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2007-10-01

なぜ人を殺してはいけないか(13)――永井均

 さて、一通り知識人の回答を紹介してきたが、まだ紹介していない重要人物があった。哲学者・永井均氏だ。こんな問いは問うべきではないという大江氏の見解を批判した永井氏が、自分ではどんな答えを持っているのか興味のわくところである。氏は、小泉義之氏との共著『なぜ人を殺してはいけないのか』(河出書房新社,1998年、77-94頁)の中でこの問いに簡潔に答えている。この回答は当然彼の哲学と深い関係にあると思うが、そのことまで考慮すると大変面倒な話になるので、とりあえず以下ではこの文章に現れている限りでの彼の回答をまとめてみよう。

 まず彼は、人を殺してはいけないというのが正しいのは、次のような世界でだけであるとする。
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世界の中に複数の人物たちがいる。仮にこの中で人を殺してもいいと思っている人がいても、誰も自分が死にたくないから「殺してはいけない」という契約にサインするだろう。このような世界では「人を殺してはいけない」というのは正しい。つまり、世界がこのようなものであるなら、答えは「人を殺すと自分も殺されるから、互いに殺してはいけない」ということになる。われわれの類型で言えば、「取引」タイプないしは「契約」タイプである。

 しかし実際には世界とは上のようなものとしてあるのではなく、次のようなものとしてある。

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 つまり、世界というのは<私>という特定の視点から開けている。しかもそれは<N>という人間の視点である。世界は実際にはこのようあり方でしか存在しない。そして、世界がこのようなあり方をしているとすれば、<私>(N)にはしてはならないことは何もない。したがって、人を殺してもよいのである。ただ、他の人たちは<私>を殺してはいけない。<私>を殺してしまうと、この世界は終わってしまい、私を殺した人も消失してしまうからだ。

 さて、ここまでの主張は、永井氏の哲学的な立場である独我論の立場から出てくるものであろう。つまり、「世界」というのは常に「私の世界」であって、それ以前に「世界そのもの」といったものは存在しないという立場である。こうした独我論的な見方については哲学上の難しい問題があろうが、私が興味を持つのは、仮にこのような独我論的な考え方が出来るとして、そこから先の永井氏の思考の展開がどうなるかということである。

 永井氏は、この「私は人を殺してもいいのだが、誰も私は殺してはいけない」という命題を他者に伝えようとするとき、この命題が逆転してしまうと言う。

私が他者に向かって、きみは人を殺してもよいのだ、と呼びかけるとき、そのきみだけが、私が殺してはならないものなのである。つまり、他者に対して、「これはきみの世界なのだよ」と呼びかけるとき、そのときはじめて、私はきみを殺してはならない立場に立つのだ。私は、そのときだけ、その人の人生を手放しで肯定している。きみは何をしてもよい。人を殺してもよい、私を殺してもよい。そうであるからこそ、きみは殺されてはならない、だから私はきみを殺してはならない。私はそう言いたいのだ。(永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか』河出書房新社、90-91頁)

要するに、永井氏の思考の展開をまとめると次のようになる。

①私は誰を殺してもよいが、誰も私を殺してはいけない。なぜなら、私を殺すと、世界は消滅するからだ。
②ところが、なぜか私はこののことを口に出して言う。ということはつまりそのことを他者に伝えようとする。
③それは、「あなたは誰を殺してもよいが、あなたは殺されてはならない」ということを伝えることになる。
④すると、その時、「わたしはあなたを殺してはならない」ことになる。

最初の「誰でも殺してもよい」という論理は、それを他者に伝えようとすると、最後には「わたしはあなたを殺してはいけない」という論理に変わってしまう。その転換点は、その論理を他者に伝えようとする瞬間にある。私は誰を殺すのも自由なのだが、そのことを人に知らせようとすると、私はその人を殺せなくなってしまう。

 問題はこの②「なぜか私はこのことを口に出して言う」というところにある。独我論には、「私の世界は私だけのもので、他人にいくら説明したって分からない」という主張が含まれる。とすれば、他人に何かを言うということは意味のないことになる。ところが、永井氏は次のように書いているのだ。

……だから私はこの議論を他人に向かっては語らないはずなのだ。だが、ときに私は、人に向かってそのことを語りたくなる。きみは人を殺しても何をしても、いいのだと、どうしても言いたくなってしまうのだ。あまりにも図1のような世界像を自明視して、そのような世界で成り立つ規範を金科玉条のごとく信じている人には、そんなものに縛られなくてもいいのだ、なぜならこれはきみの世界なのだから、と言いたくなってしまうのだ。つまり、きみは世界そのものの主体なのだ、という説教(ふつうとは逆向きの説教)をしたくなるのだ。これは、もちろん自己破壊的な説教だし、そもそも事実に反しているはずなのだが。(同上、88頁)

 なぜ「言いたくなってしまう」のだろうか。永井氏はその理由を説明していない。しかしそれは、「独我論」と言えども「論」である以上は他者を必要としているからではないだろうか。仮に永井氏のようなおしゃべり好きな哲学者ではなく、人嫌いの独我論者が自分一人で黙って考えていていたとする。しかしそれでも独我「論」という「論理」を頭に描いている時点で、それは潜在的に他者を必要としている。たとえ「人を殺してもよい」というような議論であっても、それを論として立てる限りは結局は「人を殺してはならない」という結論に達することを、永井氏の議論は示しているように思われる。

 もし永井氏の議論をこのように解釈することが可能なら、この回答は先に取り上げた合田氏らの答えに近づく。合田氏は、「なぜ人を殺してはいけないの」と人に尋ねている地点で、その人は他者を必要としていると示唆したが、永井氏は「人を殺してもいいんだよ」と他者に教えようとするまさにそのとき、自分はその人を殺せなくなると言っているのである。両者の答えはどちらも、人が他者との関わりを必要としていること、そしてわたしが人を殺すことはこの他者との関係を断ち切ることになるから、人を殺すことは出来ないということを主張しているわけである。

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コメント

コメントが遅くなりました。

永井氏の議論には、現代社会に訴えるものがあるのでしょうか。きっと、あるんでしょうね。

それが、とても寂しく思えます。独我論なのに、独我論に留まりきれない弱さを感じます。桶川氏が、永井氏の論理の転換点と呼んでいる箇所には、独我論から出発したはずなのに、それを貫けなくなって相互性へと転換してしまうところには、論理ではなく、情緒的な作用があるように感じます。その情緒が、優しさなのか、弱さなのか、はたまた殺人は悪だと金科玉条のように信じている生真面目な人への苛立ちなのか、わかりませんが。

倫理は、そういう情緒的なもののうちでこそ働く、ということでしょうか。
永井氏の独我論→相互性という転換に共感する人が多いとすれば、きっと、寂しくて弱っている人たちなんだろうなあと思ってしまいます。

投稿: 白頭庵 | 2007-10-26 22:18

すいません。最近あまり長いこと更新していなかったので、コメントいただいていることに気づきませんでした。

そうですか。僕は永井さんの議論が「なぜか私はこのことを口に出して言う」といった曖昧な形ではありますが、大きく転換するところに共感したわけですが、白頭庵さんはそこに弱さとか情緒性を感じられるわけですね。永井さんがこの「なぜか」の部分をちゃんと説明していない以上、それはまあ情緒性というふうにもとれるのかも知れません。

ただ私は、永井さんは論理的につきつめていったけど最後は論理的に破綻して、他者を求める感情が前に出てきてしまった、とはあまり思わないんですね。まあ、彼がどうかということは分かりませんが…。わたしは「なぜか口に出して言う」理由は明らかだろうと思います。それは論理というものは他者を前提としているからです。他者がいなければ論理的に説明する必要がない。独我論が論として自己主張する以上、それは論理的には成立しないという風に受け取ったわけです。

まあ、私自身は三段論法ぐらいが関の山で、5分と論理的な思考を続けられないような人間ですから、こういう議論そのものが実は非常に情緒的なのかも知れません。

それにしても、そろそろ更新しなきゃと思うのですが、どうも筆、というかキーが重い。私もそろそろ鬱でしょうか。

投稿: 桶川利夫 | 2007-11-01 00:49

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