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2012-02-29

実存論的神学の確立(5)

 ルイスの摂理論は、「救いの確かさ」を危うくするのではないかという疑念は、実存論的神学の立場を取ることによって解消したと言える。ではキリスト論の問題はどうなるのだろうか。「混合なく、変化なく、分割なく、分離することなき両性において」神と子は一つであるというカルケドンの立場からすれば、子が負った苦難は父なる神ご自身の苦難となってしまう。1956年にはそのような事態を避ける意味でも、「時と永遠の相違」が支持されていたのであった。

 ルイス自身もこのカルケドンの立場を堅持する。しかし同時にルイスは「時と永遠の質的差異」の立場を退け、時の延長として永遠を考える。したがって、ルイスの場合には、子なる神が体験する苦難は神の本性にまで及ぶことになってしまう。こうしてルイスは神の受苦説の立場に立つことになるのである。

 この神の本性が苦しみを含むという点が野呂師には決して受け入れられない。これは『実神』でも変わらない。では師がルイスの摂理論を受け入れ、「時と永遠の相違」の考えを退けることが出来たのはなぜか。それはキリスト論についての新たな解釈に立つことが出来たからである。この新たなキリスト論が確立された論文が、1959年の「実存論的キリスト論の一試み」である。

 この論文は恐ろしく濃密な内容を持つ論文であり、それ自体で相当に錯綜している古代教会のキリスト論争について、現代の神学者たちが行うさらに錯綜した議論を整理しながらの理論構築の作業は実にタフな仕事と言わざるを得ない。しかし、この粘り強い思索によってはじめて、実存論的な発想で神学を成り立たせることが可能であるとの確信を若き野呂芳男は得たのである。(1)で引用したように、「この論文を契機として、今までの私の立場から抜け出たと言ってよいのではないか」と書かれているとおりである。

 この論文は後に『実神』の第6章に組み込まれるが、それを読むと、このキリスト論から、復活理解、三位一体論、贖罪論が次々に展開されている。師は体系的な神学の書き方を終生されなかったが、もし野呂神学の組織だった各論が展開されるとしたら、この部分はその基礎になるであろうと思われる。そしてもちろん、『神と希望』などの後年の著作では、ここで短く展開されている各論について、さらに深い掘り下げと改訂の作業が重ねられていく。そういうわけで、実存論的神学の確立について考える上でも、またその後の野呂神学の展開について考える上でも、この1958年の論文は基本となるべきものであって、注意深く検討することが必要だが、それはもっと後で本格的に行うことにする。ここでは1956年の「時と永遠」の論文の残る第3節について検討しなければならない。(つづく)

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