« キリスト教色? | トップページ | なんだ、そうだったのか »

2008-11-08

スカラ座で映画を観る

 文化の日に、近くの映画館に「靖国」を観にいった。

 この映画館は、私の町K越に唯一の映画館だが 、同時にS玉で一番古い映画館でもある。この町にはもう一つホームラン劇場(仮称)という映画館があったが、Sヶ島やHJ野などに出来たショッピングセンターと一体化した新しいタイプの映画館に客をとられてついに閉鎖され、残ったスカラ座もいよいよかと思われたのだが、地元で保存運動が起こり、現在では有志の人々の出資によって再出発して今に至っている。

 近頃は路線を変えて、主としてミニシアターPhoto_3 系のものをやってくれるようになった。これまで見たい映画があっても銀座あたりまで行くには暇も金もないということで見送ってきたような映画も、歩いて4,5分ならかなり行く機会が出来るわけである。かつてのIK袋の文芸座や、今もあると思うがUR町の並木座などを思い起こさせるなつかしい雰囲気を味わうことができる貴重な映画館である。

 「靖国」は今年の春に上映中止が相次ぎ、社会問題化した話題の映画だが、そうした事件をめぐる議論について私はほとんど知らない。気になってはいたが議論をフォローできないまま今にいたってしまった。映画館にあったチラシによるとそれらの論争をまとめた本が出ているようなので、そのうち読んでみようとは思っている。いまそういう議論を全く知らないままでの率直な感想を書き留めておこう。

 取材・制作した李纓監督が靖国神社と日本の政治のありかたに批判を持っている人であることは間違いないし、それは映画を見ればはっきり分かることである。ただ、そうした批判的なメッセージを届ける手段として映画を用いるということを必ずしもこの人はしていないと思える。靖国への批判よりもむしろ批判の対象である靖国を理解しようと努めている事の方が私には目についた。

 8月15日の靖国の喧噪は見物である。実に様々な団体が、いろんな服装でやってきて、思い思いのやりかたで参拝をしていく。カメラはここまで近づけるかと思うくらい、これらの人物に密着して撮影している。右翼系のこわそうなおじさんが大きな声で号令をかけながら、カメラに右手でどけどけとやるのだが、それが「ちょっと、駄目だからね」みたいな優しい感じなのが面白い。

 神社にやってくる人々の多くは日章旗を掲げているが、中には星条旗を持った意図不明なアメリカ人もいて、サングラスをかけ手には「小泉首相に賛成です」とか書いた紙を掲げて笑顔を振りまいている。人々の反応は様々で、日章旗をもったグループが彼に握手を求めるかと思えば、「こんなもんをここにもってきちゃいかん」としかるおじさんもいる。結局はこわい顔をした人たちにかこまれて、警察につまみ出されてしまった。紙袋をもって駅へ向かう陽気なアメリカ人。

 また、おそらく拝殿の右側にある休憩所で、おばさんが二人が小泉首相の靖国参拝を話題にしているのだが、録音状態が悪くて会話内容がよく聞き取れないものの、ちまたでよく聞くよなというようなごく一般的な日本人の考えを代表しているもののように思われる。ただ、この二人が互いに話しながら、お互いの話をあまり聞いていないのが面白い。人の会話ってそういうところがある。

 もちろん、靖国神社にはこの施設のあり方に批判的な人々もやってくる。こちらは8月15日ではなかったが、高金素梅さんをはじめとする台湾の人たちが浄土真宗のお坊さんと一緒にやってきて、台湾人の合祀を取り下げるように訴えている。戦争に徴用され戦死させられた台湾人を遺族の意志を無視して勝手に合祀しているのだから、これは明らかに個人の権利を侵害する行為である。そもそも国と関係の無いはずの宗教団体が政府しか知らないはずの台湾人の戦死者の情報を知っているという点からしても大変な問題である。

 フィルムは、こうした場面を詳しい説明なしにつなぎ合わせていく。もちろん、このつなぎ合わせる行為そのものの中にも、また戦時中の日本兵による残虐行為の写真などをオーバーラップさせる手法などの中にも、作家の批判的な意図は十分こめられているわけだが、全体としての作品から感じ取られるのは単なる批判というよりも、靖国の根源にある正体の知れない何かをつきとめたいとする努力であるように思えた。

 とくにそれが感じ取られるのが、靖国神社で繰り広げられる喧噪とは別に、それらの場面のあいだに挿入されるある年老いた職人の映像である。靖国神社に奉納される刀を作りつづけている匠である。靖国には「英霊」が祀られているとされているが、そのご神体は実はそうした日本刀なのだという。この日本刀を何十年にもわたって孤独に作り続けているというのである。穏やかな人で、カメラの前で黙って坦々と仕事をしている。

 監督自身が職場に入り、真っ赤に燃える炉とその前で行われる作業をつぶさに撮影しながら、その合間に匠から話を聞く。刀や作業については多少話がはずむものの、靖国をどう考えるかについて問うと、とたんに無口になる。顔から表情が消え失せ、言葉をさがすことも諦めてしまったように、ひたすら宙を見つめたまま固まってしまう。次に何か問いかけをされるまでそのような気の重い沈黙がつづく。その繰り返しである。

 監督は言葉によってこの年老いた匠から何かを聞き出そうとする。しかし、一番知りたいことは決して匠から言葉としては出てこないのである。靖国の根深いところまで掘り下げていこうとすると、最後はこのような言葉に出来ない思いとか、語り得ない事柄といったものにぶちあたることになる。それらは理解しようとする者がそれ以上踏み込むことを拒む。そして、そうしたものは必ず神秘化され神聖化されて、不可侵のものとされてしまうに違いない。靖国へ向けられるあらゆる批判は、あの真っ赤な炉の中に溶かし込まれていってしまうようなのだ。

 しかし、語り得ない事は本当は決して神秘的なことなのではない。どんな民族にもそれぞれの語り得ないことがある。それはあたりまえの生の事実なのだ。そして他者と関わり会う場では、それぞれがそのような語り得ないものを内にいだきつつもあえて言葉を語り、他者の前に理解可能な者として自分をさらすということ、誤解を覚悟して自分を客体化することが必用である。日本人はそのような作業を、日本の戦争責任を問う他国人の前でやってきたと言えるだろうか。あの台湾人女性は語り得ない思いを持ちながら、あえて敵の前でそれを語っていた。それに対してわれわれはただ沈黙で答えるのだろうか。

 靖国の核心を捉えようとして、この日本在住の中国人監督が匠に肉薄するが、ついには分からなかったのではないか。私にはこの映画はその分からなさを強く印象づける作品だった。そして、仮にそれが中国人の監督に永久に分からないとしても、それは日本人が靖国を正当化する口実には決してならないということをも強く感じさせられたのである。

|

« キリスト教色? | トップページ | なんだ、そうだったのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« キリスト教色? | トップページ | なんだ、そうだったのか »