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2008-07-18

良い子たちの読書感想文

 授業は残すところあと1つとなった。夏休みだ。しかし、子どもたちも同時に夏休みに入ったので、研究三昧という具合にはなかなかいかない。

 ところで中一の娘は夏休みに入って大変喜んでいるが、読書感想文を書かなければならないのが苦痛のようである。といっても本を読むのが嫌いなのでもないし、文章を書くのが苦手なのでもない。むしろその二つは本人にとって最も好きなことなのだが、読書感想文というものについては心の底から嫌いなのだ。小学生の頃からそうだった。私はその気持ちはよくわかる気がする。

 だいたい「読書感想文」というジャンルは、大人の世界にはないものである。もちろん書評とか評論の類は大人の読み物の中のかなり大きな部分を占めている。しかし子どもたちが書かされる読書感想文は書評や評論とは違ったものであり、そこでは作品を論じたり評価するのではなく、作品によって動かされることが要求されている。つまり、本を読んで深く感動したり学んだりしなければならないのである。

 確かにある本によって魅了される経験こそが、本来の読書経験なのかも知れない。しかし、人は本を読んでもそうそう感動したり学んだりするわけではないし、まして人から感動せよと言われて出来るものでもない。ところが読書感想文という制度は、はじめからそのような経験を要求しているように思える。だから読書感想文を書くとなると感動や学びを無理矢理作り出さなければならないことになる。またそれはたぶんあるべき一定の小学生像、中学生像にかなったものでなければならない。めんどうくさくなった子どもたちは、あらすじをあらかた書いてから、「……というところが面白かったです」とか、「……にはびっくりしました」という風に適当に付け加えていく手法を取るのだろう。しかし、読書が好きでかつ文章を好きな人にとってそんな文書を書かなければならにことほど苦痛なことはないだろう。

 娘が苦悩しているので、感想文の既成の型にとらわれず、たとえば書評風にするとか、感動なんかしなかったことを書くとか、あるいは作中にその本が登場するような小説の形をとるなどの案を出して見たが、やはり学校に出さなければならないとなると、そういう冒険は出来ないようだ。「学校」という枠組みはその中にいるものにとっては絶大で、卒業してしまった者にはなかなか理解できないものがあるに違いない。いずれにしても、読書と文章を書くことが無類に好きな子どもをこれほど悩ませる読書感想文とは、一体何のためにあるのだろう。本を嫌いな子どもを作るためか?  

 元来、良い本を読んだ人は感想を述べるよりも、むしろその本に触発されて自分の考えを展開したり、新たに創作したりするものではないだろうか。だから大人の世界には感想文などはない。だったら子どもにも感想文を書かせるのをやめたらいいと思う。大人も書けないものを子どもに書かせることが間違っているのだ。                  

 ところで娘が小学校の頃、読書感想文と並んで嫌いだったのが「読書マラソン」と題する読書記録である。本を読んだらその題名と著者名と感想を書くようになっているが、その感想の欄が異常に少なく、細かい字で書いても10数文字がやっとである。娘は大量に本を読むが、それを読書記録につけるのが嫌いで、さらに10数文字で感想を書くのがもっと嫌いだった。それでもしかたなく書いているのを横からのぞいてみると、感想の欄はすべて「おもしろかった」であった。

 読書感想文も読書マラソンも、読書離れを防ぐには全く逆効果ではないだろうか。それより物語そのものを書くことのほうが子どもたちは数倍楽しいだろうし、基本的にそういうものの方が得意でもあろう。また、必要性という点から言えば、作文や読書感想文なんかより、論説文の練習をもっとした方がいいだろう。その場合、子どもはきっと何を主張すべきかが分からないだろうし、へたをすると主張すべき事をまたねつ造することになるに違いないから、何を主張すべきかには重点を置かずその主張をいかに文章で正確に表現し論証するかという点を訓練したらよいと思う。

 今気づいたんだけど、この記事はpensie_log氏の記事「良い子たちのレポート」と関連があるに違いない。こういう感想文を書かされた子たちが、あんなレポートを書くようになるのではないか。

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