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2012-02-29

実存論的神学の確立(6)

 第3節はフリードリッヒ・フォン・ヒューゲルを中心に論述されるが、ここでも相当な改訂がなされており、しかもフォン・ヒューゲルの思想についての野呂師の評価はこの時期に大きく変化したと言えるので、その考察は少し時間をかけて行う必要がある。ここでは今の時点で言えることを少しだけ書いておこう。

 ここに「フリードリッヒ・フォン・ヒューゲルの神学」という論文のコピーがある。これは1958年に『基督教論集』に載ったものである。この雑誌は青山学院大学文学部の紀要で、創刊は前年の1957年である。この創刊号は野呂師の英語論文 "The Theology of Friedrich von Hugel" を載せている。これは1955年提出の博士論文"Impassibilitas Dei"のPart III を元にした論文である。そして1958年の論文はこの英語論文の前半部分を邦訳したものである。

 1958年と言えば、カール・マイケルソンが日本に滞在した年である。このマイケルソンとの交流が野呂師の思想的転換の大きな要因の一つとなったことは既に述べた。しかし、当然かも知れないが、この年に出た「フリードリッヒ・フォン・ヒューゲルの神学」には、まだその転換は現れていない。

 論文の冒頭部分では、それまでに自分の神学形成に影響を与えた神学者たちが列挙されるが、まず第一はカール・バルトである。神学的思惟における啓示の中心性という点でバルトからの影響は大きいという。次に挙げられているのがエドウィン・ルイスである。ルイスからは啓示の内容の理解について影響を受けたとしている。ただ、ルイスの神観については、それが悪の問題の解決と密接に関連しているとしながらも、それに全面的には賛成できないことが述べられている。

わたしは此のようなルイスの思索が信仰の確かさを奪うことをおそれるのである。(『基督教論集』第6号1958年、1頁)

これまでにも述べてきた通り、このルイスへの疑念が実存論的神学へ踏み切ることによって解消されたのである。

 ルイスに次いで挙げられる神学者の名は、ニコラス・ベルジャーエフ、パウル・ティリッヒ、ラインホルド・ニーバーであり、人間の自由の重要性や現代における護教論が如何にあるべきかといった点を彼らから学んだという。そしてその後に挙げられるのがフォン・ヒューゲルである。次のように書かれている。

以上挙げた神学者の誰も私の神観形成に、フリードリッヒ・フォン・ヒューゲルほどに影響を与えなかったのである。(同上、2頁)

私はこの論文を最初に読んだ時、フォン・ヒューゲルにこれほどの評価がなされていることに少々驚いた。『実存論的神学』の「時と永遠」で集中的に論じられてはいるものの、後年の『神と希望』などでの言及はそれほど多くはないからである。その理由はおそらく、これが出版された直後に野呂師の思想に起こった大きな方向転換である。

 前にも述べたように実存論的神学へ大きく舵を切ることになった「実存論的なキリスト論への試み」は、翌年の1959年に書かれている。そこでは、フォン・ヒューゲルの神学の存在論的な傾向に決別することが宣言されているのだから、1958年から59年にかけての時期が野呂師の神学形成におとっていかに決定的であったかが想像できよう。英語論文の前半を訳出したこの論文の後半部分の邦訳がついに発表されなかったのもこの方向転換のためだろう。

 このようにみていくと、今検討中の「時と永遠」の第3節が相当書き換えられているのは当然であり、第2節と同様、第3節の検討も実存論的神学の確立を考える上で重要であろう。(つづく)

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実存論的神学の確立(5)

 ルイスの摂理論は、「救いの確かさ」を危うくするのではないかという疑念は、実存論的神学の立場を取ることによって解消したと言える。ではキリスト論の問題はどうなるのだろうか。「混合なく、変化なく、分割なく、分離することなき両性において」神と子は一つであるというカルケドンの立場からすれば、子が負った苦難は父なる神ご自身の苦難となってしまう。1956年にはそのような事態を避ける意味でも、「時と永遠の相違」が支持されていたのであった。

 ルイス自身もこのカルケドンの立場を堅持する。しかし同時にルイスは「時と永遠の質的差異」の立場を退け、時の延長として永遠を考える。したがって、ルイスの場合には、子なる神が体験する苦難は神の本性にまで及ぶことになってしまう。こうしてルイスは神の受苦説の立場に立つことになるのである。

 この神の本性が苦しみを含むという点が野呂師には決して受け入れられない。これは『実神』でも変わらない。では師がルイスの摂理論を受け入れ、「時と永遠の相違」の考えを退けることが出来たのはなぜか。それはキリスト論についての新たな解釈に立つことが出来たからである。この新たなキリスト論が確立された論文が、1959年の「実存論的キリスト論の一試み」である。

 この論文は恐ろしく濃密な内容を持つ論文であり、それ自体で相当に錯綜している古代教会のキリスト論争について、現代の神学者たちが行うさらに錯綜した議論を整理しながらの理論構築の作業は実にタフな仕事と言わざるを得ない。しかし、この粘り強い思索によってはじめて、実存論的な発想で神学を成り立たせることが可能であるとの確信を若き野呂芳男は得たのである。(1)で引用したように、「この論文を契機として、今までの私の立場から抜け出たと言ってよいのではないか」と書かれているとおりである。

 この論文は後に『実神』の第6章に組み込まれるが、それを読むと、このキリスト論から、復活理解、三位一体論、贖罪論が次々に展開されている。師は体系的な神学の書き方を終生されなかったが、もし野呂神学の組織だった各論が展開されるとしたら、この部分はその基礎になるであろうと思われる。そしてもちろん、『神と希望』などの後年の著作では、ここで短く展開されている各論について、さらに深い掘り下げと改訂の作業が重ねられていく。そういうわけで、実存論的神学の確立について考える上でも、またその後の野呂神学の展開について考える上でも、この1958年の論文は基本となるべきものであって、注意深く検討することが必要だが、それはもっと後で本格的に行うことにする。ここでは1956年の「時と永遠」の論文の残る第3節について検討しなければならない。(つづく)

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2012-02-27

実存論的神学の確立(4)

 今やっているようなテクストの細かい異同の確認作業は、きっと多くの人にとって退屈きわまりないだろうが、別に多くの人が読んでくれているわけではないのでかまわず続けることにする。

 前回の終わりに触れた問題だが、クルマンが「時と永遠の質的断絶」という古典的な理解を退けておきながら、神の「予定」を主張するということに対して、1956年論文は疑問を投げかけていた。神が人間の意志的な行動をあらかじめ予知したり、人間を救いにあらかじめ定めたりすることは、神が時間を超越しているからこそ可能であり、それは神が全知・全能であることを意味する。しかし、聖書の神観では、神は時間を超越してはいない。そうすると神は全知でも全能でもないことになってしまう。聖書の神観にはそのような問題があったからこそ、古典神学はギリシア思想を借りて「時と永遠の質的断絶」という議論を導入したのだ。ところがクルマンはこのギリシア的な考えを全否定するにもかかわらず、神の「予定」を言う。これは理屈として成り立たない。これが1956年の時点での野呂師のクルマンへの疑問だろう。

 さて、この第2節では、以上の問題を解決するために、プロセス神学に影響を受けた組織神学者エドウィン・ルイスの論述(Christian Manifesto, 1934)が検討される。そこでルイスは、「『永遠』を『時』の直線的な延長と考えながらも、神の時間に対する支配を、神の時間過程に対する部分的超越ということによって、生かそう」(論文23頁/『実神』337頁)としている。ルイスについて検討されるこの第2節は、『実存論的神学』へ編入される際にきわめて重要な変更がなされている。それはまさに「実存論的神学」の誕生に関わるドラマティックな変更と言ってよい。

 ルイスは神の「全能」に代えて、神の「適応性」(adequacy)という語を使って、この「時の部分的超越」を説明する。このような神観の先駆者としてウィリアム・ジェームズが挙げられているが、ジェームズはそれを将棋指しに喩えている。せっかくだから、ここでそれを引用してみよう。「初心者」が人間であり、「専門棋士」が神である。

将棋盤を前にした二人の男を仮定しよう――一人は初心者でもう一人は専門棋士である。棋士は相手を負かすつもりである。だが相手の駒の現実の動きをどれひとつ正確に予見できない。それでも彼には相手の駒のあらゆる可能な動きが分かっているし、またそれらの動きのおのおのに応じて自分自身の駒をどう動かしたら勝利の方向へみちびかれるかも、あらかじめ分かっている。したがってどんな回りくどい径路をへたあげくにせよ、初心者の王を詰めにするという予定された形で、勝利はまちがいなく棋士の手に記するのである。(『ウィリアムジェームズ著作集2:信ずる意志』福鎌達夫訳、日本教文社、1975年、233-4頁)

初心者は自由に次の手を打つことができるし、専門棋士といえども初心者が次にどんな手を打つかは知ることが出来ない。つまり、この将棋の譬えは、第一に神が「全知」ではなく、人間の行動を予め知ることはできないことを表している。しかし、そのように相手の次の手を知らなくても、専門棋士はあらゆる可能性を念頭においていて、そのつどの初心者の手に対する最善の手を打ち、最終的に必ず勝利する。ルイスの「適応性」とはそういう意味である。

 専門棋士が将棋盤の外からそのゲームを操っているのではないように、神は時間と質的に相違した永遠から人間を支配しているのではない。しかし、神はこの時間の過程の中で必ず人間を救って下さる。それは人間から神に背く自由を奪って無理矢理に自分に従わせるということではなく、人間の主体性を一切そこなうことなく、人間の勝手な行動に傷つけられながらも、最終的に確実に救いへと導くのである。

 このジェームズやルイスの発想は、終生、野呂師の摂理論の基本的な考え方になったと思う。一方で予定論のように神の圧倒的な支配を強調することによって人間の主体性を認めない立場でもなく、他方でニーチェのように人間の主体性を強調するあまり最終的には神を抹殺するのでもなく、さらにはハイデッガーの存在論のように神を人間の存在の根柢としてとらえることでこの問題を解消するのでもない。人格的な神の支配と、人間の自由な主体性の両方を、どちらも割り引かずに生かそうとする態度を、野呂師はまずこのルイスから学ばれたのである。これはわれわれが野呂師から受けついでいくべき実に貴重な神学的遺産である。

 ただ、このようなルイスの主張に対して、とくにその「神の苦難」という考え方に対して野呂師は慎重である。ルイスには「神の苦難」について、①摂理論的苦難と②本体論的苦難という考え方があるが、師は①には賛成し、②には賛成しない。つまり、人間の主体性を重視することによって、神は人間によって裏切られる痛みをどうしても経験することになる(摂理論的苦難)。しかし、そのような経験によって神自身の本性のうちに苦難が入ってきてしまった(本体論的苦難)という考えを野呂師は受け入れることが出来ない。

 この立場そのものは、『実神』でも変わらない点なのだが、1956年論文では、特にカルケドン信条のキリスト論の立場、すなわち「混合なく、変化なく、分割なく、分離することなき両性において」キリストは神と一つであるという立場を堅持しながら、時と永遠の質的差異が保たれれるべきであることが強調される点が『実神』とは異なっている。この立場からすれば、神の本性が苦しみを含むということは否定されなければならない。ルイスの摂理についての考え方は魅力的だが、それを受け入れるなら、時と永遠の質的差異を否定することになり、神の本性の内に苦しみが入ってきてしまうことを認めざるを得なくなる。そのために、1956年の時点で、野呂師はルイスの摂理論を受け入れることを躊躇されているのである。

 カルケドン信条への全面的な忠誠は、この時期の野呂師の大きな特徴である。師によれば、カルケドン信条のような古典的な考え方は、ロマン主義以降には重んじられなくなり、現代ではルイスに見られるような苦しむ神の思想の方がむしろ当然視されている。「永遠」を「時」の延長戦上に見るルイスの考えは、そのような傾向とつながりを持っている。だが、それに対して、「時と永遠の質的相違という思想に、今日顧みられるべき点が全然ないというのは一体正しいことであろうか」(1956年論文29頁)と野呂師は問う。

 「時と永遠の質的相違」は、おそらくそれがあまりに思弁的であるという理由から現代ではあまり意味のないものと考えられがちだが、この教理には実は現代的な意味があるのだと野呂師は主張する。それは「救いの確かさ」について語る上できわめて重要なのである。神が時から超越しており、時に左右されないと信じるからこそ、神による救いを確かなものと信じることが出来る。もし「時と永遠の質的相違」を放棄するなら、この確実さは失われてしまうというのである。この観点からルイスに対して次のような疑問が投げかけられる。

……我々は自らの救いの絶対的な確かさと歴史において偶然的事態に出会う神とを同時に持つことはできない。E・ルイスの神学大系の中で我々が疑問に思う点は、神が人間を救うために歴史の中において新たに起こるあらゆる事態に対処するに足る力を持っておられることと、神が種々の挫折と失望をもたれるとの主張とを一体どのようにして調和しうるかという点である。(1956年論文30頁)

以上のように、1956年論文では、神の不受苦性、カルケドン信条の正統性、救いの確かさの教理などを擁護する視点から、ルイスをはじめとする現代神学の苦しむ神という考え方に抵抗しているのである。

 ところが、1964年の『実神』では、この点についての態度が転換されている。「時と永遠の質的相違」を堅持する宗教改革者たちの「救いの確かさ」に関する議論について触れた次の箇所の改訂は微妙だが、その違いが表しているものは大きい。まずは1956年論文。

即ちキリスト教信仰がその深さにおいて要求するものは、人間の自由の領域である「時」の過程を超越せる「永遠」である。キリスト教信仰の中心教理をまもるためには「過・現・未」は神にとって同時的なものでなければならないのである。(1956年論文30頁)

この文章が『実神』では次のようになっている。

すなわち、彼らによれば、キリスト教信仰の確かさの主張によって、当然、過・現・未という時間の継続と差別とは神においては失われてしまっており、同時的でなければならないものと考えられた。(『実存論的神学』346頁)

両者とも宗教改革者たちの考えを紹介しているが、後者では文章の前後に「彼らによれば……と考えられた」がついている。つまり、1956年の時点では自身の考えにほぼ重なるものとして言及されていた「時と永遠の質的相違」に、『実神』ではもはや同意できなくなっているのである。

 しかし「時と永遠の質的相違」を否定してしまったら、あの「救いの確実さ」の教理はどうなってしまうのだろう。ここに『実神』での決定的な変化がある。第二節の終わりで、1956年論文には無かったウェスレーの義認と聖化に関する論述が挿入される。(346-8頁)。ウェスレーには、ルターら宗教改革者たちとは異なり、義認は人間と神との関係の永遠の側面であり聖化はその時間的な側面であるという理解はない。義認も聖化も徹底的に時間の中での出来事として考えられる。時間においてそのつど神に信頼する中で得られるものが義認である。こうしたウェスレーの考え方は、古典的な「時と永遠の質的相違」の考えかたでは生かせない。むしろルイスの主張した摂理論が必要となってくる。そして「救いの確かさ」について次のように言われている。

救いの確かさは、客観的な確かさではなく、決断の繰り返しの中にありつつ、神への適応性への信頼によって生じる平安なのである。それは人格的な決断の繰り返しそのものの中で体験される平安なのであって、それ以外のとこに客観的な平安がある訳ではない。ルイスの摂理観をこのように発展させたところで、義認や救の確かさの問題を考えるのが本当ではないだろうか。(『実神』343頁)

これは1956年には現れていなかった主張である。「救いの確かさ」という若き野呂師を悩ませた問題は、この転換によって解決された。「救いの確かさ」を客観的に確保することを放棄するのである。客観的な保証を確保するかわりに、神の「適応性」を信頼する。そこに本当の意味で平安がある。

 これは思わぬ解決である。新しい理屈や論理操作を導入するというのではない、むしろ神学という営みそのものに対する態度を変更すること、もっと言えば生き方を変えることによる解決とさえ言いたいくらいである。様々な哲学的・神学的問題の解決は、いつでも問題そのものの解消を含む面がある。実存論的神学の誕生を示すこの論述は、まさにそのような意味での問題の解決というものの本質的な特徴を備えているように思える。

 私はこの論述に実存論的神学の神髄を見る気がする。そしてそれがウェスレーの神学と密接に結びついているという点もきわめて重要である。『実神』の前年に、野呂師の最初の著作である『ウェスレー』(日本基督教団出版局)が出版されており、上のウェスレーに関する論述の注には、その第6章「義認と聖化」が参照箇所として挙げられている。初期の野呂師の神学的苦闘は、ウェスレー研究の深化と相互に関連しながら、実存論的神学の確立へと結実していったのである。(つづく)

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2012-02-25

実存論的神学の確立(3)

 思わぬ論文の発見によって、実存論的神学確立のプロセスがかなり見やすくなってきたが、先に言及した『実神』のもとになった諸論文の話にもどって、このプロセスそのものについてもっと詳しく調べてみよう。

 最初に書かれたのは「時と永遠」(1956)だった。これは、8年後にその主要な部分が『実神』の第7章「時と永遠」に組み込まれることになる論文である。しかし、実際に読んでみると、われわれが親しんきた『実神』の「時と永遠」とはかなり異なっている。『実神』に組み込むにあたっては、相当な加筆と修正がなされたのである。

 しかし、これは、先に述べた事情からすると当然である。前回述べたように、この論文が発表されて半年と経たないうちにカール・マイケルソンが来日し、彼との交流がきっかけとなって野呂師は実存論的な神学の方向に大きく舵を切ることになったからである。「実存論的神学」誕生以前に書かれた「時と永遠」が、「実存論的神学」の成果を世に問う著作に編入される場合には、新らたな立場から書き直されるのは自然の成り行きだろう。

 この修正の作業は実存論的神学確立に至る野呂師の思想的な格闘そのものであったはずだから、この二つの論文を比較検討することによって「実存論的方法論確立の苦悶」の様子をより生々しく知ることが出来るにちがいない。実際、「時と永遠」の改訂作業はかなり複雑で微妙である。その点に関しては、『実神』に組み込まれた論文の中でも群を抜いているように思われる。自ら「苦悶」と言われているだけの格闘を、この時期の野呂師が体験されたことがひしひしと感じられるのである。

 すぐに分かる両論文の違いは、節の構成である。1956年論文には四つの節があったが、『実神』論文では三つになっている。前者の第四節は、主として哲学と宗教との関係について述べられていたが、このテーマについては『実神』では他の章で新たな立場から詳しく扱われているためか、全て省かれている。そして、第四節の結論部分、すなわち「祝福の神」に関する論述は第三節の終わりに付け加えられている。ただし、この結論もやはり新しい立場から重要な修正を受けている。(これについては後述する)。

 さて、まず第一節の冒頭部分だが、『実神』には1956年論文にない文章が挿入されている。そこでは「時と永遠」のテーマを扱うに際して、時と無関係にその外側にあるものとしての永遠については語らないという態度表明が示されている。約8年前に扱った問題を、実存論的神学の立場からもう一度検討し直そうとする姿勢がここに現れている。

 その上で、第一節ではオスカー・クルマンのよく知られた著作『キリストと時』の永遠論が取り上げられるが、この部分については両論文ともほぼ同じ内容である。新約学者クルマンによれば、聖書にはアウグスティヌスなどの古典的神学が取っているような「時と永遠の質的相違」という考え方はない。これは聖書に書かれてあることの確認である。これに対して野呂師がやろうとするのは、その神学的な意味の検討、つまり、「時と永遠」についての聖書の理解から「神とその被造物との関係について理解する」(1956年論文20頁/『実神』334頁)ということである。

 野呂師によれば、アウグスティヌスの「時と永遠の質的相違」の背後には古典的な神観がある。それによれば、神は「時間過程のどの一点も、比喩的に言えば神から等しい距離にある」(1956年論文22頁/『実神』335頁)。とすれば、神は時間の経過の中で起こる出来事を、すべてあらかじめ知っていることになる。これが神の「予知」ということである。自然の運行ならある程度予測が可能であるとしても、ある人がどのように決断するのかをあらかじめ知ることは誰にも不可能である。神にそれが可能であるのは、神が時間を超越しているからに他ならない。神の時である「永遠」はわれわれの「時」とは質的に断絶している。

 これに対して、クルマンが明らかにした聖書の「時と永遠」についての理解によれば、永遠とはむしろ、直線的な時間を過去と未来への双方へ向けて無限に延長していったものである。そして神の永遠性とは、この無限の時間を神が支配しているということを意味している。神は、人間が生まれてくるずっと以前から存在し(先在)、その時からあらかじめ人々を救いへと選んでいる(予定)。聖書の理解では、このように無限の時を把握し支配することが神の永遠性なのである。(『キリストと時』前田護郎訳、岩波書店、1958年、54頁以下を参照)。

 さて、1956年論文ではここでクルマンに対する疑問が述べられる。

 我々は、クルマンが「時」と「永遠」との間のいかなる質的相違をも認めることを拒み、そして「永遠」を時の直線的延長としてのみ理解しながら、しかも神の時間に対する支配という考えを持ちうる、その理由を解するのに苦しむのである。……彼の永遠に対する思考よりどのようにして神の予定の概念が出てくるのかが、問題の焦点である。(23頁)

この文章は『実神』では削られている。その理由ははっきりとは分からないが、それがすでに新約聖書に何が書いてあるかという新約聖書学の領域を越えた問いであって、新約学者クルマンに問うよりも組織神学者として自分自身が答えを与えていかなければならないという姿勢を明確にしたかったのかも知れない。いずれにしても、次の第2節において取り上げられるのは、この問題である。(つづく)
 

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2012-02-22

実存論的神学の確立(2)

 入試でしばらく閉館していたR大学の図書館にしばらくぶりで出かけた。今年の秋には新しい大きな図書館が出来るので、ここは図書館としてはもう使われなくなるそうだ。一番古い部分は帯出できない辞典などの資料室になっているが、英国の古い図書館の雰囲気を残していて(多分)、そこで調べ物をするときには時が止まってしまったかのような気持ちになったりもするのだが、そこにももう二度と入れなくなってしまうのかと思うと少しさびしい。

 R大の図書館は閉架式になっていて、ほとんどの資料は地下の書庫に眠っている。カウンター横の狭い階段を下りていくと、そこは地下というよりは穴蔵に近い。ふつうの学生には入れないからとても静かで、一人になって心を静めるためにはとてもよい場所だ。しかし今日は、東京神学大学の紀要である『神学』、および新教出版が出している『福音と世界』という雑誌の1950年代のバックナンバーを捜すためにこの地下にもぐった。

 『福音と世界』からは、野呂芳男「インマヌエル」という論文の他に、「日本の神学と教会の課題」という座談会(高崎毅、大内三郎、渡辺信夫、新美宏、佐藤敏夫、佐古純一郎、野呂芳男)、「日本の神学と世界の神学」という対談(マイケルソン、野呂芳男、熊澤義宣)をコピーすることが出来た。

 『神学』の方からは、前回書いた『実神』の各章のもとになった論文のうち、未見のもの、つまり「時と永遠」(1956)、「ポール・ティリックの存在論」(1960)、それに前回は内容を確認していると書いたが調べてみると持っていなかった「話し合いの問題と神学的認識論」(1957)をコピーした。

 この雑誌の50年代のものには他にもいろいろと面白そうな論文があったが、その中にHPの書誌に出ていない野呂師の文章を発見した。「カール・マイケルソン教授のことども」(『神学』1958年冬・春季合併号、136-138頁)というエッセイだ。先生自身の覚え書きにも、R大退官の時に『キリスト教学』第32号(立教大学キリスト教学会、1990年)に載せられた論文リストにも出ていなかったが、後でよく調べると同号に野呂師が寄せた論文「回想の神学者たち」(14頁)の中にこの論文の名が出ていることに気づいた。さっそくHPにも反映させた

 読んでみると、この文章はその内容からしても、野呂神学の形成過程を見ていく上でのきわめて貴重な証言を含んでいる。たとえば次のように書かれている。

 私がブルトマンに惹かれ、多くの点について教えられながら、彼についてゆけないし、又、ついていってはならないと絶えず感ずるのは私の存在論的な傾向の故なのである。(138頁)

文章の末尾には「昭和三十三年四月記」とある。つまり1958年の春に書かれた文章である。これは米国から帰国してまだ1年と半年ほどしか経たない頃であり、『実存論的神学』出版の6年前である。ブルトマンの実存論的神学に惹かれながらも、それを根本的には是とするわけにはいかないという思いが「ついていってはならない」という自身に言い聞かせるような表現に表れている。

 この年の春、野呂師がドルー大学で親しく交流したカール・マイケルソンが家族を連れて来日し、東京神学大学で講義を担当するために半年間滞在した。ちょうど10歳年上のこの神学者を野呂師は兄のように慕っており、来日中は毎日のように顔を合わせていたいたという(『実神』「あとがき」429頁)。この来日中の若き神学者を紹介するために書かれたのがこのエッセイである。

 来日からおそらく1ヶ月と経たないうちに書かれたこの文章には、ブルトマンに接近するマイケルソンの実存論的な神学に魅了される思いと、従来の自分の立場に踏みとどまらねばならないという思いとが交錯している。野呂師によれば、マイケルソンの立場の「根本的基調」は「存在論への否定的な態度」である。両者が共通に影響を受けたパウル・ティリッヒの存在論的な傾向についても、マイケルソンは「聖書的な使信に忠実でないものとして感じ取っているように思われる」と記している。これに対して、先の引用のように野呂師自身には存在論的な傾向があって、それがマイケルソンやブルトマンに全面的にはついていけない大きな要因であると言うのである。

 ところが、この後半年にわたるマイケルソンとの交流は野呂師の態度に大きな変化をもたらすことになる。『実神』出版の翌年に書かれた「実存論的神学確立の苦悶」(『(興文』1965年12月号、2-5頁)では、この変化についてこう記されている。

……恩師であり友人でもあるこの神学者と、ほとんど毎日のように顔をあわせてわたしは通訳をしたり、彼のために日本語の神学文献を英訳に訳しつつ読んであげたりした。こんなことをしているうちに、彼との神学的対話は、わたしの心の中に決定的な神学的方向を作りあげてしまった。

どのような方向なのか。マイケルソン滞在の翌年に書かれた「実存論的なキリスト論への一試み」(『基督教の諸問題』青山学院大学基督教学会編、1959年、243-275頁)の「後記」が明瞭にそれを語ってくれている。

    私はこの論文を契機として、今までの私の立場から抜け出たと言ってよいのではないかと思う。反省してみる時に、私の今までの立場には二つの傾向が存在していたと考えられる。その一つは、この論文にあらわれているように、ブルトマンにみられるような極めて実存論的な傾向である。もう一つの傾向はフリードリッヒ・フォン・ヒューゲルによって強く影響され、それ以後私の中に生きていた神秘的存在論である。この後者がポール・ティリックの中にある神秘的存在論と共通なものを私に与えて、そして、極めて古典的な神学に私を近づけていたのである。私は今まで、以上の二つの傾向を調和させようとの努力をして来たのであるが、もはやその可能性がないと結論せざるを得なくなった。即ち神秘的存在論は聖書的な我々に決断を迫る人格的な神とどうしても調和し得ないと思うようになったのである。それ故に、私は自分の中にある実存論的な神学の傾向を更に押し進め、私の中にあった神秘的なものを、その実存論的方向によって解釈し直さなければならなくなったのである。このことが此の論文を契機として、これからの私の歩みを決定して行くであろう。

これは「実存論的神学」の誕生を告げる文章と言ってよいのではないだろうか。

 『実神』出版当時の野呂師と学問的交流があった八木誠一先生は、野呂師の追悼論文「野呂芳男氏の神学―前期を中心として」(『福音と世界』2010年9月号44頁)で、「野呂神学の基本的モチーフ」の一つとして「人格主義」を挙げておられたが、神学の基盤を神と人との人格的な応答関係に置き、存在論のうちに置くことを拒否する態度こそが、八木誠一、小田垣雅也、さらには滝沢克巳といった日本を代表する他の神学者から野呂師を明瞭に際立たせる大きな特徴であることは間違いない。『実神』の読者には自明なこの神学的態度は、しかし1958年には退けられ、1959年に始めて宣言されたものなのである。(つづく)

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2012-02-19

実存論的神学の確立(1)

 野呂先生のHPに載せている書誌(Bibliography-A)をより詳細なものに更新した。そのついでに、年代順に見ることの出来る書誌(bibliographyB)のページを作った。先日トロウ氏からもらった先生本人の覚え書きをもとにしているので、かなり正確な書誌になっていると思う。

 22歳の時に提出された日本基督専門学校の卒業論文「ウェスレーに於ける義認と聖化」(1948)からはじまり、その後約60年間で発表された論文、著書、翻訳、対談、講演、口頭発表などを発表年順に載せている。その結果、先生最後の発表論文は、HPに載せた日比野英次氏への回答「人生の諸段階(キルケゴール)について」ということになった。トロウ氏によれば、最晩年に書かれた未発表論文が数編あるということだが、いまのところ野呂先生の最後の論文は日比野さん宛てなのである。

 それはさておき、この年表にそって見ていくと、野呂先生がどの時期にどのような神学的な思索をされたか、そこにどのような思考の展開があったのかがとても分かりやすい。そこでこの年表にそって、若き日の野呂先生が自身の神学を「実存論的神学」として確立していくまでのプロセスを探ってみよう。しばらくは主にこのテーマで書いていくことになると思う。

 先生が学位論文以外に雑誌にはじめて発表された論文は、ウェスレー関係のものを除けば、米国への留学から帰国した1956年に発表された「時と永遠」という論文である。野呂芳男31歳の時である。

 主著『実存論的神学』(以下『実神』と略す)は1964年の出版だが、その第7章のタイトルが「時と永遠」である。これは未確認なのだが、おそらくこの第7章の主要な部分はこの1956年の論文がもとになっているはずである。ちなみに、『実神』の他の章は、ほぼこの1956年からの約8年のあいだに書かれた論文がもとになっているものと思われる。年代順に列挙してみよう。

「時と永遠」(1956)→『実神』第7章「時と永遠」
「話し合いの問題と神学的認識論」(1957)→『実神』第2章「話し合いの問題と神学的認識論」
「実存論的なキリスト論への一試み」 (1959)→『実神』第6章「キリストとしてのイエスの出来事」
「ポール・ティリックの存在論」(1960)→『実神』第4章「ポール・ティリックの神秘的存在論」
「贖罪論の実存論的理解方向」 (1961)→『実神』第6章「キリストとしてのイエスの出来事」
「神学における主観―客観構造の超克」 (1962)→『実神』第5章「神学における主観―客観構造の超克」
「現代状況と福音の理解」(1962)→『実神』第1章「現代状況と福音の理解」
「死後の命」(1963)→『実神』第8書「死後の命」

第3章「啓示と実存」だけが、自作の著書目録に初出が出ていない。あるいはこれだけが書き下ろしなのかもしれない。それ以外の各章は、「ポール・ティリックの存在論」と「時と永遠」以外は、実際に内容を確認しているが、ほぼ主要な内容は初出の論文に含まれている。

 野呂芳男の独自の神学的な立場は『実神』によって確立されたと言ってよいが、それは帰国後約9年間のうちに上記の諸論文に結実した思索によって徐々に形をなしていったことが分かる。(つづく)

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