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2008-05-31

日本経済新聞を読んで独学者の魂について学ぶ

 愛読している毎日新聞をわけあってしばらく休み、4月から日本経済新聞を取っている。この新聞を取ったのはこれで二回目だ。どうぜ短期間なのだから、経済という視点から世界を眺めてみるのもよかろうというつもりだったが、やっぱり駄目。最初はものめづらしかった紙面も、数日すると無意味な記号の羅列にしか見えなくなってきた。自然と新聞を読まなくなる。おかげで世間で今何が主として話題になっているのかさえ分からなくなってきた。

 またテレビ欄が中程に掲載されているため、番組を確認するのにいちいち中を確認しなければならなず、子どもにも不評だ。私の友人はこれを読み続けて経済通になったが、私にはそんな日はまずこないだろう。経済は世界を動かす重要なファクターだと思うが、この視点からのみ世界を見ていくのは、少なくとも私にはとうてい無理だ。こうやってニッケイに挫折していく人って多いんだろうな。私もその仲間か……( ´ `;) 

 ところで毎日新聞を休むタイミングを完全に誤ったなと悔やまれるのが、将棋の名人戦。昔から毎日が主催しており(今年から朝日と共催)、対戦の翌日に完全な棋譜が載る。ところがニッケイにはそんなものに割くことのできるスペースはない。ネットでも速報が流されているが、これは有料のコンテンツで、買った負けた以上のことはお金を払わないと分からない。息子との遊びをきっかけに将棋がちょっとしたマイブームになっていて、最高峰の将棋がどういうものか知りたいと思うのだが、以上のようなわけで見事に名人戦のちょうど手前にその情報を知りうる媒体を自ら手放してしまった。ニッケイの内容の中で私にも興味がもてる数少ないコンテンツだったのに……。まったくタイミングが悪すぎた。

 でもどうしても棋譜が欲しい。仕方がないから駅で新聞を買うはめになった。朝日という選択肢もあったが、結局は毎日を購入。ああ、なつかしいこの穏やかな紙面。人間の事柄が書いてある。名人戦は1局が2日に渡って行われそれが7局つづくわけだから、全部で14部買うことになる。ああ、早く毎日新聞にもどりたい。

 日経のいいところも少しはあって、最後の頁にテレビ欄のかわりに置かれている文化欄がなかなか充実していること。(毎日の文化欄もいいけど)。「私の履歴書」に1ヶ月にわたって谷川健一氏のエッセイが連載されていたのを興味深く読んだ。民俗学者といってもアカデミズムの中で活躍した方ではなく、かといってジャーナリストというのでもなく、むしろアートや文芸に近いところで活動されてきた方という印象を持った。(ただし、それは学問性に劣るということでは全くない)。若い頃は雑誌『太陽』を企画しヒットさせた辣腕の編集者であったが、やがて大病を患ったのを期にこの道に入っていった。

 今日はその最終回なのだが、「独学者の魂」ということを書いておられた。「大日本地名辞書」を書いた吉田東伍は十三歳で中学部を退校し、学歴を問われると「図書館卒」と答えたという。南方熊楠も大学予備校だし、宮本常一も師範学校卒だそうだ。別に学校を出てないから独学というのではなく、柳田国男、折口信夫、白川静の場合は大学を一応は出てはいたが、「世間のありふれた賞賛には目もくれず、光栄ある孤立の道を選ぶことをためらわなかった」。

 谷川氏は、現在の民俗学者には「旅」と「歌」が欠けていると嘆く。学校勤めが忙しくてそんな暇がないからだ。民俗学にかかわらず、今大学の先生はみな忙しくなっている。この傾向は今後もっと進むに違いない。学者のあいだから「旅」や「歌」が消え、「独学」が消え、やがて「学問」が消えていくのではないか。そんなことを考えさせられた。まあ、それ以前のレベルの私などが言えることではないけれども。

 ところで名人戦の棋譜を並べてみたが、やっぱり分からない。どうしてここでこの手あちらであの手が出てくるのか。多分何十手も先まで読むことが出来なければ分かるはずもないのだろう。名人戦は羽生が王手をかけた。次回の第5局に勝つと永世名人の資格を得る。私はといえば、経済も将棋も結局は分からないわけで、やはり自分のすべきことをしようと思う。

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2008-05-23

ひさしぶりの更新

 このブログもそうなのですが、ここでは大福先生のホームページのことです。約一年ぶりということになります。豆大福さん作成によるティリッヒ『芸術と建築について』の書評を先日アップしました。履歴を見ると、昨年の四月から一年以上更新していなかったことになります。また、先生のテクストとしては一昨年の六月にアップした「神学と世界観を媒介するもの」以来なので二年ぶりです。

 更新を怠っているうちにアクセス数も減ってきていて、2万件の手前でやや足踏み状態です。しかしながら、過去に書かれた論文の再録が多いとは言え、キリスト教神学に関する本格的な内容を提示しているという点で言えば国内随一と自負しています。神学関係の言葉を検索するとしばしばこのページに行き着くことがあって、たとえば「聖霊論」、「救済史」、「贖罪論」、「聖餐論」などの用語や、「神の死」、「テリッヒ」、「ブルトマン」などの人名をGoogleで検索すると10位以内にわれらがサイトが出てきます。神学生が即席レポートに大福先生の論文を盗用して神学教師の苦笑をさそうといった現象もあるいは起こっているかも知れません。なお、「サリンジャー」でも第6番目に出てくるので、アメリカ文学をやる学生には先生の名が意外と知られてるかも。(笑)

 これまで先生の過去の雑誌論文を中心にたくさんのテクストをアップしてくることが出来たのは、雑誌のコピーをもとにボランティアで大量の打ち込み作業をして下さった方々のおかげです。特にヒラピャンさんとクロロさんはネットでの募集にメールで応じてくださり、その後かなり長い期間にわたって作業を続け、大量のテクストをタイプしてくださいました。その後も未だ直接お会いしたことはありませんが、この場で改めて感謝を申し上げます。他にもカリメロさん、pensie_logさん、それに今回の豆大福さんにもお世話になりました。ありがとうございます。

 今はまったく私の個人的な都合により休止状態のようになってはいますが、もう少し余裕が出来たらまた再開するつもりです。今回のテクストは豆大福氏が新しく「発見」されたものですが、サイトのbibliographyからもれている文章もまだまだあるのではないかと思います。みなさんの「こんなところでみつけたぞ」といった情報をお待ちしています。そのほか、大福先生に関連する論文やエッセイなども今後は載せていきたいと思っています。むしろ大福研究が本当の目的のつもりなので、是非みなさんのご協力をお願いいたします。

 なお、このブログで私は桶川利夫というペンネームを使っており、それに合わせて私を含めた知人の名前を原則的にニックネームないしは仮名で呼んでいます。ただしそれは匿名ということでは必ずしもありません。大福先生が誰なのかは上のリンクからすぐに分かってしまうし、その管理者である私が誰かもすぐに分かるはずです。ただ、ブログの記事は少しくだけた話も描きたいので、一応本名で書く文章とは区別しておきたい、ワンクッション置きたいだけです。たとえば私の本名で検索をかけた時、このブログの記事が大量に出てきてしまうのはちょっとイヤだなと思うわけです。ですから一応はペンネームで書くことをお許し下さい。もし本名が知りたければ、上のような仕方でお知り下さい。匿名は卑怯だと考える人もいるでしょうし、それにはある意味では共感するところなので、念のために断っておきました。あしからず。

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2008-05-04

実状に合わない憲法は廃止すべきか?

 憲法について道路交通法との類比で考えてみたい。

 以前、自転車が横暴だという話をトロウさんが書かれていた。たしかにそういう自転車が最近は大変目に付く。昨日もひかれかけた。ただ自転車には専用の道路がなく、車道に出れば大変な危険にさらされるし、歩道に入れば邪魔者扱いされる。気の毒な面もある。むしろ一番横暴なのはなんと言っても自動車だと私は思う。

 たとえば徒歩で横断歩道を渡ろうと思って道ばたに立つ。前を自動車が通り過ぎる。次々に通り過ぎる。私は自動車がすべて通り過ぎるまで待たなくてはならない。これは今日ごく当たり前の風景であり、歩行者は誰も文句も言わず車が途絶えるのを待っている。文句を言っているのは私のような一部の偏屈者のおやじくらいのものだろう。

 横断歩道を渡ろうとしている歩行者がある場合、自動車はすみやかに停止して道を譲らなければならない……。そう自動車教習所で習った記憶がある。この教えを守っているドライバーがはたして一人でもいるのだろうか? 私の経験では、そんな車は100台に1台あるかないかだ。ほぼ全ての車は横断歩道を渡ろうとしている人の鼻先を平然と通り過ぎて行く。私は腹が立つから、ときどき自分の体を張って車の前に飛び出すことがある。(困ったおやじだ)。車は驚いたように止まって私を見る。驚くなよ。自動車学校で習っただろうが、と私は思う。

 もちろん私もドライバーの側になることがあるので、停車しない車の言い分も分かる。ある程度スピードを出していると、歩行者に気づいても急には停止でない。後から車がきている場合には、急ブレーキはかえって危ない。正直なところ私も止まれないことが多い。では、横断歩道で止まらない車が多いのは仕方がないことなのだろうか。前々から気になっていたので、調べてみた。 「道路交通法」に次のようにある。

第三十八条  車両等は、横断歩道又は自転車横断帯に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。(下線引用者)

つまり、「急には止まれない」という言い訳はできないのだ。止まれないような速度で走っている時点ですでに規則に反しているのだから。車は横断歩道が近づいたらスピードを時速10キロくらいに落として、注意しながらそろーりと横断歩道に近づく。そして、人がいれば停止線の手前で余裕を持って止まる。これがあるべき道路交通の姿なのだ!

 まあそいうことなんだけど、そんなことを守っている人は多分一人もいない。そんな走りかたをしていたら、たちまち後ろからクラクションをならされてしまうだろう。つまり、車社会の到来によって実状が変わってしまったのだ。実状に合わせて人々の意識も変わり、誰も本来自動車が横断歩道の前ではスピードを緩めるべきだという常識を失ってしまったのだ。

 ではそんな実状にあわない道路交通法は改正すべきか? ここが重要なのだが、決してそうではないと私は思う。たとえ実状にあっていなくても、こういう絵に描いた餅のようなすばらしい法律は残さなければならない。あくまで実状の方が間違っているのだということを忘れないためにだ。

 横断歩道を渡ろうとしている人がいるのに、そこを通り過ぎる車はやはり悪いのだ。ごめんなさいという思いで通り過ぎるのと、当然だという思いで通り過ぎるのとでは全然違う。ごめんなさいという思いがあえば、こんな現状を変えなければならないという問題意識が受け継がれていき、いつか現状を変えることが出来る日が来るかも知れない。現状にあわせて法律を変えてしまえば、その時点でそのようなチャンスは永遠に無くなってしまう。

 ある種の法は上の道路交通法のような機能をはたしているのではないだろうか。憲法とはその種の法である。憲法とまさにそういう機能を果たすことにこそその本来のつとめがあるはずである。平和憲法が実状にあっていないのは事実だが、だから憲法を「改正」すべきだというのは本末転倒だ。あくまで現実を改正することを考えるべきだ。もちろん現実は複雑であって、そう簡単に変えられない。しかし、そのことと現実のままでよいということは全く別の話である。

 憲法が有名無実化しているというのも間違いだ。たとえば、この道路交通法38条は実状にあってはいないかも知れないが、事故が生じた場合には実際的な効力を発揮する。横断歩道を通過しようとしている人が、そこを通過する車にひかれた場合、100%車の方が悪いことになるそうだ。憲法だって同じだろう。自衛隊の海外派遣や首相の靖国参拝に対して少なくとも批判することが出来るのは憲法が実際に存在するからである。憲法がなければそした批判は間違いなく弾圧される。「国旗・国歌法」をなんとくなく成立させてしまった失敗を二度と繰り返してはならない。現憲法を死守すべきだ。

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