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2008-06-14

町の活字中毒者たち

 しつこいようだが、またタダ本をゲットした。

 市立図書館へちょっと調べものをしに行ったら、たまたま除籍図書リサイクル市の初日だった。開始30分前で、すでに3,4人ならんでいるので後で寄ってみようと目的をすませているうちに、いつも静かな図書館の入り口あたりがなんだか騒がしくなってきた。市に集まって来る人たちだった。主婦や高齢者を中心に次々に人がやってきて、長蛇の列になった。

 会場へ入ると大変な熱気で、人がひしめきあって本を漁っている。みんな目が血走っており、よくドラマや漫画などで見るバーゲンセールの様相である。K越にもこんなに活字中毒者がいるのかと感慨を覚えた。

お一人様10冊限りだが、10冊というと両手でもてる限界に近い。しかし、みんな両手に山のように本を抱えながら、まだ何かあるんじゃないかと目を皿のようにして探している。そのありさまは、まさに「あさましい」という言葉がぴったりくる。私はといえば、もうすでに先日十分にあさましく振る舞って一定の収穫を得ているので、今日はみなさんほどあさましくならなず、ちょっと余裕を見せながら周りを冷静に見回し、それからしっかり10冊ゲットして帰ってきた。

・H・ジンサー『ねずみ・しらみ・文明』みすず書房
・ボーム『量子論』みすず書房
・フーコー『狂気の歴史』新潮社
・J・A・リヴィングストン『凶暴なる霊長類』法政大学出版局
・松本健一(聞き手)『埴谷雄高は最後にこう語った』毎日新聞社
・吉川英治『親鸞』(上)角川文庫
・吉川英治『親鸞』(下)角川文庫
・渡辺照宏『お経の話』岩波新書
・村上春樹『スプートニクの恋人』講談社
・村上春樹『国境の南、太陽の西』講談社

117_1764mono  市民図書館だから現代小説やハウツー本の類が主だが、中には何でこんなのが?と思うようなものもあって、もっとじっくり探せば面白かったかも知れないが、とにかく人が多くて、熱くて、また重かったので、早々に切り上げて帰ってきた。

 それにしてもこの数日私は本ばかり漁っていたことになる。後は読むだけなのだが、これがホントは一番大変なのかも知れない。すでに私の部屋にはこれまでにゲットして読まれないままの本が山ほどたまっている。それに比べて娘は『国境の南、太陽の西』をあっと言う間に読んでしまった。明日は自分も行ってみるそうだ。私もこれくらい早く本が読めるといいのだけれど。

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2008-06-10

青空市騒動顛末記

 あっと言う間に一週間が過ぎてしまった。それは多分にも青空市に振り回されたということがあるかも知れない。先週R大講師室に置いてきた本を持ち帰った。相変わらず重い。こう重いと寄り道をする気も起きない。まっすぐ家へ帰ってくる。今回の収穫物は以下の通り。

・『波多野精一全集』第1巻、岩波書店
・『波多野精一全集』第2巻、岩波書店
・『波多野精一全集』第3巻、岩波書店
・『波多野精一全集』第4巻、岩波書店
・『波多野精一全集』第5巻、岩波書店
・『波多野精一全集』第6巻、岩波書店
・『石原謙著作集』第6巻、岩波書店
・『石原謙著作集』第10巻、岩波書店
・『シュヴァイツァー著作集』(「バッハ」上)第12巻、白水社
・『シュヴァイツァー著作集』(「バッハ」下)第14巻、白水社
・『トレルチ著作集』第1巻、ヨルダン社
・カール・バルト『教会教義学』和解論I/3、新教出版社
・カール・バルト『教会教義学』和解論I/4、新教出版社
・カール・バルト『教会教義学』和解論II/1、新教出版社
・カール・バルト『教会教義学』和解論II/3、新教出版社
・『呪ないと祭り』講座日本の古代信仰3、学生社版

Photo  今回は『波多野精一全集』が目玉で、中身は古い活字体なので読みにくいが、宗教思想史的な内容が大変興味深い。ただ一番読みたかった「象徴的神学」が抜けているのは残念「象徴的神学」は有賀鉄太郎でした( ´。`;)  シュヴァイツァーの「バッハ」は上下2巻本が手に入ったと思っていのだが、帰ってからよく見ると上中下の3巻本で、中が抜けていることが分かった。残念。

 バルトの『教会教義学』の一部も手に入れた。今回ゲットしたのは第IV巻「和解論」のうち、I/2、I/4、II/1、II/3の四冊で、「和解論」の約半分くらいにあたる。見事にとびとびになっているので中途半端だが、タダだから文句は言えない。

 私が生まれる前の話だが、『教会教義学』はこの「和解論」から邦訳が始まったはずである。今回手に入れた「和解論」I/3は1960年発行とある。(値段は900円。1968年発行のII/3は倍の1800円だから、この時代物価が急激に上がったことが見て取れる)。1960年の時点ではまだバルトが健在で、原著のKDもまだ書き続けらるはずだったので、先行きの見えない中で翻訳出版が進められていったのだろうが、結局この膨大な本をほぼお二人で全て訳してしまったのだから頭がさがる。さすがのバルトもびっくりであろう。

 そういえば2005年に邦訳が出たブルトマン『ヨハネ福音書』の翻訳者にも心底脱帽である。8年がかりの訳稿がほぼ出来上がった1994年に訳者は火事でこれを焼失してしまう。しかし、それから再び翻訳作業をやり直し、9年後にこれを完成させたというのだ。ギリシャヤ語と大量の細かい注を含むこの大著の内容を知る人なら、それが並大抵のことではないことがすぐに分かるだろう。自分の成し遂げた業に対するこの潔さ、すぐに一から作業をやりはじめる将来に開かれた態度というものに、人生を終末論的に生きよというブルトマン神学のエッセンスを見る人は私だけではないだろう。

 青空市について書いていて意外な結末になったが、これがこの一週間にあったことだ。

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2008-06-06

三度青空市へ行き、超ど級のお宝発見

 前日バックに入りきらずにあきらめた本が気になり、昨日また青空市へ行った。T葉県の大学で夕方の授業を終え帰りの電車に乗ると、いつもはたっぷり1時間半読書に浸るところをI袋で途中下車してR大学へ向かう。

 途中激しい雨が振り出してやばいと思ったがすぐに止んでしまう。学生が去ってがらんとしたR大8号館のロビーは、もう8時だというのに灯りが煌々ととついている。中に入ると、まだ本は山ほど残っている。が、本を物色している人の姿はもう見あたらず、掃除のおばさんたちだけがこれから仕事を始めようと元気に行ったり来たりしている。その声がロビーの高い天井ににこだまする。アカペラの練習をしている学生たちのハーモニーがどこからか聞こえている。リード・ボーカルが高音になると音をはずす。しばらくするとまた同じ曲を繰り返す。高音になるとまた音をはずす。

 私はあきらめた数冊の本がまだあるかどうか確認しようと見渡した。特に岩波の哲学講座のシリーズを探そうとしたが、一見してすぐに誰かが持っていったことが分かった。その他、目をつけていた本はほとんど持ち去られていた。白頭庵氏が去って「哲学」が消えたこの大学にも、まだ哲学をする残りの者たちがいるのだと思った。

 昨日あったはずの本が無いのに対して、昨日無かった本がさらに追加されている。一度に出さず小出しにするとは当局も憎いことをするものだ。しかも、追加された本の多くは神学関係の洋書だ。やれやれ、また今日も大量の本を運ぶはめになりそうだ。それにしても、明日この市は終わることになっているが、残ったこれらの膨大な書物は本当に廃棄されてしまうのだろうか。友愛書房とかに連絡したら引き取りに来るのではないのだろうか。

 などと考えていると、ふと一冊の本が目に止まる。濃紺のきっちりした装丁に見覚えがあった。「まさか」と思って手に取る。手になじむこの感覚は間違いない。背表紙を見る。金文字で「実存論的神学」と書いてある。ついに出会えた!

 考えてみればありえない話ではなかった。大福先生の『実存論的神学』(創文社、1964年)は、R大学に数冊あるはずだった。貴重本を容赦なく切り捨てる今回の大粛正(?)を目の当たりにしてきたのだから、数あるうちの1冊くらい廃棄に回されることも十分に考えられはずだったのである。しかし、現実には大量の本の山の中にこの本があるということをまったく予想していなかった。だから、しばらく唖然としてしまった。

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大量の本のタイトルをいちいち確認していく作業にややぐったりしていたので、この超ど級のお宝を前にして、近くのチェアーに少しづつ積み上げていたその他の本は一瞬どうでもよくなってしまった。『実存論的神学』を手に取ると、しばらく休憩することにした。それにしてもきれいな本だ。私の生まれる前年に発行されているのだから、もう43年経っているのに、とてもそうは思えない。中を調べると、1箇所うすい鉛筆で印が入っている他は、 傍線や書き込みは全くない。確かR大に数冊あるうちの何冊かは、心ない読者によって傍線を、それもボールペンで引かれていたと記憶している。何でそっちを残してこの美本の方を捨てるのだろう。

 裏表紙の見返しを見ると「友愛書房」のシールがはってある。ということはR大が古書店で購入して蔵書に加えたものかも知れない。その下の方には前の所有者のネームと購入日が入っている。日付は1967年となっている。ちょっと遅れて購入したのかなと思って表紙の見返しを見ると、別の名前と日付が入っている。こちらは1964年7月となっているから、出版されておよそ1ヶ月で購入した最初の読者がいたことになる。すると二人目の読者が古書店で購入して、その後にR大に寄贈したのか? いずれにしろ四十余年の年月を幾人かの人たちの手を経て、ついに持つべき人(私)のところへ届けられたわけである。

 さて、この1冊だけでもういいやという気分を納め、中断した作業を再開する。結局持ち帰ることの出来たのは以下の15冊だ。

・野呂芳男『実存論的神学』創文社、1964年
・渡辺善太『旧約聖書の由来』1929年
・フェルヂナン・ド・ソシュール『言語学原論』岩波書店, 1967年
・J. M. Robinson & J. B. Cobb Jr., Theology as History, Harper & Row, 1967年
・S, Neill & T. Wright, The Interoretation of the New Testament, Oxford UP., 1988
・W. Pannenberg, Was ist der Mensch? ,Vandenhoeck & Ruprecht, 1962
・Paul Tillich, Systematic Theology, Vol.1, The University of Chicago Press, 1951
・Friedrich Gogarten, Die Wirklichkeit des Glauben, Freidrich Vorwerk Verlag, 1957
・Friedrich Gogarten, Christ the Crisis, SCM Press, 1970
・John Macquarrie, Contemporary Religious Thinkers, Happer & Row, 1968
・Heinrich Ott, Gott, Kreuz-Verlag, 1971
・Joseph Fletcher, Situation Ethics, SCM Press, 1966
・H. Richard Niebuhr, The Responsible Self, Harper & Row, 1963.
・Oscar Cullmann, Vorträge und Aufsätze, J. C. B. Mohr, 1966
・Hreinrich Ott, Wirklichkeit und Glaube, Zweiter Bnd, 1969

106_0660   他にも、たとえばAlbert RitschlのDie christliche Lehre von der Rechtfertigung und Versohnungの三巻本が新品同様の状態で廃棄を待っていたので、これは持ち帰りたかったが、どうにも入りきらない。講師室も今日はもう閉まっている。諦めることにした。中を見るとひげ文字でどうにも読む気が起こらない、というよりこんな分厚い本をひげ文字のドイツ語で読める気がしない。持ち帰っても一生読まないに違いないから、まあいいことにした。Cullmannの本は太くて重いのでやめることにしたはずなのだが、帰って確認するとどういうわけか鞄に入っていた。それだったらかわりにRitschlにしとくべきだったか? いやいや、やっぱりひげ文字は持ち帰ってもしかたがないよ。と未だに心の中で問答が続いている。

 帰りの電車ではMK大から借りてきた橋爪大三郎の『仏教の言説戦略』(勁草書房)を読む。「言語ゲームとしての宗教」という理解についてはいつか決着をつけなくてはならいのだが、「言語ゲーム」という概念自体が難解なのと、それが持っているある種の真理性をどう評価するかについてなかなか考えがまとまらない。今回授業で橋爪さんの別の本を使ったら、この本を参照と書いてあったので借りた。よく知られた本なのにこれまで読まなかったのはある意味不思議だ。別に今日この本を借りなくてもよかったかなとふと考える。借りなければRitschlが入ったかも……いや、もうやめにしよう。

 これで獲得した本の数は45冊になる。しかし、まだ講師室に置いてきた本が10冊以上あるはずだ。もう1週間、市をのばしてくれれば100冊はいったのに。残念。でもそんなたくさん持ち帰っても、欲望とは果てしないものだから、ここにある本全てを持ち帰りたくなるに違いない。しかも、置き場所がなくてかなり困ることになるのは目に見えている。青空市が終わってくれてほっとしているというのが本音かも知れない。

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2008-06-04

大漁、そして書誌修正

 朝一番の授業をすませて青空市へ行く。昨日めぼしいものは持ち帰ったが、まだいくつか心残りのものがあって、それを二、三冊持ち帰るくらいの気持ちでいた。ところが、昨日と同じ場所に並んでいる本が増えている。おやと思って見ていると、あるわあるわ私の専門に関わる本がどっさり並んでいる。学生の頃お世話になったK科読書室に並んでいた古い貴重な本がこれでもかというくらい並んでいる。物色しているうちに、2、3冊などということでは済まないことがはっきりしてきた。

 とは言え、現実には昨日と同様、私物が入ったカンケンバックと携帯用の手提があるばかりだ。厳選の上、それらを本で満たしところで、そうだ二階にも少しあったよなと思って上がってみた。二階は一見すると昨日と同じかに見えたがそれは間違いで、昨日なかった本がかなりある。おそらく古本と古本の間にできたすきまに、新たな古本(形容矛盾?)を埋め込んでいるのだろう。昨日はなかったはずのマニア唾涎もの(?)の貴重本がうようよ。

 これは大変なことになったと思った。もっとでっかいリュックを持ってくればよかったという話ではない。いっそ車で来ればよかったと思った。しかたがないので、とりあえずこれらの本を隅のベンチに重ねて置き、カンケンバックと手提げで隠しておいて、購買部へ行って大学の名前の入った紙袋を買ってきた(¥200)。かばんに入らないものをすべてこれに詰め込み講師室へ。背中にパンパンになったリュック、両手に重そうな袋二つを下げてキャンパスを歩く様子は大変見苦しい(あさましい?)ものだったに違いない。

 最初はこのままで家まで帰ろうと思ったが、半端ではない重さだし、雨もパラパラしてきたので、結局講師室の隅に置かせてもらうことにした。来週取りに来ることにしよう。さて、ゲットした本は今回はすべて和書。多すぎてめんどくさいので、発行年は省略。

・H・ブラウン、H・コンツェルマン他『イエスの時代』教文館
・E・ユンゲル『パウロとイエス』新教出版社
・トロクメ『使徒行伝と歴史』新教出版社
・クレーマー『宣教の神学』新教出版社
・W・ショットロフ『いと小さき者の神』新教出版社
・W・ホーダン『転期に立つ神学』新教出版社
・J・フレッチャー『状況倫理』新教出版社
・佐藤敏夫『近代の神学』新教出版社
・滝沢克己『現代の事としての宗教』法蔵館
・J・A・T・ロビンソン『神への誠実』日本基督教団出版局
・中沢洽樹『苦難の僕』新教出版社
・中沢洽樹『第二イザヤ研究』新教出版社
・E・モルトマン=ヴェンデル『乳と密の流れる国』新教出版社
・オットー・ヴェーバー『カール・バルト教会教義学概説』明玄書房
・B・M・メツガー『新約聖書の本文研究』聖文舎
・山本和『救済史の神学』創文社
・石原謙『石原謙著作集』第2巻、岩波書店
・石原謙『石原謙著作集』第3巻、岩波書店
・石原謙『石原謙著作集』第4巻、岩波書店
・石原謙『石原謙著作集』第5巻、岩波書店
・ルター『ルター篇』キリスト教古典叢書、新教出版社
・クワイン『ことばと対象』勁草書房

080604_154644_ed_3 哲学の本はクワインだけであとはすべて神学書だ。こんなに廃棄しちゃって大丈夫なのだろうか。他に岩波の哲学講座のシリーズもあったのだがさすがに断念した。神学の本と哲学の本があったら、結局神学の本を選んでしまうあたり、やはり私は神学が好きなんだろう。

 さて、しかしこれはまだゲットした本の半分である。他に紙袋に入れた十数冊がまだある。その中にはシュヴァイツ ァーのバッハ本とか波多野精一の著作集なども入っている。それらはすでに講師室に確保したとして、さらに他にも断腸の思いで持ち帰らなかった本がある。明日帰りにでもよってみるか。でも、これやってると切りがないような気がする。金曜日で終わってくれるので助かる。

 こんなことがあったので、またも書誌調査を忘れるところだったが、荷物を講師室に置いてほっとしたら、やるべきことを思い出した。大福先生の論文が入っているはずの巻はやはりなく、その前後の巻には大福先生の論文はなかった。ここで少なくともこの論文が1966年に発行というのは誤りであることは分かったわけだ。にしても、1965年のはどうしちゃったんだろう。何とか手に入れなければ。

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古本発掘

 雨の中、かなり早めに大学へ出掛けると、廃棄図書の青空市をやっていた。今日が第一日目のようだ。朝一番なので、まだ誰にも荒らされておらず、結構掘り出し物があった。

 今日持ち帰った本は以下のとおり。

・Friedrich Gogarten, Jesus Christus Wende Der Welt, 2. Auflage, J.C.B.Mohr, 1967.
・Ernst Fuchs, Zur Frage nach dem historischen Jesusu, 2. Auflage, J.C.B.Mohr, 1965.
・Ernst Fuchs, Glaube und Erfahrung, J.C.B.Mohr, 1965.
・Martin Buber, Ich und Du, Verlag Lambert Achneider, 1958.
・John Macquarrie, Principles of Christian Theology, SCM Press Ltd, 1966.
・Roman Jakobson, Essais de linguistique générale,  Les  Editions de Minuit, 1963.
・スターン『文化的絶望の政治』三峰書房、1988年
・『信条集』後編、新教出版社、1982年

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 なかなかの収穫だ。ゴーガルテンやフックスの本はアマゾンの古本でまだ比較的安く手に入るようだが、送料など入れると結局は相当かかってしまう。なんと言ってもタダなのは嬉しい。しかし、これだけの本が「廃棄」の印を押されているのは切ない。どうも2冊以上あるものは、1冊だけ残して廃棄しているらしい。

 ずいぶん重くなったが、白頭庵氏にすすめられて買ったフェルラーベンのカンケンバックはすばらしい。見た目は小さいのに、かなり入る。入りきらない本は、携帯していたナイロンの手提げにつめこみ、それでも余ったものは自分のメールボックスに入れ、雨の中濡れないように今日は早々に引き上げた。

 明日もまだやっているので、今日持ち帰るのを断念した本を持って帰ろう。渡辺善太、関根正夫、浅野順一といった人たちの古い旧約聖書概論の類がいくつかあった。あと、アンドレ・パロ『ニネヴェとバビロン』(みすず書房)という聖書考古学の本の間にはさんであった名刺は、なんと私の所属する教会を創始した宣教師のものだった。たぶん30年くらい前のものだろう。こうなると、この本も持ち帰りたくなってしまう。

 そうそう、前回の青空市の時には『追憶の波多野精一先生』玉川大学出版部をゲットしたのだった。これはいつかpensie_log氏が言及しておられた本だ。この青空市、今後どんなものが出てくるのだろう。2冊ある本って結構あるんだけど、どんどん廃棄してくんないかなあ。さっき言ったことと矛盾するけど。

 というわけで、早々に引き上げたため、大福先生の論文の所在を確認することが出来なかった。これも明日の課題だ。(あ、もう今日になってしまった)。

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2008-06-01

論文発掘

 埋もれたままになっているはずの大福先生の論文がまだまだあるはずだと書きましたが、先日ある神学者の古い論文を読んでいて大福先生の論文が引用されてるのを見つけました。「神学における歴史と自然の問題」というタイトルで、1965年発行となっています。私が生まれた年です。

 さっそくR大図書館で調べると、A学院大学の紀要の第9号に載っているはずが、なぜかその号だけが蔵書から抜け落ちている。その前後はすべての号がそろっているのに大福先生のまだ見ぬ論文の号だけが欠けているのです。これはいかにも不自然だ。誰かが抜き取ったのか? とすれば一体誰が? 何のために? 謎は深まるばかりです。

 しかし家へ帰ってHPに載せている著作リストで確認すると、同じタイトルの論文が1966年発行になっています。これはR大学の雑誌に載った著作リストに基づいて私が作成したものなので、その雑誌を確認するとやはり1966年となっていました。どっちが本当なのだろう? 図書館で調べたとき、第9号(1965年)の前後に先生の論文はなかったと思うのですが、見落としたかも知れない。何せ9号が欠けていることに唖然としたので、そこまで気がまわらなかったのです。そんなわけで、これについては再調査したいと思います。

 ところで、それとは別に同じ雑誌のもっと古い号に、大福先生の論文を見つけました。"The Theology od Friedrich von Hugel" という英語の論文で、その邦訳も同じ大学の別の雑誌に「フリードリッヒ・フォン・ヒューゲルの神学」というタイトルで掲載されています。英文の方が1957年、邦訳は1958年の論文で、どちらもHPのリストには載っていなかったため、至急追加しました。先生は56年の春に米国留学から帰国されていると思うので、恐らく日本語の雑誌論文としては最も初期のものになるのではないかと思います。同じ年に「現代状況と福音の理解」という論文も発表されていて、これは後の1964年の『実存論的神学』の第一章になった論文ですから、この時期はまさに実存論的神学の形成期に当たると言ってよいわけですね。

 フォン・ヒューゲル(Friedrich von Hügel 1852-1925)と言っても、不勉強な私はトレルチの「歴史主義とその克服」に序文を書いた人としてしか知らず、先生が論文の冒頭でご自分が影響を受けた神学者としてE・ルイス、N・ベルジャーエフ、R・ニーバー、P・ティリヒの名を列挙されながら、「以上あげた神学者の誰も私の神観形成に、フリードリヒ・フォン・ヒューゲルほどに影響を与えなかった」(『基督教論集』第六号、2頁)と書かれているのには驚きました。今調べてみると、著書のいくつかの場所で先生はフォン・ヒューゲルに言及されているのですが、現物を読んでいない私には印象が薄かったようです。

 しかしもう一つ驚いたのはこの論文の書き出しの一行です。

現在までに、私の神学的思索に大きな影響をおよぼした人々として私は数人の神学者をあげることが出来る。カール・バルトはその一人である。(1頁)

真っ先にバルトを挙げておられるのは意外です。たしかにバルトは二十世紀のプロテスタントを代表する神学者であって、広い意味では当然先生にも影響を与えてもいるでしょう。ただ、もし現在先生がこの頃をふり返られた時、はたして同じような言い方をされるかどうか。

 たとえばこの後の文章でも、

もし、今日、誰かが、カール・バルトの神学は不合理主義であると言うならば、彼は不条理な言葉を語っているのである。(11頁)

として、バルトを擁護されていますが、私は先日バルトに対するこれと正反対の先生の評価をお聞きしたばかりです。(「ばかり」といっても、もう1年くらい前のことになりますが……)。そういうバルトに対する先生の態度を見ている者としては、論文の冒頭でいきなりバルトからの影響について語られているというのはとても意外に思えました。

 ただ、その後の頁で先生はバルトに対して批判もされていて、「創造者に対応する被造物における比論が、ただ単にキリストによる特殊な神の言葉を受け取る可能性の中にのみ存在すると主張するバルトの傾向」は、不合理主義と言われても仕方がないと書かれています。(12頁)。

 結局よく読めば、基本的に現在の先生の立場と矛盾することが述べられているわけではないのですが、先生のバルトに対する批判はこの時代からどんどん厳しいものになっていったし、この論文ではほんの少ししか触れられていないブルトマン(「現代状況と福音の理解」の方では大きく取り上げられている)ら実存論的な神学者たちからはより多くのものを吸収されるようになっていったのではないでしょうか。

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