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2013-11-15

キリストになる?

 野呂師はご自分が公にされた文章は必ず取っておかれたとのことだが、実際に書庫からは論文の抜き刷りやコピーなどが多数出てきた。それらの中には、ホームページに掲載している書誌には入っていない、言わば未知の文章が実に45点もあった。その中には、青山学院時代の教会の青年会の会報といった類の手書きの文集に載せられたエッセイのようなものもあるが、なぜこれが書誌から漏れていたのだろうというような内容の濃い論文も含まれている。

 それらはいずれホームページで紹介出来ると思うが、少し時間がかかりそうだ。せめてタイトルなどの情報だけでも早めに書誌に反映したいのだが、今のところそれさえできないでいる。ところで、私が特に貴重だと思ったのが、1959年に『青山学院高等部新聞』のクリスマス号に載せられた「特別寄稿 意義ある降誕祭を!」という文章である。ここには若き野呂師のキリスト論についての考えが、高校生にも解るように平易に説かれているからだ。

 そこには、「われわれ一人一人がキリストにならなければならない」という衝撃的な一文が述べられている。こうした表現は『実存論的神学』は勿論のこと、これまで私が読んできた師の文章の中にはついぞ目にすることの無かったものである。もしかすると、この文章のみに一度だけ現れた表現なのかも知れない。

 今、くわしくこの一文について検討する余裕を私は持たない。しかし、二つの可能性があると思う。一つは、この表現は野呂師のキリスト論そのものである可能性である。つまり、最終的に『実存論的神学』第六章で高度に学問的なレベルで議論されている野呂師の立場は、平たく言えばこのような一文として表現できるのかもしれない。

 もう一つは、これは1959年の時点での師の考えであって、その後、『実神』(1964)ではそれとは異なった立場が取られるようになったという可能性である。たしかに『実神』第六章のもとになった論文「実存論的なキリスト論への一試み」は、この文章が書かれたのと同じ1959年に発表されている。ならば、この文章で言われていることは『実神』の立場と同一と考えてもよさそうに思える。しかし、この『実神』第六章の原型の論文には、『実神』第六章の中で極めて重要な、カルケドン信条について独自の解釈を述べた部分が無い。それは後から付加されて『実神』の第六章となったわけである。とすれば、高校生に向けられた文章で語られた「われわれが一人一人がキリストにならなければならない」という考え方は、その過程で修正された可能性も簡単には退けられない。

 いずれにしても、私はこれまで『実神』を繰り返し読んで、そこからこのように表現されるようなものが出てくるとは考えたことがなかった。当の文章を公表しないでこれ以上論じても仕方がないので、このへんでやめにするが、『実神』の神学思想から、このように表現される考え方が導かれるものかどうか、これからよく考えて見たいと思う。文章の方も「降誕祭」までにはHPに載せられればいいのだが。

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