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2012-02-27

実存論的神学の確立(4)

 今やっているようなテクストの細かい異同の確認作業は、きっと多くの人にとって退屈きわまりないだろうが、別に多くの人が読んでくれているわけではないのでかまわず続けることにする。

 前回の終わりに触れた問題だが、クルマンが「時と永遠の質的断絶」という古典的な理解を退けておきながら、神の「予定」を主張するということに対して、1956年論文は疑問を投げかけていた。神が人間の意志的な行動をあらかじめ予知したり、人間を救いにあらかじめ定めたりすることは、神が時間を超越しているからこそ可能であり、それは神が全知・全能であることを意味する。しかし、聖書の神観では、神は時間を超越してはいない。そうすると神は全知でも全能でもないことになってしまう。聖書の神観にはそのような問題があったからこそ、古典神学はギリシア思想を借りて「時と永遠の質的断絶」という議論を導入したのだ。ところがクルマンはこのギリシア的な考えを全否定するにもかかわらず、神の「予定」を言う。これは理屈として成り立たない。これが1956年の時点での野呂師のクルマンへの疑問だろう。

 さて、この第2節では、以上の問題を解決するために、プロセス神学に影響を受けた組織神学者エドウィン・ルイスの論述(Christian Manifesto, 1934)が検討される。そこでルイスは、「『永遠』を『時』の直線的な延長と考えながらも、神の時間に対する支配を、神の時間過程に対する部分的超越ということによって、生かそう」(論文23頁/『実神』337頁)としている。ルイスについて検討されるこの第2節は、『実存論的神学』へ編入される際にきわめて重要な変更がなされている。それはまさに「実存論的神学」の誕生に関わるドラマティックな変更と言ってよい。

 ルイスは神の「全能」に代えて、神の「適応性」(adequacy)という語を使って、この「時の部分的超越」を説明する。このような神観の先駆者としてウィリアム・ジェームズが挙げられているが、ジェームズはそれを将棋指しに喩えている。せっかくだから、ここでそれを引用してみよう。「初心者」が人間であり、「専門棋士」が神である。

将棋盤を前にした二人の男を仮定しよう――一人は初心者でもう一人は専門棋士である。棋士は相手を負かすつもりである。だが相手の駒の現実の動きをどれひとつ正確に予見できない。それでも彼には相手の駒のあらゆる可能な動きが分かっているし、またそれらの動きのおのおのに応じて自分自身の駒をどう動かしたら勝利の方向へみちびかれるかも、あらかじめ分かっている。したがってどんな回りくどい径路をへたあげくにせよ、初心者の王を詰めにするという予定された形で、勝利はまちがいなく棋士の手に記するのである。(『ウィリアムジェームズ著作集2:信ずる意志』福鎌達夫訳、日本教文社、1975年、233-4頁)

初心者は自由に次の手を打つことができるし、専門棋士といえども初心者が次にどんな手を打つかは知ることが出来ない。つまり、この将棋の譬えは、第一に神が「全知」ではなく、人間の行動を予め知ることはできないことを表している。しかし、そのように相手の次の手を知らなくても、専門棋士はあらゆる可能性を念頭においていて、そのつどの初心者の手に対する最善の手を打ち、最終的に必ず勝利する。ルイスの「適応性」とはそういう意味である。

 専門棋士が将棋盤の外からそのゲームを操っているのではないように、神は時間と質的に相違した永遠から人間を支配しているのではない。しかし、神はこの時間の過程の中で必ず人間を救って下さる。それは人間から神に背く自由を奪って無理矢理に自分に従わせるということではなく、人間の主体性を一切そこなうことなく、人間の勝手な行動に傷つけられながらも、最終的に確実に救いへと導くのである。

 このジェームズやルイスの発想は、終生、野呂師の摂理論の基本的な考え方になったと思う。一方で予定論のように神の圧倒的な支配を強調することによって人間の主体性を認めない立場でもなく、他方でニーチェのように人間の主体性を強調するあまり最終的には神を抹殺するのでもなく、さらにはハイデッガーの存在論のように神を人間の存在の根柢としてとらえることでこの問題を解消するのでもない。人格的な神の支配と、人間の自由な主体性の両方を、どちらも割り引かずに生かそうとする態度を、野呂師はまずこのルイスから学ばれたのである。これはわれわれが野呂師から受けついでいくべき実に貴重な神学的遺産である。

 ただ、このようなルイスの主張に対して、とくにその「神の苦難」という考え方に対して野呂師は慎重である。ルイスには「神の苦難」について、①摂理論的苦難と②本体論的苦難という考え方があるが、師は①には賛成し、②には賛成しない。つまり、人間の主体性を重視することによって、神は人間によって裏切られる痛みをどうしても経験することになる(摂理論的苦難)。しかし、そのような経験によって神自身の本性のうちに苦難が入ってきてしまった(本体論的苦難)という考えを野呂師は受け入れることが出来ない。

 この立場そのものは、『実神』でも変わらない点なのだが、1956年論文では、特にカルケドン信条のキリスト論の立場、すなわち「混合なく、変化なく、分割なく、分離することなき両性において」キリストは神と一つであるという立場を堅持しながら、時と永遠の質的差異が保たれれるべきであることが強調される点が『実神』とは異なっている。この立場からすれば、神の本性が苦しみを含むということは否定されなければならない。ルイスの摂理についての考え方は魅力的だが、それを受け入れるなら、時と永遠の質的差異を否定することになり、神の本性の内に苦しみが入ってきてしまうことを認めざるを得なくなる。そのために、1956年の時点で、野呂師はルイスの摂理論を受け入れることを躊躇されているのである。

 カルケドン信条への全面的な忠誠は、この時期の野呂師の大きな特徴である。師によれば、カルケドン信条のような古典的な考え方は、ロマン主義以降には重んじられなくなり、現代ではルイスに見られるような苦しむ神の思想の方がむしろ当然視されている。「永遠」を「時」の延長戦上に見るルイスの考えは、そのような傾向とつながりを持っている。だが、それに対して、「時と永遠の質的相違という思想に、今日顧みられるべき点が全然ないというのは一体正しいことであろうか」(1956年論文29頁)と野呂師は問う。

 「時と永遠の質的相違」は、おそらくそれがあまりに思弁的であるという理由から現代ではあまり意味のないものと考えられがちだが、この教理には実は現代的な意味があるのだと野呂師は主張する。それは「救いの確かさ」について語る上できわめて重要なのである。神が時から超越しており、時に左右されないと信じるからこそ、神による救いを確かなものと信じることが出来る。もし「時と永遠の質的相違」を放棄するなら、この確実さは失われてしまうというのである。この観点からルイスに対して次のような疑問が投げかけられる。

……我々は自らの救いの絶対的な確かさと歴史において偶然的事態に出会う神とを同時に持つことはできない。E・ルイスの神学大系の中で我々が疑問に思う点は、神が人間を救うために歴史の中において新たに起こるあらゆる事態に対処するに足る力を持っておられることと、神が種々の挫折と失望をもたれるとの主張とを一体どのようにして調和しうるかという点である。(1956年論文30頁)

以上のように、1956年論文では、神の不受苦性、カルケドン信条の正統性、救いの確かさの教理などを擁護する視点から、ルイスをはじめとする現代神学の苦しむ神という考え方に抵抗しているのである。

 ところが、1964年の『実神』では、この点についての態度が転換されている。「時と永遠の質的相違」を堅持する宗教改革者たちの「救いの確かさ」に関する議論について触れた次の箇所の改訂は微妙だが、その違いが表しているものは大きい。まずは1956年論文。

即ちキリスト教信仰がその深さにおいて要求するものは、人間の自由の領域である「時」の過程を超越せる「永遠」である。キリスト教信仰の中心教理をまもるためには「過・現・未」は神にとって同時的なものでなければならないのである。(1956年論文30頁)

この文章が『実神』では次のようになっている。

すなわち、彼らによれば、キリスト教信仰の確かさの主張によって、当然、過・現・未という時間の継続と差別とは神においては失われてしまっており、同時的でなければならないものと考えられた。(『実存論的神学』346頁)

両者とも宗教改革者たちの考えを紹介しているが、後者では文章の前後に「彼らによれば……と考えられた」がついている。つまり、1956年の時点では自身の考えにほぼ重なるものとして言及されていた「時と永遠の質的相違」に、『実神』ではもはや同意できなくなっているのである。

 しかし「時と永遠の質的相違」を否定してしまったら、あの「救いの確実さ」の教理はどうなってしまうのだろう。ここに『実神』での決定的な変化がある。第二節の終わりで、1956年論文には無かったウェスレーの義認と聖化に関する論述が挿入される。(346-8頁)。ウェスレーには、ルターら宗教改革者たちとは異なり、義認は人間と神との関係の永遠の側面であり聖化はその時間的な側面であるという理解はない。義認も聖化も徹底的に時間の中での出来事として考えられる。時間においてそのつど神に信頼する中で得られるものが義認である。こうしたウェスレーの考え方は、古典的な「時と永遠の質的相違」の考えかたでは生かせない。むしろルイスの主張した摂理論が必要となってくる。そして「救いの確かさ」について次のように言われている。

救いの確かさは、客観的な確かさではなく、決断の繰り返しの中にありつつ、神への適応性への信頼によって生じる平安なのである。それは人格的な決断の繰り返しそのものの中で体験される平安なのであって、それ以外のとこに客観的な平安がある訳ではない。ルイスの摂理観をこのように発展させたところで、義認や救の確かさの問題を考えるのが本当ではないだろうか。(『実神』343頁)

これは1956年には現れていなかった主張である。「救いの確かさ」という若き野呂師を悩ませた問題は、この転換によって解決された。「救いの確かさ」を客観的に確保することを放棄するのである。客観的な保証を確保するかわりに、神の「適応性」を信頼する。そこに本当の意味で平安がある。

 これは思わぬ解決である。新しい理屈や論理操作を導入するというのではない、むしろ神学という営みそのものに対する態度を変更すること、もっと言えば生き方を変えることによる解決とさえ言いたいくらいである。様々な哲学的・神学的問題の解決は、いつでも問題そのものの解消を含む面がある。実存論的神学の誕生を示すこの論述は、まさにそのような意味での問題の解決というものの本質的な特徴を備えているように思える。

 私はこの論述に実存論的神学の神髄を見る気がする。そしてそれがウェスレーの神学と密接に結びついているという点もきわめて重要である。『実神』の前年に、野呂師の最初の著作である『ウェスレー』(日本基督教団出版局)が出版されており、上のウェスレーに関する論述の注には、その第6章「義認と聖化」が参照箇所として挙げられている。初期の野呂師の神学的苦闘は、ウェスレー研究の深化と相互に関連しながら、実存論的神学の確立へと結実していったのである。(つづく)

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