なぜ人を殺してはいけないか(11)――野坂昭如と大石圭
レポートの採点が終わった。今年はマンモス授業があったため、約500部ものレポートを読むことになった。個人差が非常に大きく、中にはあれほどやるなと言っているのに、ネットからの剽窃を行う学生もいて、それをチェックしながらやっているとほとほと疲れた。あとは8月3日締め切りの倫理学のレポートを待つばかりだが、こちらは数が少ないし、見るのも楽しみなくらいなので、これで気持ちとしては完全に夏休み。
と言っても、われわれ研究者にとっては、やっと本業に入れるという話に過ぎない。そこのところをパーマ屋の店長はわかってない。いつも「いいですね、いいですね、休み中なにするんですか?」と言うのだ。スキュウーバーダイビングをしたり大作のプラモデルを作ったり出来ると思っているらしい。そうではないのだ、と力説したいところだが、面倒なので黙っている。まあ、カットの腕はいいんだから黙ってればちゃんと仕事をしてくれる。私もパーマ屋の店長の苦労はわからない。お互い様、それでいいのだ。
さて、倫理学の授業は終わったが、ここでの探求はつづく。ここから「現実主義的回答」に属するものに入るが、ここでは「取引タイプ」の典型的なものを紹介する。このタイプの回答は、つきつめていくと「なぜ人を殺してはいけないか」への答えにはならない。
まず作家の野坂昭如氏の回答。
人を殺してはいけないなどと、とてもぼくにはいえない。ただ「ぼく」を殺してはいけない。そして、ぼくを殺そうとする人間に対しては、ためらわず殺す。……なぜ人を殺してはいけないかという、これ以上ない愚問、問いにもなっていないことが、いい歳した大人の間でうんぬんされる、このアホらしい風潮………実にバカバカしい。人間は人間を殺す。殺すから、法律を制定し、人間が人間を殺すことにつき、いやはやさまざまな条件、状況、殺した側、殺された側の事情を斟酌、殺人者に罰を与える。
(野坂昭如 『文芸春秋』の2000年11月号、173頁)
同じように子供時代に戦争を経験しても、大江氏とは全く逆の答え方をしている。人は人を殺す、というのがその事実認識である。そして、この事実認識を前提にした上で、殺されたくない者同志が「殺してはいけない」という法律を作ったのだ。だから、「殺してはいけない」という命題の意味は、もし自分が殺されたくなければ殺してはいけない、ということになる。もしそうであれば、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという質問は、大江氏とは逆の意味で愚問だということになる。
社会契約説的なとらえ方と言えるが、それは冷たい事実認識というよりも、戦争という人を殺すことが常態であるような現実の中で、自分の身を守り、親しい者の身を守って生き抜いてきた人の実感なのだろう。一般的な答えとしては賛同できないが、なぜか共感できるところがあるのは、おそらくそれは、「自分を殺してはいけない」という言い方からわかるように、人の命一般が大切だといった抽象的な話ではなく、過酷な現実の中で自分自身がが生き抜くという観点から答えているからだろう。
だいたい同じ論点に立っていながら、全然共感できないのが次の回答だ。
結論から言おう。人は、殺してもいい。僕はそう思っている。……人は、殺してもいい。しかし僕は殺さない。たとえ殺したい人間がいたとしても、彼の背にナイフを突き立てたり、その首をしめたりはしない。なぜか?それは『殺人者には罰を』という法律があるからだ。逮捕、拘留、取り調べ、裁判、懲役刑。そんなのはゴメンだ。……人を殺すとなぜ罰せられるのか?それは、『損か得か』という問題なのだと僕は理解している。……人を殺してもいいことにすれば、自分や家族を愛する人も殺されてしまうかもしれない。それでは困る。自分の命や家族や愛する人は失いたくない。そうでしょ?だから『殺人者には罰を』という法律を人は作った。それだけのことだ。ほら、簡単でしょう?
(大石圭 『文芸』河出書房新社、1998年夏号、25頁)
こうしたシビアな答えは、知識人の回答の中には実は結構多かった。この人の場合は、一般原則としては殺してもよいのだが、実際の場面を考えた場合に、殺せば様々な「損」をこうむる、だから自分は殺さないし、ふつう人は殺さないほうが「得」であるという結論である。
野坂氏も大石氏も、互いに殺されたくないから殺さない契約を結んでいるという社会契約説的な論理は同じだが、受ける印象はずいぶんと異なる。それは、野坂氏が、「殺すな」とは言えない現実認識を苦渋に満ちて語っているのに対して、大石氏は「殺してもよい」という一般原則をいとも容易に語ってしまっているからだ。「そうでしょ?」、「ほら、簡単でしょ?」というセリフが妙に腹立たたしい。
いずれにしてもこの二つの答えは、「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えていることにはならない。「人に殺されたくないから、殺さない」という論理は、つきつめれば「殺してもよい」という論理である。「殺してはいけない」を普遍的真理のように語り、その理由を考えるなどということはバカバカしいということになる。








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