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2012-02-22

実存論的神学の確立(2)

 入試でしばらく閉館していたR大学の図書館にしばらくぶりで出かけた。今年の秋には新しい大きな図書館が出来るので、ここは図書館としてはもう使われなくなるそうだ。一番古い部分は帯出できない辞典などの資料室になっているが、英国の古い図書館の雰囲気を残していて(多分)、そこで調べ物をするときには時が止まってしまったかのような気持ちになったりもするのだが、そこにももう二度と入れなくなってしまうのかと思うと少しさびしい。

 R大の図書館は閉架式になっていて、ほとんどの資料は地下の書庫に眠っている。カウンター横の狭い階段を下りていくと、そこは地下というよりは穴蔵に近い。ふつうの学生には入れないからとても静かで、一人になって心を静めるためにはとてもよい場所だ。しかし今日は、東京神学大学の紀要である『神学』、および新教出版が出している『福音と世界』という雑誌の1950年代のバックナンバーを捜すためにこの地下にもぐった。

 『福音と世界』からは、野呂芳男「インマヌエル」という論文の他に、「日本の神学と教会の課題」という座談会(高崎毅、大内三郎、渡辺信夫、新美宏、佐藤敏夫、佐古純一郎、野呂芳男)、「日本の神学と世界の神学」という対談(マイケルソン、野呂芳男、熊澤義宣)をコピーすることが出来た。

 『神学』の方からは、前回書いた『実神』の各章のもとになった論文のうち、未見のもの、つまり「時と永遠」(1956)、「ポール・ティリックの存在論」(1960)、それに前回は内容を確認していると書いたが調べてみると持っていなかった「話し合いの問題と神学的認識論」(1957)をコピーした。

 この雑誌の50年代のものには他にもいろいろと面白そうな論文があったが、その中にHPの書誌に出ていない野呂師の文章を発見した。「カール・マイケルソン教授のことども」(『神学』1958年冬・春季合併号、136-138頁)というエッセイだ。先生自身の覚え書きにも、R大退官の時に『キリスト教学』第32号(立教大学キリスト教学会、1990年)に載せられた論文リストにも出ていなかったが、後でよく調べると同号に野呂師が寄せた論文「回想の神学者たち」(14頁)の中にこの論文の名が出ていることに気づいた。さっそくHPにも反映させた

 読んでみると、この文章はその内容からしても、野呂神学の形成過程を見ていく上でのきわめて貴重な証言を含んでいる。たとえば次のように書かれている。

 私がブルトマンに惹かれ、多くの点について教えられながら、彼についてゆけないし、又、ついていってはならないと絶えず感ずるのは私の存在論的な傾向の故なのである。(138頁)

文章の末尾には「昭和三十三年四月記」とある。つまり1958年の春に書かれた文章である。これは米国から帰国してまだ1年と半年ほどしか経たない頃であり、『実存論的神学』出版の6年前である。ブルトマンの実存論的神学に惹かれながらも、それを根本的には是とするわけにはいかないという思いが「ついていってはならない」という自身に言い聞かせるような表現に表れている。

 この年の春、野呂師がドルー大学で親しく交流したカール・マイケルソンが家族を連れて来日し、東京神学大学で講義を担当するために半年間滞在した。ちょうど10歳年上のこの神学者を野呂師は兄のように慕っており、来日中は毎日のように顔を合わせていたいたという(『実神』「あとがき」429頁)。この来日中の若き神学者を紹介するために書かれたのがこのエッセイである。

 来日からおそらく1ヶ月と経たないうちに書かれたこの文章には、ブルトマンに接近するマイケルソンの実存論的な神学に魅了される思いと、従来の自分の立場に踏みとどまらねばならないという思いとが交錯している。野呂師によれば、マイケルソンの立場の「根本的基調」は「存在論への否定的な態度」である。両者が共通に影響を受けたパウル・ティリッヒの存在論的な傾向についても、マイケルソンは「聖書的な使信に忠実でないものとして感じ取っているように思われる」と記している。これに対して、先の引用のように野呂師自身には存在論的な傾向があって、それがマイケルソンやブルトマンに全面的にはついていけない大きな要因であると言うのである。

 ところが、この後半年にわたるマイケルソンとの交流は野呂師の態度に大きな変化をもたらすことになる。『実神』出版の翌年に書かれた「実存論的神学確立の苦悶」(『(興文』1965年12月号、2-5頁)では、この変化についてこう記されている。

……恩師であり友人でもあるこの神学者と、ほとんど毎日のように顔をあわせてわたしは通訳をしたり、彼のために日本語の神学文献を英訳に訳しつつ読んであげたりした。こんなことをしているうちに、彼との神学的対話は、わたしの心の中に決定的な神学的方向を作りあげてしまった。

どのような方向なのか。マイケルソン滞在の翌年に書かれた「実存論的なキリスト論への一試み」(『基督教の諸問題』青山学院大学基督教学会編、1959年、243-275頁)の「後記」が明瞭にそれを語ってくれている。

    私はこの論文を契機として、今までの私の立場から抜け出たと言ってよいのではないかと思う。反省してみる時に、私の今までの立場には二つの傾向が存在していたと考えられる。その一つは、この論文にあらわれているように、ブルトマンにみられるような極めて実存論的な傾向である。もう一つの傾向はフリードリッヒ・フォン・ヒューゲルによって強く影響され、それ以後私の中に生きていた神秘的存在論である。この後者がポール・ティリックの中にある神秘的存在論と共通なものを私に与えて、そして、極めて古典的な神学に私を近づけていたのである。私は今まで、以上の二つの傾向を調和させようとの努力をして来たのであるが、もはやその可能性がないと結論せざるを得なくなった。即ち神秘的存在論は聖書的な我々に決断を迫る人格的な神とどうしても調和し得ないと思うようになったのである。それ故に、私は自分の中にある実存論的な神学の傾向を更に押し進め、私の中にあった神秘的なものを、その実存論的方向によって解釈し直さなければならなくなったのである。このことが此の論文を契機として、これからの私の歩みを決定して行くであろう。

これは「実存論的神学」の誕生を告げる文章と言ってよいのではないだろうか。

 『実神』出版当時の野呂師と学問的交流があった八木誠一先生は、野呂師の追悼論文「野呂芳男氏の神学―前期を中心として」(『福音と世界』2010年9月号44頁)で、「野呂神学の基本的モチーフ」の一つとして「人格主義」を挙げておられたが、神学の基盤を神と人との人格的な応答関係に置き、存在論のうちに置くことを拒否する態度こそが、八木誠一、小田垣雅也、さらには滝沢克巳といった日本を代表する他の神学者から野呂師を明瞭に際立たせる大きな特徴であることは間違いない。『実神』の読者には自明なこの神学的態度は、しかし1958年には退けられ、1959年に始めて宣言されたものなのである。(つづく)

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