2007-08-04

トタンで巡る古都の旅

 S国からの帰りにK都に立ち寄った。K都には修学旅行以来ことあるごとに行っているが、いつも何かの用事があって、観光らしいことはほとんどしていないに等しい。今回ははじめからポイントを決めて、宿もその付近に取り、ゆったりと散歩することにした。

 夕方宿に荷物をおくと、平安神宮あたりから、銀閣寺へ向けて「哲学の道」を歩く。パンフレットには昔西田幾多郎が歩いたのがその名の由来だと書いてある。しかし想像していたのとはかなり違って、西田哲学の雰囲気はすでになく、むしろ彼女とのデートに最適に思える。つまり、なんかカワイイ感じ。私は妻と二人で気持ちよく歩くことが出来た。ただし銀閣寺に着いた時にはすでに門は閉まっており、中を見ることはできなかった。法隆寺の時もそうだったが、すでに門が閉まった後の寺院周辺の不思議な雰囲気が私は好きなので、それはそれで中を見るめんどうがはぶけてよかった。

 それから西へしばらく歩くと左手に黒々とした木々の茂る小山が出現。どうやら吉田神社のようだ。主要道路から一本脇に入って神社の森にそって進んでいると、道端にたたずむ妖婆に声をかけられる。もう歩く時間ではないから、早く帰れと言っている。顔はにこやかだが、ここはおまえたちの来る場所ではないと言っているように思える。私は小学生になったような気分で、「すいません」と謝り足をはやめる。神社がとぎれる間もなくK大の高い塀に突き当たると、裏戸から構内へすべり込む。吉田神社に接しているせいか、K大も含め、このあたりは何か異様な空気がただよっている。わがK越で言えばK高の裏あたたりの雰囲気だ。ああ、こういう環境(どういう環境?)で学生生活を送るK大生がうらやましい。そう思いながら正門から大学を出て、さらに鴨川までひたすら歩く。

 すでに日はとっぷりと暮れて、深い藍色に変化した水面に街の灯が一つ、二つと映っている。食事の出来る店を求めて川の向かい側に渡ったところに垢抜けた教会が一つある。K都バプティスト教会、なんと白頭庵氏の行っているところではないか! O先生のお名前が書いてあるので間違いはない。白頭庵氏は今頃はN古屋だから、ここにはいないだろうが、氏のブログには鴨川を散歩するシーンが出てくる。氏が教会からふらっと川ぞいに出ていく情景を想像する。疲れ切ったわれわれは、教会の前の店で遅い夕食をとることにする。静かでとてもよい店だった。

 全部で5キロほど歩いただろか。おかげでK都の町並みを私なりに堪能できた。いろんな点でK越に似ているが、やはり規模の点で圧倒的であることと、山が近いことが決定的に違っている。歩きながらふと覗き込む横道がいちいち魅力的な表情をたたえていて、こんな横丁がK都中にいくつあるのかと考えると、やはりさすがとしかいいようがない。いつか友人がパリに行ったとき、写真を撮る気がしなくなったと言っていたが、K都も同じだ。撮ろうと思えば、見た物すべてを撮らなくてはならなくなる。

 しかし私にはテーマがあった。トタンだ。トタンという主題があれば、撮影対象を絞ることができる。K都のような街にはたしてトタンがあるだろうかと思っていたが、この点についてもK都はなかなかのものであった。古い町並みにとけ込んでいくつかのすばらしいトタンに出会うことができた。以下、それらを一挙大公開だ。なお、この中には白頭庵氏の教会の近所の物件も含まれている。

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2007-04-03

熱の原因となった朝のジョギングを振り返りつつ、私の住む町を紹介する

 まだまだ熱は下がらない。仕方がないから、またブログの更新だ。ここのところ私としては画期的なペースとなっている。

 今回の熱の直接の原因は、おそらく娘と一緒にやっている朝のジョギングにある。ジョギングの途中、とある公園で休憩した折りに、そこらじゅうに書かれている落書きを見て回るうちに体がすっかり冷えてしまったことがあった。娘はぴんぴんしているが、私の方はどうもあれ以来、徐々に具合が悪くなっていったように思う。

 ジョギングは運動不足解消のために始めた。昔みたいにランニング・ハイの状態になる前に、足ががくがくしてしまうのはやはり長年の運動不足を物語っている。しかしこのへんで何とかしておかなければ、この先ちゃんと生きていけないと思う。

 朝のジョギングはやはり気持ちのいいものである。走りながら目に入る風景がみな昼間とは違って神秘的である。そこでついつい立ち止まって写真をとってしまい、娘に怒られるのである。せっかくだからその数枚をアップして私の住んでいるこの精霊が跋扈する町並を紹介したい。なお、最後のものは、いわゆる「トマソン」である。

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2006-08-28

トタンのある風景

 妹から妻へ誕生日プレゼントにレイ・ハラカミさんののアルバム”lust”が贈られてき た。C721581a_6野顕子さんが「世 界遺産」というだけあって、延々と聴いていたくなるような何とも気持ちがいい音楽だが、ジャケットを見た妻が「夫(私のこと)の撮る写真みたい」と言う。うーん、たしかに他人が撮ったとは思えない。

 一体どういう発想で、こういうジャケ写な のだろう、と思ってハラカミさんのブログを見ると、そこにもトタンが……。お好きなのだろか? こういう立派な芸術家が自分と同じような趣味を持っておられるとすれば、ちょっと嬉しい気分である。

 そこで、この夏撮った「トタンのある風景」を一枚(右)。海辺の街のためか、いい色づき方を104_0488_2 している建物が多く、車に乗っていると、子どもに「お父さん、あちっちにも」 「お父さん、こっちにも」と言われて、「おお、これはすごい」とか「うーん、これはちょっと違うなあ」とか言いながらパニックになっていた。結局、車からなのでほとんど撮せなかったが、朝の散歩の途中に撮ることが出来たのがこれ。錆のぐあいがこのくらいのものは、なかなかこちらには無いので、貴重な物件である。

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2006-07-11

美をめぐる矛盾

 Pensie_log氏の「賞味期限のある美」というエントリーを読んでコメントをしたのだが、私も最近、そういう美に関心を持っている。氏は数十年前に作られたような機械類にそのような美を感じておられるが、私は主にトタンによる建物が気になっているところである。

 デジカメでいろいろと撮り始めたのが3,4年前だが、いつ頃からか古く色づいたトタン建築の写真が増えるようになった。これは、今巷で多く見られる、時を経ても朽ち果てることのない建築物への不満から自然に出てきた行動かも知れない。

 たとえば十数年前から、住宅の壁は「サイディング」と呼ばれる手法が主流である。これは、丈夫な素材で作らた同じ大きさ、同じデザインの板を、次々に壁にはめ込んでいくというもので、数年雨風にさらされてもほとんど劣化しないという長所を持つ。壁を構成する各パーツは、すべて同じ企画の板であるから、壁にはむらがなく、できあがりはちょうどCGで作った建物の画像のようである。こうした壁を持った住宅が密集している場所へ行くと、まるでコンピューターゲームの中に迷い込んだような感覚に陥る。そして、CGが現実を121_2196模倣しているのか、現実がCGを模倣しているのかわからなくなる。

 最初は好ましく思ったことがあったかも知れないが、そういう建物ばかりが目立つようになってくるといいかげん辟易してくるのは当然である。そんな中で、私が無意識のうちに関心を持つようになったのが、トタンで作られた建築物である。と言っても、それは作られたばかりのものでは駄目で、何年かの時を経て、腐食によって適度に色づいたものでなければならない。腐食の度合いによって、実に見事なトタン建築が現れる。

 ちなみに、トタンとは「亜鉛でめっきをした鉄板のこと」である。亜鉛は鉄より腐食しやすいため、まず亜鉛が腐食されることで鉄の腐食を防ぐ。こういうのを「犠牲防食」と言うのだそうである。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) ということは、トタンを使った壁や屋根は、腐食することを前提に作られていることになる。劣化現象を封じ込めようとするサイディングの場合とは正反対なのである。

143_4390 と言っても、トタンの壁は、たとえば塗り壁のように、風雪に刻まれることで美しくなることを計算に入れられているわけでもない。もし美しい家を建てようと考えたら、トタンという選択はなかったはずであり、おそらく費用と実用性という二つの要素に折り合いをつけた結果がトタンであったに過ぎないのである。したがって、トタン建築の美しさの特徴の一つは、作る側はそのような美的効果を意図してはいないし、そもそも美しい建築を作ろうという意識はないだろうということである。その美しさは、作り手が「ほら、御覧、美しいだろう」と押しつけてくることがないぶん、こちらが自由に感じるとることのできるものである。おそらくそこに他にない心地よさの要因の一つがある。自虐的に言えば、自分こそがこの「美」を見出したという自己満足、あるいは「他の奴には分からない」「分かってたまるか」という、「正統」な美へのルサンチマンもあるかも知れない。

 ところで、トタン建築の美しさのもっと基本的な特徴は、それが不可逆的 な時の流れの中で一時的に生み出されるものであり、したがって保存することが本来出来ないないという点にあろう。Pensie_log氏が触れておられるように、そういう美とは「劣化」の別名とも言いうるわけであるが、私が関心をもつのは、朽ち果てていくことが条件になるような美の形だということになる。ただ、この点に関しても美をめぐる事情は一筋縄ではいかない。私はこのトタンのある風景をデジカメで撮影するわけだが、私が撮影して数ヶ月後にその建物が取り壊されてしまったということが何度かあった。私は、取り壊されてしまったことにショックを受け、残念に思う反面、デジカメで撮っておいてよかったと胸をなでおろしたりする。しかし、これは矛盾した感情であろう。朽ち果てていくプロセスだからこそ美しいはずなのに、そのプロセスを電子画像として永久にとどめようとするのだからである。流れるからこそ美しい時の美しさを、「保存したい」という矛盾した欲望。それは「自分が語るのを聞きたい」(デリダ)といった欲望とも関係しているに違いない。

162_6279 流れる時を保存したいという欲望は人類の芸術活動の基底にあるように思うが、この欲望を実現するかに見える家庭用ビデオは、流れる時を保存などしても仕方がないことを教えてくれているようにも思える。わたしも子供の生活を無数にビデオ撮影したが、たまりにたまったテープの山を見て、いったいこれをいつ見るのだろうと感じる。私のビデオカメラはバッテリー量が少ないため、それでも他の人たちに比べると撮影時間はずっと少ないはずである。しかし、24時間連続撮影可能というようなカメラを使っている人は、たとえば運動会の間中カメラを回しっぱなしにすることも出来る。そうやって出来たビデオテープを見るには、運動会とほぼ同じ時間が必要になる。さらに様々な行事のたびにビデオを撮っていると、それを見るにはほとんど人生をもう一回生きなければならなくなる。そんなことをしている時間があったら、今の新しい経験を積み重ねた方がましではないだろうか。それでもついついビデオカメラを回してしまう。そういう馬鹿馬鹿しさが、われわれ人間の存在のありかたのうちにはどうも刻まれているようである。

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