の中で、以下のようにはげしく批判している。

1997年11月30日の朝日新聞の朝刊に、大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」という文章が載っていた。私はそれを読んでとても嫌な感じがした。その嫌な感じにはある懐かしさがともなっていた。少年のころの私が何度も感じた嫌な感じだったからである。/……(中略)……大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。/「どうして人を殺してはいけないのか」というのは、本来、素朴で単純な問いだと私は思う。「なぜ動物は殺して食べてもいいのか」とか、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」とか、あるいはまた「宇宙の果てはどこか」とか「私はなぜ存在するのか」といった問いと同じように、率直で素朴な問いである。/ところが、ある種の人は、それをすなおに受けとることができないらしいのだ。問い自体に何か不穏なものを感じるようだ。何の気なしにそういう疑問を感じた者は、答える者のその態度と口ぶりのうちに、何か不穏なものを感じとってしまう。力で問いをねじ伏せようとするある種の威圧感を感じとり、何か秘密があるなと直観する。問い自体は、素直で素朴な疑問だったのに、その答えに<嘘>を感じ取ったとたんに、問い自体が不穏なものに変じる。問いに不穏さを感じとる大江健三郎のような「聖人」たちの心の動揺が、問い自体を不穏なものに変質させる。――少なくとも私の場合はそうであった。(永井均『これがニーチェだ』講談社学術新書、20-21頁)

『子どものための哲学』の著者でもある永井氏は、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような疑問は、子供時代にはごく自然に出てくる素朴かつ根源的な問いの一つであって、大江氏の反応はそういう子どもの純粋な問いを力でねじふせようとするものだと非難する。なぜ勉強しないかを教えないでただ勉強しろと言うことがよくないのと同じように、なぜ殺してはいけないかを教えないで「なぜ」という問いを抑圧することはよくない。子どもたちは、大人たちのそういう過剰な反応にかえって何か不穏なものを感じ、そこに何か「嘘」が隠されていることを疑うようになるというのである。

 この二つの記事を読んだ当時、私は永井氏のいかにも哲学者らしい意見に共感した。哲学者の仕事とは、誰もがあたりまえだと思っていること(自明性)を、もう一度根本から考え直すところにある。誰でも子供時代には、宇宙の成り立ちや、社会のきまりについて、素朴な疑問を抱く。そして多くの場合、大人はそのような問いに対して答えを与えてはくれない。子供自身が成長につれて、だんだんそのような問いを問わなくなるとき、そこに1人の大人が誕生する。これに対して、大人がこの子供の頃の問いをもう一度想起して、それに正面から答えようとするとき、1人の哲学者が誕生する。そういう意味では、大江氏のように頭ごなしに問いを押さえつけるのは、大人の立場からの子供や哲学者の問いへの抑圧ではないか。そういう感想を私は抱いたのだった。

 しかし、数年後に同じことを振り返ったとき、やや異なった感想をいだくようになっていた。たしかに、哲学者や学者はそういう自明性を問うことが必要である。しかし、はたして哲学はそれに答えられるのだろうか? 結局答えは与えられないのではないだろうか? そもそも「人を殺してはいけない」というような問いには、論理的に納得のいく答えなどはないのではないだろうか? それはむしろ、大江氏が言うように、理屈を越えて直観すべきものなのではないか。だとすれば、理屈をひねくりまわしてその理由を若者に教えるよりも、むしろ「人を殺してはいけない」ということが直観的に分かるような教育をしていくべきではないのだろうか? そういう社会を作るべきではないだろうか? そのような感想を持つようになっていたのである。

 子供たちは、哲学的な根源的な問いに答えをあたえることによって、「人を殺してはいけない」ことを知るのではなく、人と人とのかかかわりの中で知らず知らずのうちにそのことを直感的に身につけていくものだということは疑えない。そして「人を殺さない」という態度は常に人と接する時の基本となるはずのものであって、それをあえて「なぜ」と他者にむかって問いかけるという行為には、他者と共に生きている世界に対する挑戦的、否定的、破壊的な態度を含んでいるように思える。はたしてそのような挑戦を、哲学的に根源を問う問いと同一視するべきなのだろうか? そんな疑問を今度は逆に永井氏に対していだいた。

 永井氏は、その若者の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、「なぜ悪いことをしてはいけないか」、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」、「宇宙の果てはどこか」といった人が子供時代に抱きがちな素朴な問いと同列の問いとして扱っている。しかし、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、実は他の問いとは異なった特殊な問いではないだろうか。とりわけ、その問いに「なぜ人を殺していけいないはずがあろうか、殺してもよいのだ」という反語的な意味合いが加えられた場合にはそうである。そもそも哲学的な議論は対話によって成り立つものである。「なぜ悪いことをしてはいけないか」とか、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」とか、「宇宙の果てはどこか」といった問いは、この対話の中ではじめて意味を持つ。ところが「なぜ人(あなたを)を殺してはいけないのか(殺してもよいのではないか)」という問いは、対話の相手を抹殺する可能性を問うことによって、このような対話の場を不可能にしてしまう可能性を持った問いなのだ。大江健三郎氏は、そのことに文学者的な直観によって気づいたのではないだろうか。

 先にも述べたゼミの学生は言っていた。若者が「なぜ殺してはいけないの」という疑問をもつことは十分に分かるが、それはあのような場所では口にすべきではなかった、と。私はこの学生の言ったことに深くうなずかざるを得なかった。若者の問いかけは、永井氏が言うように、子供なら自然に抱く問いなのかも知れないし、哲学的に意味のある問いなのかも知れない。しかし、それは公共の場で口にすべき言葉ではなかった。それは単に賢く世をわたるためにという意味ではなく(それもあるが)、自分が人との関わりに置かれているという事実の中で、その人との関わりにおいて何を口にすべきか、という問題なのだ。人との関わりの中で、他者の存在があるがゆえに、私は何かを他者へと問いかけることができる。とすれば、その問いかけることの中で、私はどうして他者の存在を否定することができようか。

 以上の感想をふまえた上で、しかしやはり、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いそのものについては、われわれは答えていく必要があると思う。この問いに対して、「殺してはいけないものは殺してはいけないのだ」と押さえつけるように答えるべきではない。たしかに「人を殺してはいけない」ということは、本来直観的に分かっているべきことであり、倫理のもっとも基礎にある事柄である。しかし、様々な理由でこのような直観に揺らぎが起こることもあるだろう。そういう時には、論理でもってその直観を再び呼び戻すことも必要だと思う。直観に分かっているということは、根拠なく分かっているということではない。ちゃんと根拠はあるのだけれども、あまりにも基本的なことすぎて、その根拠が意識化されていないということだろう。「なぜ?」という問いが出てくるということは、この無意識に分かっていたことが意識化されてきたということである。であるなら、この際、徹底的に意識化させて、「人を殺してはいけない」ということがいかに根拠をもった命令であるかを確かめればよいのではないだろうか。ちょうどそれは、スランプになったバッターが、ビデオを見ながらバッティングフォームをチェックするのと同じように。

 「なぜ人を殺してはいけないか」という問い対して、どんなに説得力のある理屈を与えても、人を殺してもよい、あるいは人を殺そうと思っている人にはあまり効果はないだろう。では、そんな問いに答えることは意味がないのか? 否、それはむしろ、人を殺してはいけないことを直感的に知っている人にとっては意味があるのだ。世間で、人の命が奪われる事件が多発し、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが問われ、この問いに答えがないかのように言われる。すると、人を殺してはいけないことを直感的に知っているはずの人の心が揺らいでくる。意識しなければちゃんと出来ていたバッティングが、何かのきっかけで意識しだすとうまく出来なくなることがあるように。直観の弱さはそこにある。何も考えなくても出来るということは、なぜそれが出来るかが自分で分からないということなので、ひとたび揺らぐと脆いのだ。

 だから、「殺してはいけない」という言葉以前の直観が揺らぎ始めている時代には、われわれは、直観を何とか言葉にもたらす必要があるのではないだろうか。それは、人を殺そうと思っている人に思いとどまらせるためではなく、「人を殺してはいけない」と分かっている人が、そのことをはっきりとした言葉で意識的に理解できるようになるためである。「なぜ人を殺してはいけないのか」といったことが話題になるような時代にあっては、そのような営みも必要になるのだと思う。

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