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2012-02-25

実存論的神学の確立(3)

 思わぬ論文の発見によって、実存論的神学確立のプロセスがかなり見やすくなってきたが、先に言及した『実神』のもとになった諸論文の話にもどって、このプロセスそのものについてもっと詳しく調べてみよう。

 最初に書かれたのは「時と永遠」(1956)だった。これは、8年後にその主要な部分が『実神』の第7章「時と永遠」に組み込まれることになる論文である。しかし、実際に読んでみると、われわれが親しんきた『実神』の「時と永遠」とはかなり異なっている。『実神』に組み込むにあたっては、相当な加筆と修正がなされたのである。

 しかし、これは、先に述べた事情からすると当然である。前回述べたように、この論文が発表されて半年と経たないうちにカール・マイケルソンが来日し、彼との交流がきっかけとなって野呂師は実存論的な神学の方向に大きく舵を切ることになったからである。「実存論的神学」誕生以前に書かれた「時と永遠」が、「実存論的神学」の成果を世に問う著作に編入される場合には、新らたな立場から書き直されるのは自然の成り行きだろう。

 この修正の作業は実存論的神学確立に至る野呂師の思想的な格闘そのものであったはずだから、この二つの論文を比較検討することによって「実存論的方法論確立の苦悶」の様子をより生々しく知ることが出来るにちがいない。実際、「時と永遠」の改訂作業はかなり複雑で微妙である。その点に関しては、『実神』に組み込まれた論文の中でも群を抜いているように思われる。自ら「苦悶」と言われているだけの格闘を、この時期の野呂師が体験されたことがひしひしと感じられるのである。

 すぐに分かる両論文の違いは、節の構成である。1956年論文には四つの節があったが、『実神』論文では三つになっている。前者の第四節は、主として哲学と宗教との関係について述べられていたが、このテーマについては『実神』では他の章で新たな立場から詳しく扱われているためか、全て省かれている。そして、第四節の結論部分、すなわち「祝福の神」に関する論述は第三節の終わりに付け加えられている。ただし、この結論もやはり新しい立場から重要な修正を受けている。(これについては後述する)。

 さて、まず第一節の冒頭部分だが、『実神』には1956年論文にない文章が挿入されている。そこでは「時と永遠」のテーマを扱うに際して、時と無関係にその外側にあるものとしての永遠については語らないという態度表明が示されている。約8年前に扱った問題を、実存論的神学の立場からもう一度検討し直そうとする姿勢がここに現れている。

 その上で、第一節ではオスカー・クルマンのよく知られた著作『キリストと時』の永遠論が取り上げられるが、この部分については両論文ともほぼ同じ内容である。新約学者クルマンによれば、聖書にはアウグスティヌスなどの古典的神学が取っているような「時と永遠の質的相違」という考え方はない。これは聖書に書かれてあることの確認である。これに対して野呂師がやろうとするのは、その神学的な意味の検討、つまり、「時と永遠」についての聖書の理解から「神とその被造物との関係について理解する」(1956年論文20頁/『実神』334頁)ということである。

 野呂師によれば、アウグスティヌスの「時と永遠の質的相違」の背後には古典的な神観がある。それによれば、神は「時間過程のどの一点も、比喩的に言えば神から等しい距離にある」(1956年論文22頁/『実神』335頁)。とすれば、神は時間の経過の中で起こる出来事を、すべてあらかじめ知っていることになる。これが神の「予知」ということである。自然の運行ならある程度予測が可能であるとしても、ある人がどのように決断するのかをあらかじめ知ることは誰にも不可能である。神にそれが可能であるのは、神が時間を超越しているからに他ならない。神の時である「永遠」はわれわれの「時」とは質的に断絶している。

 これに対して、クルマンが明らかにした聖書の「時と永遠」についての理解によれば、永遠とはむしろ、直線的な時間を過去と未来への双方へ向けて無限に延長していったものである。そして神の永遠性とは、この無限の時間を神が支配しているということを意味している。神は、人間が生まれてくるずっと以前から存在し(先在)、その時からあらかじめ人々を救いへと選んでいる(予定)。聖書の理解では、このように無限の時を把握し支配することが神の永遠性なのである。(『キリストと時』前田護郎訳、岩波書店、1958年、54頁以下を参照)。

 さて、1956年論文ではここでクルマンに対する疑問が述べられる。

 我々は、クルマンが「時」と「永遠」との間のいかなる質的相違をも認めることを拒み、そして「永遠」を時の直線的延長としてのみ理解しながら、しかも神の時間に対する支配という考えを持ちうる、その理由を解するのに苦しむのである。……彼の永遠に対する思考よりどのようにして神の予定の概念が出てくるのかが、問題の焦点である。(23頁)

この文章は『実神』では削られている。その理由ははっきりとは分からないが、それがすでに新約聖書に何が書いてあるかという新約聖書学の領域を越えた問いであって、新約学者クルマンに問うよりも組織神学者として自分自身が答えを与えていかなければならないという姿勢を明確にしたかったのかも知れない。いずれにしても、次の第2節において取り上げられるのは、この問題である。(つづく)
 

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