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2007-08-10

なぜ人を殺してはいけないか(12)――合田正人ほか

 人を殺すという行為が、殺される側のみならず殺す側にも決定的に破壊的な作用をもたらすことを示す答えには、先に述べた取引タイプよりももっと本質的な回答がありうる。それは、「人を殺してしまうと、結局人間のすべての営みが無意味になってしまう」というものである。

それはね、現実に人を殺すと、もう他には何もすることがなくなってしまうからだよ。それほどにも「死」というのは根本的なことなんだ。本当に殺した人、たとえば永山則夫は、「無知の涙」のノートの冒頭で、四人の人を殺したことを自分は一生涯忘れることはできないが、このノートでは「なるべくそれに触れたくない」、なぜなら「それを思い出すと、このノートは不要になるから」だと書いている。つまり、人間は結局死を可能にするために生きているのだから、殺人という形で死を「実現」してしまったら、もう何もすることがなくなってしまう、ということなんだよ。(若森栄樹 『文芸』河出書房新社、1998年夏号、24頁)

詩や小説を書くといった行為は、自分が人を殺したことを思い出すと出来なくなってしまう。詩だけではなく、たとえば恋愛だとか、家族を持つことだとか、あるい人と話したり、商売をしたり……、おおよそ人と関わるということすべてが不可能になってしまうのではないだろうか。

 このタイプの答えは、知識人の回答の中には少なくなかった。

人を殺してしまった人間は、もう人との関係を持つことが出来ないからだ。
(橋本治『文芸』河出書房新社、1998年夏号、31頁)

  人を殺せば自分の中のなにかが死ぬ。
(吉田文憲 『文芸』河出書房新社、1998年夏号、53頁

 (人を殺せば)「自分は生きていてよい」という根本感情を、私のなかで、根本的に成り立たなくさせます。
(瀬尾育生『文芸』河出書房新社、1998年夏号、31頁)

  殺すという一線を越えて得られる自由というのは、実は殺された人が得た自由と同じです。文字通りなにもないという自由。
(市田良彦 『文芸』河出書房新社、1998年夏号、32頁)

 この回答をもっとつきつめるなら、それは「倫理」の成立に関わる事態にふれる次のような回答になるだろう。

  重要なのは、人を殺してはいけない理由を知っているかどうかではない。誰かがそこにいるという単純な事実が、自分がここにいあるということに対してなしている「支え」をどこまで感知しているかだ。
(山城むつみ『文芸』河出書房新社、1998年夏号、58頁)   

 「殺してはいけない」、確かに。しかし、それは悪だからというよりは、むしろ殺害が、善/悪の規準が前提にしている<私>と他者との関係そのものを破壊するからだ。あらゆる社会関係は他者の存在を前提にしており、殺人は社会関係の可能性を奪う。
(港道隆 『文芸』河出書房新社、1998年夏号、36頁)

「人を殺すこと」は私たちが生きていて、「なぜ人を殺してはいけなか」とか議論するそのこと自体を不可能なもの、無意味なものにしてしまう行為だというのである。この答えは、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いが論理的に破綻した問いであることを明らかにしていると言える。次のような答えはその論理的破綻を論理的に表現しようとしている。

(※岩田注 誰もが同意する二つの命題を公理として置き、そこから「人を殺してもよい」という命題が無意味であることを証明するという方法。公理1「人を殺したがっている人はどこにでも必ずいる」 公理2「良い、悪い、許される……といったことは、複数の人間から成る社会制度の中でのみ意味を持つ。」)
「人を殺すことは許される」(R)と仮定する。すると公理Ⅰにより、必ず社会は崩壊する。……人間は全員死ぬかもしれん。人間が消滅すると、公理2により、「許される」って概念は意味を失う。
(三浦俊彦 小説家・精神分析家『文芸』河出書房新社、1998年夏号、39頁)

この回答は、一見社会契約説にも見えるが、最後のところが異なっている。つまり、人を殺すことが許される場合、「許される」という概念が意味を失うがゆえに、この議論が成り立たない点にポイントが置かれているのである。単に「自分が殺されるから殺さない」とか、「社会が成り立たないから殺人はいけない」という答えなら、「自分が殺されても良い」とか「社会なんか成立しなくてもよい」という場合にはどうするのかという問いが出てきてきりがない。しかし、この回答が言っているのは、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いが成立しないということである。

 「なぜ人を殺してはいけないか」という問いは、事の善し悪しを問いかけるものである。しかし、互いが殺し合い、人間が存在しなくなってしまえば、そのような事の善し悪しを議論すること自体が意味を失ってしまう。したがって、「なぜ人を殺してはけいないか」という問いはパラドクスなのである。次の回答はこの問いのパラドクスを明らかにすることで問いそのものを崩壊させてしまう。

君は誰だ、この傷だらけの仮面は。微かに悪意と性が匂う。クレタ島の嘘つきの逆説のパロディか、これは。……君が何かを尋ねるのは、自分の言葉が通じると君が思っているからだ。僕に殺されるかもしれず、僕を殺すこともできるのに、なぜ僕に問いかける。……
(合田正人『文芸』河出書房新社、1998年夏号、38頁)

ご存知のように、「クレタ島の嘘つきの逆説」というのは、「すべてのクレタ島人は嘘つきだ、と一人のクレタ島人は言った」という有名な話のことである。もし、このクレタ島人が言うように「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」ということになると、当然このクレタ島人も嘘つきだということになるため、「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」という彼の発言自体が嘘だということになる。ところが、それが嘘だということになると、今度は「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」ということは本当かも知れないことになる……。「なぜ人を殺してはいけないの」という問いも同じようなパラドクスを持っているというわけである。

 誰か他人に向かって問いかけるという行為は、相手が自分を殺さないことを前提にしている。ところが「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いは、他人に向かって問いかけつつ、その問いかけが成り立つ前提条件を疑っていることになる。人を殺すということは、人に対して何かを問いかけたり答えたりする可能性を否定することである。ところがこの問いは、そのことの是非を、あろうことか人に向かって問うているのである。「なぜ人を殺してはいけないの?」と挑発的に尋ねてくるような少年には、「君がそんなことを尋ねることが出来るのは、私が君を殺さないからだ」と答えればいいわけである。

 この合田正人氏をはじめとする意見は、「倫理」という問題についてわれわれに大変重要なことを語っている。「倫理」を「人と人との関わりの理(ことわり)」のことだとすると、「人を殺す」ということはこの関わり自体を不可能にするものである。そのときには、もはや何が正しいか何が不正であるかを考える事自体が意味を持たなくなるのだ。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、ちょうど自分のことを「好きだ」と言ってくれない女に、無理矢理言わせようとして殴りつづけ、とうとう殺してしまう男のようなものである。この何も言わなくなった死体にむかって、男は「おれのことを好きだと言ってくれ」と叫び続ける。「なぜ人を殺してはいけないの」と問いかけることは、そういう悲劇とも喜劇ともとれるような場面に似ているのではないか。このタイプの回答は、そのことを問いかけてくるように思う。

 「なぜ殺してはいけないか」とい問うた時点で、問うた方の負けなのである。それはすでに言葉によるコミュニケーションを志向している。そして言葉によるコミュニケーションは、暴力や殺人の否定を前提にしている。では、それは「殺すなら端的に殺せ」と、いうことなのだろうか。しかし、人間は端的に殺すことができない。かならず理由を探し求める。言い訳をしだす。イデオロギーを作り出す。そのことによって結局は言葉の領域に入ってくるのだ。とすれば、やはり人は人を殺してはならないということは必然なのである。

 ちなみにこれらの回答には感情論はほとんど関係なく、ひたすら論理的である。「人権」とか「命の尊さ」といった議論の余地のある言葉を使うこともない。にもかかわらず取引タイプのような何か冷たく虚無的な回答とも違って、われわれが人と関わりつつ生きている存在であることを肯定的にとらえている。さらに、現実にわれわれが人を殺さずにいるのはなぜかを考えた場合には、もっとも説得力のある答えを与えているようにも思える。もし理屈で「なぜ」と問うてくる場合には、どこまでも理屈で答えるこの回答は有効ではないかと思える。私の好みとしては、少年に「なぜ」と聴かれたら、さしあたりはこのタイプの答え方で答えたい。

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コメント

今回のカテ、『罪と罰』のラスコーリニコフの苦悩が思い起こされます。カテにドンピシャ合っているかどうかは、分かりませんが。それにしても、最近の若い人たちは、ドストエフスキーなんか読むのかなあ。もっともわれわれの世代でもすでに、ドストエフスキーを読むのは相当「変な人」系だったかもしれないですが。最近は、翻訳もずいぶん読み易そうな版が出ているようですね(私は未読ですが、本屋で見ました)。

投稿: トロウ | 2007-08-10 01:18

私の感じでは、われわれの頃と今とでそれほど変わっているようには思えませんね。読んでいる人は読んでいるし、読まないよ人は読まないといったところでしょうか。

前期に1年生に哲学系の授業をしましたが、今も昔もキルケゴールは人気が高いです。どうも『死に至る病』という題名がいいらしい。それにくらべると『罪と罰』は題名がいまいち道徳臭い感じがしてだめなんじゃないでしょうか。

でも、おもしろさから言えば『罪と罰』はエンターテイメントとしても通用するぐらいおもしろいですよね。江戸川乱歩なんかは大好きだったようです。

投稿: 桶川利夫 | 2007-08-11 22:53

はじめまして。
不躾なコメントで申し訳ありませんが、私は『神の存在証明』的な議論は、論理のすり替えをしているだけだと思います。

> しかし、人間は端的に殺すことができない。かならず理由を探し求める。言い訳をしだす。イデオロギーを作り出す。そのことによって結局は言葉の領域に入ってくるのだ。
これは、バハオーフェンの言う『父権社会』のドグマに毒された考えの様に思います。『母権社会』が戦争の無い平和な世界だと勘違いしている人もいる様ですが、『母権社会』であれば行動に「理由」や「言い訳」や「イデオロギー」や「倫理」など一切必要としません。人殺しや戦争が『悪い』と言う概念自体が存在しない為、人を殺してもそれが『悪い』事とはならないだけです。
先生の説明は『男の』屁理屈に思えます。

> 誰か他人に向かって問いかけるという行為は、相手が自分を殺さないことを前提にしている。
「言葉によるコミニケーション」によって「なぜ人を殺してはいけないの?」と質問した人にとっては、確かにパラドクスが起きるかもしれませんが、この様な人は実のところそれを否定してほしいと考えているはずです。「人を殺しても良い」と『確信』しているなら、問いかける必要などありませんから。

一方で人殺しが「言葉によるコミニケーションの拒絶」であるなら、実際に人を殺そうとしている人が「言葉によるコミニケーション」を求めている(「なぜ人を殺してはいけないの?」と質問する)事などありません。人を殺そうとする人はその時点で「言葉によるコミニケーション」を(少なくとも殺そうとする相手に対しては)既に拒絶しているのです。

# 「なぜ人を殺してはいけないの?」との質問は、
# あくまで『人を殺さない人』が発するのであって、
# 現実に殺人は起きています。

> かならず理由を探し求める。言い訳をしだす。イデオロギーを作り出す。
先生の仰る『パラドクス』は、本当は「なぜ人を殺してはいけないの?」との質問に対する物ではなく、単に「理由」や「倫理」や「イデオロギー」により「人殺しを止めさせる事が出来る」事が不可能である事を示したに過ぎません。(殺人者は「言葉によるコミニケーション」を拒絶しているから)

>  ちなみにこれらの回答には感情論はほとんど関係なく、ひたすら論理的である。
私はこの様な『神の存在証明』的な議論は、論理性を装っている分だけ極めて悪質だと考えます。

私は『神』や『真理』を説明するのに論理的である必要は無いと考えます。『神』や『真理』等は人間の理解(論理)を越えた物ではないでしょうか。
論理で説明出来るのは『陳腐』なものだけです。

投稿: minorYou | 2007-08-18 19:39

minorYouさん、コメントありがとうございます。

 最初に一つご注意いただきたいことがあります。このブログではどんな自由な発想で発言をしてくださってもいいのですが、一定の礼儀は守っていただきたいのです。たとえば「『男』の屁理屈」だとか「極めて悪質」とか言う言葉をいきなり使われると、こちらはあなたの言われることに対して心を開く気をなくします。せっかくの議論の芽がつみとられてしまいます。他のブログはどうか知りませんが、ここでは是非差し控えて下さい。

>先生の仰る『パラドクス』は、本当は「なぜ人を殺してはいけないの?」との質問に対する物ではなく、単に「理由」や「倫理」や「イデオロギー」により「人殺しを止めさせる事が出来る」事が不可能である事を示したに過ぎません。

 パラドクスは殺してはいけない理由の説明にはならないという意味なら、その通りです。パラドクスは、「なぜ人を…」という質問に矛盾があることを明らかにするにすぎません。しかし、そのことによって、誰かに対して話しかけるというごく当たり前の行為が、互いに殺し合うことをしない関係の中でこそ成り立っていることに気づかせることができます。

 当然のことですが、このような答え方が意味を持つのは、「なぜ人を殺してはいけないの?」と問う人に対してです。そして、そのような問いに対する回答を検討することがここでの議論の目的です。本当に人を殺そうとする人は、もちろん「なぜ殺しては…」などと問いかけたりしません。そういう人は「端的に殺す」か、あるいは悪いと思っていても敢えて殺すことでしょう。しかし、ここでの議論はそういう人がいることを否定しているわけではないし、ましてやそういう人に対して人殺しをやめさせることが目的なのでもありません。「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して答えることは、人を殺さないようにするためだと考える人がいるようですが、決してそうではありません。

 では何のためにそのような問いへの答えを探すのか。それは人を殺してはいけないと考えているわれわれが、そのいけないと考える根拠について考えることで、自分が他者とともに生きている関わりのありように対して意識的になるためです。私が今回の回答例に共感するのは、これらの回答が人と人との関わりが現に成立している、その成立基盤を見せてくれているように思うからです。言いかえれば、人と人との関わりとしての倫理がすでに成立しているところで、そのような倫理のあり方に対して意識的になる目的で、私は「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する様々な回答を吟味しているつもりです。

 このような吟味は、少なくとも何が正しくて何がいけないことなのかを議論できるような関係がすでに無意識のうちにでも築かれている社会においては意味がありますが、あなたのおっしゃる「母権社会」なるものが、もし本当に倫理もなく行動に理由や正当化を必要としない社会なのだとすれば、そういう社会では確かに意味のないものでしょう。というより、そういう社会には「議論」そのものが無意味です。しかし、少なくとも現代のわれわれの社会はそういう社会ではありません。だからこそ戦争や死刑の是非についても議論が成り立ちます。

 確かにわれわれの社会にも暴力はあります。暴力とは人と人との関わりのありようを破壊することであり、そもそも言葉や理屈によって相手と議論したり説得を試みたりする関係のありようを否定ないしは無視することです。しかし、われわれはそのような暴力を非本来的な態度とみなしているはずです。でないとすれば、なぜわれわれはブログを使ってことの善悪を議論をするのでしょうか。「母権社会」を持ち出してそのような社会を否定されるのなら、こんなブログで意見を書くこと自体が無意味ではないでしょうか。(もっともインターネットでの議論を、暴力の延長線上で使用する人たちがいることも確かですが)。議論によって互いに説得し合う人と人のありかたを尊ぶことを「父権社会のドクマに毒され」ていると言われるなら、私としては毒されていて大いに結構です。

 私の今回の議論は、おそらくすでに社会の中にある基本的態度を確認しているにすぎません。だから、「なぜ人を…」の問いに対して根源的に答えたことにはならないでしょう。私は実際に「なぜ殺しては…」に答える場合には、とくに相手が思春期の少年である場合には、今回のタイプの答えをしようと思いますが、それが究極の答えだと考えているわけではありません。そのような究極の答えを出すためにこんな議論をやっているのではないのです。ただ、答えなどはないと言い切ってしまう前に、様々な答えの可能性を検討しておくことには大いに意味があるし、そのプロセスをはしょってはいけないと考えているだけです。

>私は『神』や『真理』を説明するのに論理的である必要は無いと考えます。『神』や『真理』等は人間の理解(論理)を越えた物ではないでしょうか。論理で説明出来るのは『陳腐』なものだけです。

 私は「神の存在証明」などしているつもりはないし、「神」や「真理」を論理的に説明しようとしているつもりもありません。私は、「なぜ人を…」というような問いには、宗教的・形而上学的な次元を持ち出さなければ究極的には答えることは出来ないのだと思っていますが、今のところそういう答え方はすべて括弧に入れて議論しているつもりです。

 そういう意味で、神や真理は論理を越えたものだということには同意しますが、それは論理を軽んじて良いということではないと考えます。したがって、「『神』や『真理』を説明するのに論理的である必要は無い」という意見には反対です。「論理で説明できるのは『陳腐』なものだけ」というのはそうなのでしょう。しかし私は『陳腐』なことを決して軽蔑すべきだとは思いません。たとえば人と人とが殺し合わないからこそ話し合えるということは陳腐な事実でありかつ大変尊い事実だと思います。陳腐なことについて可能な限り論理的に考えることをしないまま、論理を越えた「神」や「真理」を云々することは危険なことのように思います。

投稿: 桶川利夫 | 2007-08-20 09:55

ご回答ありがとうございます。

> 「『男』の屁理屈」だとか「極めて悪質」とか言う言葉をいきなり使われると、こちらはあなたの言われることに対して心を開く気をなくします。
失礼しました。
「『男』の屁理屈」とは「父権社会のドグマを前提にしている」 事で、「極めて悪質」とは「論理的でないものを論理的と主張」する事です。 反証可能性を持たせているので、一方的な悪口では無いと考えている点はご理解下さい。気分を害されたのだとすれば、本意ではありませんので謝罪します。

> ちなみにこれらの回答には感情論はほとんど関係なく、ひたすら論理的である。
私が問題にしているのは、この事です。
これさえ書かれていなければ、わざわざ他人のブログにコメントなどしませんでした。

# 論理的では無いものを論理的であると『思い込ませる』事は『極めて悪質』です。
これに関しては同意頂けると思います。

> 「母権社会」を持ち出してそのような社会を否定されるのなら、
果たして「論理」と言うのは、社会や文化によって結論が変わるものなのでしょうか。先生の理屈は本当に『論理的』なのですか?


> 論理を越えた「神」や「真理」を云々することは危険なことのように思います。
私は先生とは逆の考えです。『論理』のみで「神」や「真理」が説明出来るとの考えには反対です。『論理』以外を許容した時点でそれは『論理』では無いのです。

> 『陳腐』なことを決して軽蔑すべきだとは思いません。
私も同意見です。

> 「なぜ殺しては…」に答える場合には、とくに相手が思春期の少年である場合には、今回のタイプの答えをしようと思いますが、
質問に答える前に、なぜこの様な質問を発するか考えるべきだと思います。もしかすると『ただ単にふと疑問に思った』だけかもしれません。その場合には「どうしてだと思う?」と考えを促す事が有効かもしれません。

逆に相当思いつめて質問している場合もあるでしょう。その場合は『誰かを殺したいとの衝動を止めてほしい』とのSOSかもしれません。その時は、かけがえの無いその人の為だけに自分の身を削った自身の言葉で語ってあげる事こそが大切だと思います。これは別に論理的である必要は無いと考えます。当人が納得出来さえすれば充分なのですから。むしろ先生の「人を殺してはいけない!」との強い想いを伝える事が最も心に響くと思います。
別のアプローチとして正面から質問に答えるのではなく「何かあったの?」とそこまで思いつめるに至った悩みを聞く事も必要かもしれません。

では、先生の『論理的な説明』は、一体どの様な場合に有効なのでしょうか?
『ただ単にふと疑問に思った』場合には、折角の疑問に対して考える機会を奪う事になりますし、『誰かを殺したいとの衝動を止めてほしい』場合には、きっと『突き放された』と感じるでしょう。当人が『実際に』悩んでいる事を『理屈』で否定して見せる事に何の意味があるでしょうか?
先生は別なのかもしれませんが、実はこの質問について正面からきちんと答えられる人などいないと思います。 本当は出来ない事を『出来る!』と主張する人を思春期の少年は目ざとく見分けますから、この種の説明は有害無益だとしか思えません。むしろ「実は先生も判らないんだ。一緒に考えよう」と、言葉のコミニケーションの場に引き留めておく事の方が大切に思います。私には先生の『論理的な説明』が有効である場面が思い浮かびません。


> たとえば人と人とが殺し合わないからこそ話し合えるということは陳腐な事実でありかつ大変尊い事実だと思います。
私も、少なくとも「『殺し合う』前に『話し合う』事が出来る」これこそ人類最大の希望だと思っています。私には先生の『理屈』が『話し合う』とか『分かり合う』とはほど遠い様に思えたのです。

理屈とは、誰かが一度でも証明してみせればそれは『真理』となり、二度目以降の証明は不要となる類のものです。もし先生の理屈が本当に論理的なものなのだとしたら、「お前は間違っている。『人を殺してはいけない』事は証明済みだ!」で終わってしまいます。私は「話し合い」と言うのの本質はその結論ではなく、言葉のコミニケーションを通じてお互いに分かり合うと言う『過程』にあると考えます。

もし先生の『理屈』が少年達に有効なのだとしたら、それはきっと「先生の『理屈』が正しい」からではなく、出鱈目な理屈を捏ねてまで自分を説得してくれる「先生の『熱意』に感激した」のだと私は考えます。

投稿: minorYou | 2007-08-21 02:53

 私の書いた記事は、「なぜ人を殺してはいけないか」というカテゴリーで書いている続きものの一部で、まだ途中ですし、完結をめざしているものでもありません。ここのところ数回は、様々な回答を紹介し、それに対してそのつどコメントを加えていくという形式を取ってきました。そもそもこの問いに対して何か決定的な答えを与えることを目的にしているのでないことは、すでに述べたとおりです。minorYouさんの問いは私の文章の趣旨を理解して下さった上でのコメントなのか疑問で、建設的な議論になりそうもないので、回答はこれで最後とさせていただきます。

 まず、コメントの後半部で長々と書いて下さっていることは余計なお世話です。私は教育心理学とかカウンセリングの問題を議論しているのではありません。子供とコミュニケーションがとれなくて相談を持ちかけているわけでもありません。現実に一人の少年が「なぜ人を…」と問う場合にはきわめて様々な状況がありうるのであって、それに対してどう答えるかは私と彼との個人的な関係性の中での問題であり、私のそのつどの実存的な決断の問題です。その時になって見ないと本当にどう答えるかは分からないし、はじめから「有効性」を保証された答えなどあえません。今ここでそんな「有効性」を議論しているのではありません。「質問に答える前に、なぜこの様な質問を発するか考えるべきだと思います」などということはあたりまえのことであって、そういうことをもっともらしくここで言い出すことこそ「論理のすり替え」であり、議論の相手を不利に見せるためのレトリックです。

 また「このタイプの答えをしようと思う」と述べたところだけをあなたが抜き出すと、私がまるでこの答えで行くべきだと積極的に主張しているかのように見えるし、そう見せかけることがあなたの意図なのかも知れませんが、実際にはそれは次のような文脈で言ったものです。

>私は実際に「なぜ殺しては…」に答える場合には、とくに相手が思春期の少年である場合には、今回のタイプの答えをしようと思いますが、それが究極の答えだと考えているわけではありません。そのような究極の答えを出すためにこんな議論をやっているのではないのです。ただ、答えなどはないと言い切ってしまう前に、様々な答えの可能性を検討しておくことには大いに意味があるし、そのプロセスをはしょってはいけないと考えているだけです。

あなたが言葉尻をとらえて非難していることは明らかです。

 次に、コメントの前半部分ですが、あなたの批判の中心は、「これらの回答には感情論はほとんど関係なく、ひたすら論理的である」という私の文章に対してのものだそうです。そして、「論理的では無いものを論理的であると『思い込ませる』事は『極めて悪質』です」と非難されるのですが、私が紹介したタイプの回答がどう論理的でないのかをあなたは結局説明されていません。私は論理的でないものを論理的であると思い込ませているつもりは全くないので、この非難は全く理解できません。

 なお、前回のコメントではむしろ、私が論理的に回答する事自体を批判されていたように思いますが、私は論理的に回答しなければならないと主張しているわけではありません。以前の記事「なぜ人を殺してはいけないか(8)――田口ランディ」で感情論による説明を紹介し、それがなかなか説得力のある答えであるとも書いています。ただし、今回のタイプの回答はそうではなくどこまでも理屈で答えるものだということを言っているのです。理屈によってのみ説明しなければならないなどと言っていないことは、ちゃんと読めば誰でも分かるはずです。

 「『母権社会』を持ち出してそのような社会を否定されるのなら、こんなブログで意見を書くこと自体が無意味ではないでしょうか」という私の問いに対して、「果たして『論理』と言うのは、社会や文化によって結論が変わるものなのでしょうか」という批判をされるのも全く意味不明です。それは文脈上こちらの言うべきセリフです。「父権社会」対「母権社会」の図式を持ち出したのはあなたですよ。私は「論理」という言葉で基本的には社会や文化によって結論が変わらないものを考えています。ところが、あなたは論理など通用しない世界があると言われる。しかも過去にそれがあったというだけでなく、現代においてもそういう世界が復権すべきであると主張しているように思えます。これは私の誤解かも知れませんが、あなたの文章を読めばそう誤解されていも仕方がありません。

 あなたは私の文章から「 論理を越えた『神』や『真理』を云々することは危険なことのように思います」という部分だけを抜き出して、「私は先生とは逆の考えです。『論理』のみで『神』や『真理』が説明出来るとの考えには反対です。『論理』以外を許容した時点でそれは『論理』では無いのです」と書かれています。しかし実際の私の文章の文脈は次のようなものです。

>陳腐なことについて可能な限り論理的に考えることをしないまま、論理を越えた「神」や「真理」を云々することは危険なことのように思います。

人の文章を勝手に切り取って意図的に意味を変えてしまうことこそ「悪質」ではないでしょうか。

 どこで私が「論理のみで神や真理を説明出来る」などと言っているでしょうか。「神」や「真理」という言葉はあなたが持ち出してきたものです。論理性と神の関係の問題はそう簡単に議論出来るような問題ではなく、やるならもっときちんとやる必要があります。しかし、あなたがそういう問題を真剣に議論しよう考えておられるとは到底思えませんので、これ以上述べません。

 ようするに、あなたはわたしの話などはじめから何も理解する気がなく、ただあなたが抱いている何か私のあずかり知らない事柄への批判を、私の議論(しかもその言葉尻)の中に強引に読み込み、勝手に非難しているだけです。これは非難される方にとっては大変迷惑です。2チャンネル的な議論もゲームとして楽しむ分には否定しませんし、ブログをそういう議論に使うこともそれぞれ勝手に楽しんでもらいたいと思いますが、ここはそういうブログではありませんし、私はそういうゲームに関わりたくありません。このブログと研究会の方針については、「研究会について」というカテゴリーを読んでいただければご理解いただけると思います。

以上。

投稿: 桶川利夫 | 2007-08-21 16:03

これが最後のコメントになります。

> minorYouさんの問いは私の文章の趣旨を理解して下さった上でのコメントなのか疑問で、建設的な議論になりそうもないので、回答はこれで最後とさせていただきます。
先生の『趣旨』(と言うよりは『主張』)を理解せずにコメントしているとするなら、それは私の不徳の致す所です。しかしながら先生は私が一方的に先生を陥れようと悪意を持ってのコメントしていると誤解されている様に思います。私にはその様な意図はありません。
ただ一つ
> ちなみにこれらの回答には感情論はほとんど関係なく、ひたすら論理的である。
これだけが引っかかったのです。

ここからは、私がなぜこの様なコメントを書いたのかについて『のみ』説明致します。
私はこのエントリを読んで「論理的ではないな」と思いました。(これはあくまで私の感想であり、事実であるかどうかは別です)
そこに「ちなみにこれらの回答には感情論はほとんど関係なく、ひたすら論理的である。」との記述があり、
# 論理的では無いものを論理的であると『思い込ませる』事は『極めて悪質』です。
と常々考えておりましたので、「不躾なコメントで申し訳ありませんが、私は『神の存在証明』的な議論は、論理のすり替えをしているだけだと思います。」で始まるコメントを書くに至りました。

私の主張は以下の様になります。
(a)「先生の主張は『論理的では無い』」
(b)「『論理的では無い』ものを論理的だと思い込ませる事は極めて悪質」
これはきわめてシンプルな三段論法にあたります。
もちろんこれらを立証する責任は先生ではなく、私にあります。

先生は『神の存在証明』との文言について拘っておられますが、私も「神の存在証明『的』」と『的』と記している様に先生が神の存在証明をしているとは主張していません。
なぜこの様な言葉を敢えて出したのかと申しますと、あくまで私の考えとして先生の論理展開が『神の存在証明』に似ていると思ったからです。私の考える『神の存在証明』と言うものは、『方便』としてのみ意味を持ちます。『神の存在証明』が「論理的」であるとの主張については反対の立場ですが、『神の存在証明』の意味が無いとの主張をするつもりはありません。少なくとも『方便』として必要な局面が存在すると考えるからです。
先生にしつこく「どの様な場面で使うのか」と問い質したのはこの為です。先生の回答次第では「その様な場合なら(b)が否定されるかもしれない」となり得ます。


次に「母権社会」についてですが、私はこれから「母権社会」に戻るとは考えていませんし、そうなるべきだとも思っていません。(過去において「母権社会」が存在していたかさえ『仮説』の域を出ないのです)ではなぜ「母権社会」を持ち出したのかと言えば、先生の主張が現在の価値観を前提に行われている様に思えたからです(「男の屁理屈」とはこの事です)。
違った価値観で成立しないのなら少なくとも先生の主張が論理的である為には「現在の価値観を前提とすれば」との但し書きが付く事になります。
この前提が付けば、少なくとも先生の主張は「論理的ではない」とはなりませんから、(a)が成立しない事になります。
ただ、「現在の価値観を前提とすれば」とするなら、難しい理屈を述べるまでもなく「人殺しはいけない」これはまさに「現在の価値観」でしょう。
もしこの前提を付けないとするなら「未来永劫少なくとも該当する部分の価値観は変わらない」と先生の側で立証する必要があります。
もしこれが可能であるなら「(a)論理的では無い」が否定されますから、これも私の主張が誤りである事になります。

> 「神」や「真理」という言葉はあなたが持ち出してきたものです。
その通りです。実はこれは今回の議論とは無関係な事項です。ただ私はこれを書かずにはいられなかったのです。私の最初のコメントで最後の段落、
# 私は『神』や『真理』を説明するのに論理的である必要は無いと考えます。
以降を書かずに終わらせると「(理屈で)「人殺しを止めさせる事が出来る」事が不可能である」と、何か殺伐とした主張になってしまいます。そこで「理屈が全てではない」との段落を設けたのです。
確かにこれは軽率だったかもしれません。

先生同様私も「なぜ人を殺してはいけないか」との回答が必ずしも論理的である必要は無いと考えています。私が何度も「論理的である必要は無い」と繰り返すのは、先生が「論理的でなければならない」と主張していると理解しているからではなく、私が「論理的である必要は無い」と思っているにも関わらず「先生の主張は (a)論理的では無い」と一見矛盾している様な批判をしている事によります。私が主張しているのは、
「論理的であると主張する以上、論理的でなければならない」この事です。

話し合いで理解し合うと言う事は、難しいですね。
戦争や殺し合いを回避すると言う事は、全ての人々が私のような人間とも理解し合えるだけの忍耐を必要とします。
「あいつは俺様の高貴な考えを理解出来ないから相手にしない」
この様に考える限り、殺し合いは無くならないかもしれません。
言葉でのコミュニケーションを断ち切るのは殺人者の側だけでは無いのです。
(注意:私は人を殺したりしませんから、これは脅しなどではありません)

お付き合い下さり、ありがとうございました。

minorYou

投稿: minorYou | 2007-08-26 09:49

こんにちは。白頭庵です。

今日、私の勤め先の名古屋市内で忌まわしい強盗殺人事件が起きたという報道を目にしました。身近なところで起きた凶悪な犯罪に、ぞっと背筋が冷たくなりました。

互いに実名も知らない3人の男が、市街地のど真ん中の路上で女性を拉致して現金を奪い、さらに殺害して遺体を山中に捨てたという報道です。3人は、犯罪仲間を募る携帯電話のサイトを通して知り合ったそうです。

容疑者たちは「弱い女性ならやりやすいと思い、たまたま通りかかった女性を狙った。顔を見られたので殺した」と供述しているそうです。

そんな報道を前にして、桶川さんのこの連載が問いかけていることの重要性を改めて痛感します。

桶川さんは、上の記事の前半で、「人を殺してしまった人間は、もう人との関係をもつことが出来ない」といった議論を紹介しながら、「人を殺してしまうと、結局人間のすべての営みが無意味になってしまう」と述べておられます。まったく異論はありません。
「人が人であること」を、自他ともに否定してまう行為が殺人だというのは、そのとおりだと思います。自分が生きるために他者を殺すとか、金銭のために他者を殺すというのは、他者が人間として生きるということそのものを否定し、そのことによって自分自身が人間であることをも否定してしまうような行為です。
そのような行為の果てには、トロウさんがおっしゃるように、ラスコーリニコフが置かれた矛盾や葛藤が起こるかもしれません。少なくとも、今回の事件の犯人たちには、今後の人生を通してそうした葛藤を経験しながら、人間が生きているということの意味やとりかえしのつかないことをしてしまった自己自身、そして被害者とその関係者たちの生と死を真剣に見つめてほしいと思います。

桶川さんの記事の前半の議論は、人間が他者との関係においてはじめて自己自身になる存在であること、そのような関係性のなかではじめて人間の存在あるいは人間の営みに意味が生じること、そして、殺人はそのような関係性と意味や価値の実現の可能性を否定するものであることを前提にしてなされています。

後半では、殺人が関係性の否定であり、したがって人間存在の意味の否定であるという前半の議論を受けながら、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いそのものが、関係性あるいは対話的なコミュニケーションのなかではじめて成立すること、しかもそのような関係性やコミュニケーションを否定するような契機を含んだ問いであることが指摘されています。

前半の議論と、後半の議論とは、明らかに違った層で展開されています。
後半の議論では、人間が関係存在であるという前半の議論を踏まえながら、「なぜ人を殺してはいけいなのか」という問いの論理性について考察・紹介されています。そして、そのような問いかけそのものが、ラッセルのパラドクスにも似た自己言及的な矛盾、コミュニケーション上の矛盾をはらんでいると指摘されています。その議論も、なるほどと思います。

前半の議論は、「なぜ人を殺してはいけないか」について、関係論あるいは意味論のレベルで人間のあり方を再認識させつつ答えを探る議論であり、後半の議論は、「なぜ人を殺してはいけないかと問うこと」の論理的妥当性を問う議論であるように思えます。そして、後者は前者の議論を前提にしてこそ考察することができのだと思えます。

逆にいえば、意味論や関係論など、議論の余地の多い領域を前提にしながらも、そこから、くっきりした論理的な構成をもつ議論が出てきたところに、今回の記事の主眼点があるということを感じました。

今、あのような陰惨な事件が起きているこの社会では、桶川さんが前半の議論で紹介された「人間は関係存在である」とか「人間は意味に関わる存在である」といった認識そのものが、自明のことではなくなりつつあるように思われます。この認識が希薄になると、それを前提にした後半の議論もまた、説得力がなくなってしまうように思われます。

論理的思考の能力と、その前提となる人間存在の意味の自覚との両方が必要だと痛感します。

桶川さんも認めておられるように、この連載での議論は、そのまま殺人行為を止めるような直接的で実効的な力をもつことはないのかもしれません。けれど、このような事件が起こってきている社会だからこそ、論理的な議論と、人間存在の意味を自覚し直すような議論との両方が、地道に行われる必要があると思います。

次に桶川さんがどのような議論を紹介されるのか、とても興味があります。しかし一方で、ここでなされた二つの議論、つまり意味論あるいは関係論の考察と、問いの論理性の吟味について、さらに掘り下げていただければ、とも思っています。

投稿: 白頭庵 | 2007-08-27 11:11

 白頭庵さん、貴重なコメントありがとうございます。桶川です。深く考えさせらたので、お返事が遅くなりました。

 おっしゃるとおり、前半の回答群と後半の回答群とは異なった性格のもののように思います。(以下、前半をAと後半をBと呼ぶことにします)。白頭庵さんは、Aが前提となってはじめてBが意味を持つと解釈されました。それは、「人間は関係存在である」とか「人間は意味に関わる存在である」といった認識(a)が前提となって、そうである以上「なぜ人を殺してはいけないか」と問うことは矛盾だという認識(b)が出てくるという意味だと理解しました。そして、今日のように a の認識が自明ではないように見える社会では、 b のような議論は説得力を持たない……と。

 白頭庵さんのおっしゃることそのものはよく分かるのですが、これらの回答の解釈について言えば、私はちょっとちがった風に受け止めました。私の考えでは、両者の違いは答えの内容ではなく答え方にあります。Aが問いに対して正面から答えを与えようとするのに対して、Bは問いのパラドクスを指摘することで問い自体を崩壊させるという形をとります。しかし両者は内容的には同じ事態を明らかにしようとしているように思えるのです。BはAが記述した事態を、今まさに質問者と自分との対話の中で演じて見せていると言えるのではないか、と。

 Aが記述しBが演じてみせた事態とは、次のようなことでしょう。すなわち、①他者との関係性の中でのみ人間の有意味な活動が可能である。②ところが、殺人はそのような関係性を断ち切ってしまう行為である。③もし人が、他者との関係性や有意味な生を望むなら、他者を殺してはいけない。

 この推論は、結局「他者と関わり、有意味な生を送ることを望む」という条件の中で「殺してはいけない」ということを導き出しているにすぎません。ですから、この結論を導くために、「人間は関係存在である」とか「人間は意味に関わる存在である」といった認識の当否自体は問題にならないはずです。そのかわり、有意味な生を望まず、他者との関係を持とうと思わない人には、殺してはいけないとは言えないわけです。

 それで問題になってくるのは、そのような人が本当にいるのかという問題でしょう。ここで話は、白頭庵さんがご指摘下さった犯罪をめぐる今日の状況と接続します。殺人を犯してしまう人のすべてではないにしても、その一部は、自ら関係存在であること、意味を求める存在であることを否定しているかに見える。上のような答えでは、そういう人が殺人を犯すことを否定出来ないので、そんな答えは今日の状況には役に立たないように思えてきます。

 私は最初の記事で、そのような人は基本的にはいないのではないかという立場をとりましたが、その点が私の議論の大きなネックになっているように思います。殺人を犯した自分の立場を何らかの形で弁護するような人は、自ら関係存在であり、意味を求める存在であることを暗に認めています。しかし、殺人を犯しても何も言い訳せず、早く死刑にしてください、と言う人も確かにいます。最近の犯罪が昔と異なるのは、そういったタイプの犯罪者が多くなっているように見えるということかも知れません。しかし、これについて考えるためには、個々の例をよく見る必要があるし、白頭庵さんが言われる「意味論や関係論など議論の余地の多い領域」についての議論も必要になってくると思います。

 仮にそういう人たちが本当にいるのだとすれば、それは今回の回答でカバーできる範囲を越えているように思います。「なぜ…」という問いに対する答えは、少なくとも「なぜ…」と問いうる人がそこにいることを前提としているので、そうした想定をする必要がないわけですが、今のような社会状況の中でだからこそ、「なぜ人を…」という問いが社会問題にまでなるのだということを考えると、そういう状況を想定外とする答え方にどれほど意味のあるものか疑わしいというのはよく分かります。

 現代の倫理をめぐる問題に関わるためには、社会学、心理学、精神病理学、教育学など、人間の事実的な状況をめぐる考察に踏み込んでいかなければならないと思います。実際、1997年の神戸の小学生殺傷事件の時には、そうした観点から事件の社会的背景の分析、精神病理学的な診断、教育学的な処方箋が検討されました。それを通して浮き上がってきたのは、若者たちが置かれている社会の劇的な変化であり、そこから生まれてくる彼らの行動のとらえがたさでした。2001年に今回紹介した様々な回答を読んだ時には、そのような状況の中でこうした回答がどれほどの意味をもつのか大いに疑問を感じました。私は当時の授業の中で、全ての人を納得させる答えなどないことを説明する事例として、これらの回答を使ったくらいです。

 ただ、年が経つにつれてこれらの回答が実は貴重な洞察を述べていると感じるようになりました。たとえば今回の回答も、「殺してはいけない」ことの自明性を説明するどころか、「殺してはいけない」という自明に見える命令が、実は意味や関係性への意識的・無意識的な同意が成り立った社会でのみ自明であるに過ぎないということを証明してしまっているわけですが、しかしそのことは逆に、そのような意識的・無意識的な同意がいかに重要であるかということを語っていると私は考えています。ありふれた日常性の中で、われわれは非常に大切な根本的な共通の認識を育てているのだということを。劇的に変化する社会の分析も大切ですが、それらはしばしば時代を通じて持続するそうした共通の認識を軽視する傾向にあります。変化の中に変わらないものを見いだすこと(たとえそれが平凡なものに見えようと)は、きわめて重要ではないかと思うようになったのです。

 ところで、今回の回答が説得力に欠ける根本的な理由も同じところにある気がします。それは、これらの回答はあたりまえのことを論理的に整理したにすぎないということです。それは分析的であって綜合的ではないということになりましょうか。そこにはすでにわれわれが知っていることが整理されて語られているばかりで、新たな洞察というものが何もないのです。(先に述べたように、それは貴重なことでもあるわけですが)。

 では、説得力のある回答をするためには、綜合的な回答に踏み込むべなのだろうか? そこで、私はこう考えるのです。人の生き死にに関わるようないわば究極的な問題に関して、分析的な判断を越えた綜合的な判断を示そうとすれば、それはどうしても形而上学(この言葉がふさわしいか分かりませんが)の領域に踏み込まざるを得なくなるのではないか、言いかえればそれは神学にならざるを得ないのではないか、と。

 しかし形而上学や神学が必要だということは分かっても、それが伝統的な形而上学や神学の復権を意味するのかというともちろんそう簡単ではないはずです。 そこに現代の思想的な課題があるわけですから。白頭庵さんはホワイトヘッドを手引きにそのような未踏の領域に入り込んで行かれているという印象を持ちます。私の今やっていることなどは、そのずっと手前のことに過ぎないだろうと思います。しかし、私もやがては白頭庵さんのところにまで出かけていかなければならないと思います。

投稿: 桶川利夫 | 2007-08-30 10:24

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