神学の二つのモデル(4)――リクールの聖書解釈学の可能性
ポスト・リベラルの神学は、フライにはっきりと見られるように、歴史主義や相対主義の中の時代にあって、素朴な聖書信仰やキリスト教共同体のアイデンティティーを何とか保持したいとという願いから生まれたものであろう。それが今日の神学に対して投げかけている問題意識を意識しながらも、先に挙げた難点の克服を検討しようとする場合、リクールの聖書解釈学が示唆する解釈学的神学の方向は検討するに価するように思われる。リクールの聖書解釈学もまた、ある意味では聖書の素朴な読みがいかに現代において可能であるかを課題にしていると言ってよい。しかし、リクールはフライのように「字義通り」の読みをそのまま現代に復活させることが出来るとは夢想しない。「批判後の時代」を生きるわれわれが持つことのできる素朴さは「第二の素朴さ」であって、「字義通り」の意味を越えて「象徴的」意味を受容することの中ではじめて可能になるものである。そこには、フライと問題意識を共有つつもフライとは異なった形の聖書解釈のあり方が示されている。
ただ、リクールの解釈学はすでにフライによって「経験・表出」型の神学の典型として批判されているので、まずその点から検討しておくべきであろう。フライは、リクールの解釈学をシュライエルマッハーの解釈学の伝統を受け継ぐ点において「経験・表出」型の神学の典型として考えている。しかし、リクールは象徴の解釈学からテクスト解釈学へと展開する過程で、シュライエルマッハー的な解釈学を「ロマン主義的解釈学」として批判し、筆者と読者との「共通の生」ではなく「テクストが開く世界」に解釈の焦点を置くようになる。そこでは聖書言語は他者の宗教体験を表現したものというよりもむしろ、人が「住むことのできる世界」を提示するものとして理解されている。これはフライやリンドベックが追求するテクストが世界を吸収するという側面なのである。
しかし、リクールの物語論がフライと異なるのは、物語が世界を吸収するという方向だけでなく、物語から世界へ、あるいはテクストから行為へというもう一つの方向がはっきりと描かれていることである。そのミメーシス論は、日常言語によって「先行形象化」された世界に生きるわれわれが、ある物語世界に没入することによってよって「統合形象化」されるという意味においては、リンドベックの言う「内テクスト的」なアプローチを包含していると言える。しかしリクールは、それに加えて、物語のうちで統合形象化された読者の世界が、現実の世界のうちで新たな行為を産みだしていく「再形象化」の段階をプロセスの最後に置いている。このことによって、聖書物語がいかに現実と関わるのかというフライやリンドベックには欠如しがちな課題に取り組んでいるのである。このように見るなら、リクールの解釈学を「経験・表出」型というカテゴリーとして単純に批判することが出来ないばかりではなく、フライやリンドベックの「言語・文化」型の神学の要素をも持ちつつその欠点を補おうとするものであることが分かる。
リクールの解釈理論がフライやリンドベックより優れている点はそれだけではない。フライやリンドベックの「内テクスト性」の概念に対して、リクールが支持する「間テクスト性」(intertextuality)の概念は、同じように文化と言語との密接な関係を認識しながらも、一つの文化=言語が持ってしまうイデオロギー性を批判することのできる原理を持っている。フライらの「物語神学」が、聖書の多様な言述形式の中から、共同体のアイデンティティー形成の基礎となる「物語」ジャンルを特権化するのに対して、リクールの聖書解釈学では聖書の多声性が重んじられ、いくつかのジャンルの並列が重要な役割を果たしている。たとえば、共同体の歴史物語に基づいて現在の共同体のあり方を正当化する傾向のある「物語」ジャンルに対して、共同体のあり方を厳しく批判し、その先に新たな共同体のあり方を志向する「預言」のジャンルは、聖書解釈にイデオロギー批判の視点を与えてくれる。また、リクールは、共同体を超えた普遍性を提示する「知恵」などのジャンルを重視するが、それは「知恵」が聖書自体が普遍的な人間経験への志向性を持っていることを示しているからである。フライに少なからず影響を受けたアメリカの「物語神学」には、福音は哲学的な概念とは関係を持つべきではないとする傾向があるが、リクールはこれを批判し、聖書をある共同体のメンバーにのみ通用するような特殊用語にしないためには、概念化への運動を切り捨てるべきではないと主張している。
最後にフライやリンドベックらに向けられた「キリスト教」とは何かという問題がある。リクールは、物語神学が「聖書物語」をもっぱら「キリスト教的範例」(Christian patern)としてのみ用いようとする傾向に対して、そのような範例が形成されるのは物語的創造がすでに止んでしまった時であるということに注意を促している。リクールにおいても、ある文書群を「正典」とするのは「共同体」である。つまり、「正典」と「共同体」の間には循環の関係が存在する。しかし、それはフライやリンドベックの考えるような閉じられた循環ではない。周辺文書や他の文化に属する文書などが正典文書との間に作り出す緊張が、常に批判的な視点として作用するものと考えられているのである。
リンドベックの提示した類型論は、これまで気づかれつつも明確にされていなかったポスト・モダンにおける神学のあり方をめぐる問題を意識化させてくれたという点において評価されるべきであるが、これを安易に用いることは危険であるし、また彼らが推奨する「言語・文化」モデルに根本的な欠点があって、リンドベック自身も認めているようにその有効性は相対的なものに過ぎない。特にそれが相対主義的な世界観を受け入れてしまった上で、教会共同体の内部に自閉しようする傾向を持っている点を見逃しにすることは出来ない。
以上で、研究発表の準備草稿は終わりである。最後の2回はほぼそのまま当日の発表原稿になるだろう。25分という時間内に収めなければならないので、まるで骨組みだけのような文章になってしまい、自分でも何とも味気なく感じる。特に、リクールとフライを比較する必然性などは、聴いている人には分かりにくいところがあるだろう。ともかく、みなさんにどんどん容赦のないご批評いただいて(少しくらいは容赦もしていただきたいが)、発表に役立てたいと思う。


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