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2010-06-27

W杯がくるたびに

 8年前の春、野呂先生と再会した頃、世間は日韓共同開催のW杯で沸いていた。野呂先生とサッカーはたぶん何の関係もないと思うが、私の中ではリンクしてしまっている。立川で久しぶりにお会いした先生は、なんとジーンズ姿であった。その後、軽食をごちそうになり、先生が豆大福さんと始められようとしていたユーカリスティア教会へ向かった。ビルの一室を借りたばかりの教会に案内されたとき、まだ準備中のがらんとした部屋の床に座り込んでコンビニ弁当を食べていたのが、やはり長らくお会いしていなかった豆大福さんだった。これからもW杯の時期が来るたびに、あの立川のモノレールの駅の光あふれる光景やユーカリスティア教会の青いカーペットのひかれた床を思い出すことだろう。

 ところで、野呂先生の神学についての雑誌に短文を書くために、ここのところ先生の著作を通読している。これまで先生の著作については、古いものも新しいものもまぜこぜにいわば乱読してきたので、順序を追って、あるいは系統立てて研究したことがなかった。今回それをやってみると改めて先生の神学的な思索の中で、何が変化進展していったのか、何が本質的で変わらないままなのかということが、前よりもだいぶ理解できてきた。雑誌に書けるスペースはほんとにちょびっとで、あふれる思いをとても書ききれない。フラストレーションがたまりそうなので、久々にブログを利用して思いつくままに書き連ねることにする。

 野呂先生は一つの場所にとどまっている思索者ではなかった。40代ですでに日本の神学史に残る仕事をされたが、その後の仕事も、すでに確立した立場を変奏していくというようなものではなかった。1980年に発表された『神と希望』(以下『希望』と略す)では、『実存論的神学』(1964)(以下『実神』と略す)や『実存論的神学と倫理』(1970)(以下『実倫』と略す)での思索がなお強靱に持続されつつも、そこには見られなかった全く意外な新しい展望が開かれている。

 私が大学で野呂先生に出会った80年代の終わりは、この新しく開けた展望をさらに広げようとして模索されていた時代である。私は先生の講義で神学のいろはを習い、同時に先生の代表作である『実存論的神学』を読んでこの世界にのめりこみはじめてた。その頃の私にとっては、野呂神学とは何と言っても『実存論的神学』であり、しかも特にその前半の方法論的な面に魅了されていた。それは、並行して読んでいたブルトマンの聖書解釈の方法論と軌を一にするものであり、ブルトマンに一定の修正をほどこしたポスト・ブルトマン学派に近い路線であるように思われた。

 他方で私は、先生の講義やゼミを可能な限り全て履修したが、そこで取り上げられていたテーマは、たとえば地蔵信仰であり、山梨県の丸石神であり、ルルドの聖母信仰であり、さらには巣鴨のとげ抜き地蔵であった。また『神と希望』をテキストにしたゼミでは、輪廻転生を主題とした先生の論文が取り上げられたが、先生がこの論文の出来には自分としてはたいへん満足しているということを言われていたのが印象に残っている。このように退官間際の先生の講義やゼミには先生の「今」が色濃く表れていた。それは現在進行形のものだった。しかし、『実神』に熱中し、史的イエスと信仰のキリストといったテーマにのめり込んでいた当時の私にとっては、そうしたテーマには正直あまり興味が持てなかった。輪廻をテーマにした論文よりも、私にとっては史的イエスの問題を扱った初期の論文のほうがはるかに重要に思えた。先生はなぜそんなものに熱中されているのか、さっぱり理解できなかったのである。

 戸惑う私たちをおいて、先生は大学を退官された。その後、先生は大学からはきっぱりと足を洗い(この表現でいいのか?)、非常勤とか講演で時々来られるといったことも全くなかったので、先生にお会いする機会はほとんど無くなってしまった。後から聞くところによればその頃の先生は、人生から隠遁するどころか人生の嵐のまっただ中を歩んでおられたわけであるが、私たちの目の前からは先生は完全に姿を消されてしまったのであった。

 先生の退官後、私はもっとも関心があり解決しなければならないと考えていた解釈学の問題に集中していった。それは神学固有のテーマというよりは、哲学や人文科学全般に共通する問題であって、私は神学の領域からは距離を取るようになっていった。もちろん、その後もことあるごとに先生の著作は参考にしており、自分は神学の問題から来たのだからいつかはそこに戻ることになるだろうと思っていたが、解釈学の問題はまたそれはそれで一筋縄ではいかない代物であったから、当面はそこから離れるわけにはいかなかった。

 そして私が神学の問題に帰ってきたのは、8年前の春に先生と再会したあの時なのである。先生によって神学を知った私は、またしても先生によって神学に立ち戻った。しかし、しばらく先生と話しをしていて感じたことは、先生の思想は大学におられたころのものからさらにまた違っているのではないかということだった。その後、立川から西東京のご自宅に場所を移して行われるようになった聖書研究会に、私も出席させていただくようになった。そこで語れていた内容は驚くべきものだった。とりわけグノーシス思想についての先生の傾倒ぶりには戸惑いを隠せず、何度か質問をしたことを覚えている。西部線の下り電車に揺られながら、茫然自失で帰途につくことも度々だった。

 ここで整理してみたい。前期野呂神学を代表するのが『実神』および『実倫』であるとすると、後期野呂神学は『希望』および大学を退官される1991年に出た『キリスト教と民衆仏教――十字架と蓮華』(以下『蓮華』と略す)で代表されるだろう。その後先生は、1995年に『キリスト教の本質』(以下『本質』)、1996年に『基督教神学と開けゆく宇宙』(以下『宇宙』)を立て続けに出版された。この二つの著作は100頁に満たない小さな書物だが、上記の本格的な専門書とは違って、一般の読者むけにわかりやすい言葉で語られており、何よりも前期と後期の思想を一望のもとに振り返りながらまとめられている点が、野呂神学全体を理解するには大いに助けとなる二冊である。しかしこれらの著作がカバーしているのはすべて1996年までの思索である。それはいわば20世紀の野呂神学である。だが、野呂神学には21世紀の思想が10年間もある。私が生身の先生から講義を受けたのもこの最後の10年間のことである。そしてそこで聞いたことの多くは、上に述べたどの著作にも出ていないのである。

 最晩年の野呂先生の思索が新しいものを含んでいるに違いないことは、目が悪くなられも拡大鏡を使って新しい本を次々に読んでおられた先生の姿を知る者としては当然のよう思われる。いつだったか講義の後の受講生とが長引いたことがあり、先生が「わたしはちょっと失礼します」と言って、階下へ降りて行かれたことがあった。しばらくして、帰宅するために階下へ降りると、先生は玄関前の狭い場所に置かれてあった機械で文庫本サイズの本の1頁を大きく拡大して熱心に読書されているところだった。たしか聖フランチェスコについての本だったと思う。そして、「ああ、やっぱり○○○○も読まないと駄目かあ」とつぶやかれたのが強く印象に残っている。それはあれもこれもと必要な本を読まなければならない大学院生のような台詞であり、これだけの学識を持ち、すでに大方のことは分かってしまっておられるはずの先生が、なおもそのようなみずみずしい勉強への意欲をもたれているということに感動を覚えたのである

 このような読書によって常に新しい知識を求め、それを咀嚼してご自分の洞察を新たにしつづけておられた先生だから、10数年も時間があれば相当のこと多くのあたしいことを考えておられたに違いないのである。最晩年の思想をまとめた著作は残念ながらついに出なかったが、豆大福さんのもとにはその頃ご自宅で開かれていた講義や研究会の膨大な録音データがあるはずである。それから、豆大福さんもブログで言及されている『実存論的神学』の改訂版がある。豆大福さんによればこの改訂作業は2001年頃に行われていたというから、『本質』や『宇宙』以後の先生の思想が反映されている可能性がある。とくに前期と後期の思想の異同に関心がある者としては、『実神』で語られていた思想のうちどの点に手がくわえられているのかはきわめて興味深いところである。

 だが、今この最晩年の神学的展開については、それらの資料が何らかの形で発表されるまで待つしかない。実際はとても待てないので何か秘密の手段を使ってそれを探りたい(といっても豆大福さんにわがままを言ってみせてもらうしかない)が、いずれにせよ今はすでに発表されているものだけをもとにして先生の思想の全体像を追いかけるしかない。

 そう思って手元にある著作を初期のものから順に読んでいるわけなのだが、その感想を端的に言えば、先に述べたのとは逆に、野呂先生は昔から決して変わられたのではないということである。もちろん、後になって現れた神学的な主張はいろいろとあるのだが、それが出てくる必然的な動機はすでに初期の思想の中に十分その萌芽を見いだすことが出来る。野呂先生が「神学に生きる」その根本的な動機という点においては、おそらくいささかも変わっておられないのである。

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