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2008-02-21

月夜の濱邊

 詩はあまり読まない方だ。しかし、中原中也は若い頃よく読んだ。よく口ずさんだというべきか。たとえば一人で一日中勉強をしていると、なぜかこんな歌が心にしみる。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが

   月に向つてそれは抛れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

小六の娘がこれを選んだ。卒業前にクラス全員で詩を読む会が催されることになり、何の詩を読むのかみんなで決めるので家にある詩集をもってこいということだったらしい。翌日実際に詩集を持ってきたのは娘だけで、それが「中原中也詩集」(角川文庫)と「宮沢賢治詩集」(岩波文庫)だった。その中で何にするかとクラスメートたちから聞かれて選んだのがこの「月夜の濱邊」であった。

 わが娘ながらよくぞ選んだ。小学校を卒業する子どもたちが声を合わせて朗読する時、その言葉が「月夜の濱邊」であることを想像すると、この世を生きていることもちょっとばかり楽しくなってくる。

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2008-02-19

寒さの夜には湯たんぽを

 遂に、すべての採点作業が終わった。寒い部屋での作業にあたってはしばしば指先がこおった。そんな寒い夜になると人は暖かさを求める。 「鍋」を連呼していた人もいたが、私の今の気分としては鍋よりも湯たんぽだ。

 先日の毎日新聞によると世間でも湯たんぽが売れているとのこと228_2880_5だが、 私は今回湯たんぽがわりに写真のようなものを使った。中にお湯を入れて手で握ったりポケットに入れたりして暖をとる。これまではよく卓上の電気スタンドの電球を握ったりしていたものだが、この自家製湯たんぽの登場以来そんな必要もなくなった。これ一つで、これまで夜間に体をこわばらせてやっていだ作業も、ずいぶんとリラックスしてすすめることができた。

 これは最近わけあって勉学に励んでいる妻が開発したもので、妻は雑誌かなにかで見たようだ。ただペットボトルにお湯を入れて握るだけの話だが、多少の試行錯誤があったのでせっかくだから紹介しておこう。

 まずオレンジ色のキャップ(暖かい飲み物用)のペットボトルを用意する。 350mlの タイプがベスト。つぎにポットで湯を沸かすが、湯を沸かすにあたっては、ガスを使ってやかんで沸かすよりも、電気ポットがおすすめ。うちの電気ポットは保温などの機能がついておらず、ひたすら早く沸かすことに全力をそそいでくれるので、あっというまに沸く。そしてこのお湯を注意深くペットボトルに注ぎ込む。

 これだけだが、いくつか注意点がある。まず、

①使用するペットボトルは、あったかい飲み物用のものでなければならない。冷たい飲み物のものを妻が試みたが、お湯を入れるとふにゃふにゃになってしまった。それから、

②ペットボトルの口の部分は広いものがよい。狭いものはお湯を注ぐときにこぼれやすく危険。ただし、逆に広い口の場合はその分蓋がはずれやすいという欠点もあって、無意識にさわっていて蓋がとれそうになったことが何度かあった。なにぶん熱湯が入っていわけなので、この点にだけはくれぐれも注意が必要。もう一つ、

③ペットボトルを手で持ったとき、凹凸の感じがなめらかなものを選ぶべし。中には凹凸が激しくて、とがった部分しか手に触れないもののある。以上のことを鑑みて選ぶなら、カルピスのホットレモンが今のところ最高である。(ただしカルピスのホットレモンでもいくつかの種類があるので注意)。

 なお、沸騰したお湯をそのまま入れると、熱すぎて持つことも出来ない。私は出来るだけ長くもたせたいのでハンカチでまいたりして使っているが、妻は水で水温を調節しているようだ。沸騰した状態からはじめれば、さめてしまうまで2時間近く使える。

 省エネのために温度を低く設定し、風量も最小に設定することが奨められているが、全くもってこれまでの暖房の使い方は一般に無駄が多かったと思う。(夏の冷房もそう)。これだと必要最低限のエネルギーで最良の効果が得られているのではないかと思うが、実際に電力などの計算をしたらどうなるか分からない。

 雪の降る夜に、お湯の入ったペットボトルを両方のポケットに入れて散歩にでかけるのも悪くない。手元と足さえ冷たくなければ、相当寒くても楽しめるものだ。露天風呂の感覚と少し似ているかも知れない。

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2008-02-11

なぜ人を殺してはいけないか(15)――権利と贈与

 なかなか「なぜ人を…」のつづきを書けないでいる。書きたいことはまだまだあるが、先日の白頭庵氏の権利思想に関する記事から触発されたことだけちょっと書き留めておこう。

 学生たちの答えの中で大変多いのが「人には生きる権利がある」というものだった。「だれもそれを奪うことはできない」。たしかにそうなのだけれども、そのとき「権利」という言葉を学生はごく自然に使ってしまう。われわれもそうかも知れない。だが、他方に同じように見えながら異なった答えがあるはずだ。それは「人の命は与えられたものである」という答えだ。だからこそ、「だれもそれを奪うことはできない」。こちらの回答は多くはない。「与えられたもの」という表現を使う答えはほとんどなかった。

 「人には生きる権利がある」という回答と「命は与えられたものである」という回答は根本的に異なっている。前者の背後にあるのが権利思想だとすると、後者は贈与の思想ということになるだろうか。両者の立場の違いは「なぜ殺してはいけないか」という問に関するそれほど目立たない。どちらも結論としては殺してはいけないという態度を導くからだ。しかし、問いを「なぜ自殺をしてはいけないか」という問題に変えるなら、たちまち違いが明瞭にになる。権利思想に基づけば、命は自分のものであるから自らそれを絶つことを誰も禁じることは出来ない。しかし贈与思想によれば、命は与えられたもの、他者から自分に託されたものであるがゆえに、それを自分の判断で絶つことは許されないことになるからだ。

 これは命について考えようとするときの、近代啓蒙思想のとらえかたと宗教思想によるとらえかたの違いと言うことができるのかもしれない。学生の答えにはあまり現れなかった贈与思想だが、日本の古くからの生活態度にはむしろ贈与論の方が身近であったはずである。食事をする前に手をあわせて「いただきます」というような習慣は、そのことを語っている。しかしながら、若者たちの意識の前面にはそうした意識が現れてこず、そのかわりに外来から輸入した権利思想が幅を利かせている。ただ、私は学生たちがそのように権利思想を語りつつも、それを本心からは信じていないように見えたことも確かだ。

 いま「いただいている」という場合、贈与する主体が何かという問題は問題を問わないなら、そういう答えは仏教にもキリスト教にも、あるいはアニミズムのような宗教性にも共通するものである。そうしたとらえかたが明らかに希薄になっていることが学生たちの答えからはっきりわかる。だが、それに対して権利思想のような社会的な承認を得やすい答えがリアルに信じられているかと言えばそうでもない。それが近代の作り上げた一種の仮構だと知った上で、学校のようなそれこそ近代システムを代表するような場所ではそのような言葉を使うことを賢く選択している、といえばちょっと穿った見方にすぎるかも知れないが。

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