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2011-04-27

「未曾有」から出発する神学

 野呂先生が亡くなられて1年が経った。このブログも長らく更新していない。もともと「文明と宗教」研究会のためにつくったブログだったが、いつのまにか野呂先生のホームページの管理日誌のようになっていた。でも、先生が亡くなられてからついそれも遠のいていた。もう誰も、本人さえも見ていないのだが、それでも1年経ったのだから先生への思いをつづろう。

 先生はいまごろどこで何をされているのだろう。輪廻転生を信じておられた先生だから、天国からわれわれを見守ってくださっているわけでもないだろう。では草葉の陰からだろうか? 「欣求浄土」と書いておられたから、遠い西方の世界だろうか? いずれにしても、われわれを見守ってくださっているというのはどうも先生らしくない。弟子はつきはなして各自の主体性に任せるというのが先生らしい。だから今頃は多分、ご自分の研究か、あるいは何かの蒐集に熱中されている気がする。

 ただ、どこからかは知らないが、今回の大震災は見ておられたのではないか。津波が去った後の破壊された町は、若き先生が家族を失って立ち尽くしたあの大空襲の後の下町の風景をいやでも思い起こさせる。なぜ罪のない人たちがこんなに無残に死ななければならなかったのか。どうして人間はこんなに情け容赦なくただのモノのように扱われなければならないのか。

 梅原猛さんは、これまで自然との共生という意味で草木国土悉皆成仏という思想に注目してきたが、今回の惨状を見て自然の想像を絶する恐ろしさを教えられたと語っている。(『毎日新聞』2011年4月1日夕刊)野呂先生の場合には、こうした災害はその思想の中で「想定内」だった。というよりこうした災害のまっただ中から先生の思考ははじまっていた。悪の問題を野呂先生と議論した時、悪は人間の自由や主体性から生じると言う私に、先生は自然災害はどうなるのかとおっしゃったことを思い出す。

 聖書の中には、神が人間への罰として自然災害をおくるという記事が少なくない。たとえばノアの洪水の話がそうだ。ノアの視点から見れば、それは神の恵みの選びの物語に違いない。しかし、洪水に飲まれてしまった人たちから見るとそれは恐ろしい粛正の物語である。彼らの大部分は悪にまみれていたかもしれないが、なにしろノアの家族以外は誰も助からなかったのだから、洪水に飲まれた者たちの中には何も知らない生まれたての子どももいたはずである。あまりにも過酷な罰と言えないだろうか。

 今回の震災によって、わたしは先生のライフワークであった悪の問題を少しはリアルに感じることができるようになったかも知れない。震災後の世界にも、この不条理に果敢に戦おうとする人々の連帯する力と、それを拒む様々な力とが交錯している。私自身の中にもその両方があって、葛藤しているようである。善と悪の戦いというのは何か幼稚な思考のように思えるかもしれないが、むしろそれはリアルな現実なのかも知れない。

 「未曾有」という言葉が多用されているが、この未曾有の出来事を当然の前提としてそこから思考している野呂神学を頼もしく思うとともに、野呂先生は亡くなったが野呂神学の研究はこれから始まるのだと言いたい。

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