2006-09-07

神学の二つのモデル(4)――リクールの聖書解釈学の可能性

 ポスト・リベラルの神学は、フライにはっきりと見られるように、歴史主義や相対主義の中の時代にあって、素朴な聖書信仰やキリスト教共同体のアイデンティティーを何とか保持したいとという願いから生まれたものであろう。それが今日の神学に対して投げかけている問題意識を意識しながらも、先に挙げた難点の克服を検討しようとする場合、リクールの聖書解釈学が示唆する解釈学的神学の方向は検討するに価するように思われる。リクールの聖書解釈学もまた、ある意味では聖書の素朴な読みがいかに現代において可能であるかを課題にしていると言ってよい。しかし、リクールはフライのように「字義通り」の読みをそのまま現代に復活させることが出来るとは夢想しない。「批判後の時代」を生きるわれわれが持つことのできる素朴さは「第二の素朴さ」であって、「字義通り」の意味を越えて「象徴的」意味を受容することの中ではじめて可能になるものである。そこには、フライと問題意識を共有つつもフライとは異なった形の聖書解釈のあり方が示されている。

 ただ、リクールの解釈学はすでにフライによって「経験・表出」型の神学の典型として批判されているので、まずその点から検討しておくべきであろう。フライは、リクールの解釈学をシュライエルマッハーの解釈学の伝統を受け継ぐ点において「経験・表出」型の神学の典型として考えている。しかし、リクールは象徴の解釈学からテクスト解釈学へと展開する過程で、シュライエルマッハー的な解釈学を「ロマン主義的解釈学」として批判し、筆者と読者との「共通の生」ではなく「テクストが開く世界」に解釈の焦点を置くようになる。そこでは聖書言語は他者の宗教体験を表現したものというよりもむしろ、人が「住むことのできる世界」を提示するものとして理解されている。これはフライやリンドベックが追求するテクストが世界を吸収するという側面なのである。

 しかし、リクールの物語論がフライと異なるのは、物語が世界を吸収するという方向だけでなく、物語から世界へ、あるいはテクストから行為へというもう一つの方向がはっきりと描かれていることである。そのミメーシス論は、日常言語によって「先行形象化」された世界に生きるわれわれが、ある物語世界に没入することによってよって「統合形象化」されるという意味においては、リンドベックの言う「内テクスト的」なアプローチを包含していると言える。しかしリクールは、それに加えて、物語のうちで統合形象化された読者の世界が、現実の世界のうちで新たな行為を産みだしていく「再形象化」の段階をプロセスの最後に置いている。このことによって、聖書物語がいかに現実と関わるのかというフライやリンドベックには欠如しがちな課題に取り組んでいるのである。このように見るなら、リクールの解釈学を「経験・表出」型というカテゴリーとして単純に批判することが出来ないばかりではなく、フライやリンドベックの「言語・文化」型の神学の要素をも持ちつつその欠点を補おうとするものであることが分かる。

 リクールの解釈理論がフライやリンドベックより優れている点はそれだけではない。フライやリンドベックの「内テクスト性」の概念に対して、リクールが支持する「間テクスト性」(intertextuality)の概念は、同じように文化と言語との密接な関係を認識しながらも、一つの文化=言語が持ってしまうイデオロギー性を批判することのできる原理を持っている。フライらの「物語神学」が、聖書の多様な言述形式の中から、共同体のアイデンティティー形成の基礎となる「物語」ジャンルを特権化するのに対して、リクールの聖書解釈学では聖書の多声性が重んじられ、いくつかのジャンルの並列が重要な役割を果たしている。たとえば、共同体の歴史物語に基づいて現在の共同体のあり方を正当化する傾向のある「物語」ジャンルに対して、共同体のあり方を厳しく批判し、その先に新たな共同体のあり方を志向する「預言」のジャンルは、聖書解釈にイデオロギー批判の視点を与えてくれる。また、リクールは、共同体を超えた普遍性を提示する「知恵」などのジャンルを重視するが、それは「知恵」が聖書自体が普遍的な人間経験への志向性を持っていることを示しているからである。フライに少なからず影響を受けたアメリカの「物語神学」には、福音は哲学的な概念とは関係を持つべきではないとする傾向があるが、リクールはこれを批判し、聖書をある共同体のメンバーにのみ通用するような特殊用語にしないためには、概念化への運動を切り捨てるべきではないと主張している。

 最後にフライやリンドベックらに向けられた「キリスト教」とは何かという問題がある。リクールは、物語神学が「聖書物語」をもっぱら「キリスト教的範例」(Christian patern)としてのみ用いようとする傾向に対して、そのような範例が形成されるのは物語的創造がすでに止んでしまった時であるということに注意を促している。リクールにおいても、ある文書群を「正典」とするのは「共同体」である。つまり、「正典」と「共同体」の間には循環の関係が存在する。しかし、それはフライやリンドベックの考えるような閉じられた循環ではない。周辺文書や他の文化に属する文書などが正典文書との間に作り出す緊張が、常に批判的な視点として作用するものと考えられているのである。

 リンドベックの提示した類型論は、これまで気づかれつつも明確にされていなかったポスト・モダンにおける神学のあり方をめぐる問題を意識化させてくれたという点において評価されるべきであるが、これを安易に用いることは危険であるし、また彼らが推奨する「言語・文化」モデルに根本的な欠点があって、リンドベック自身も認めているようにその有効性は相対的なものに過ぎない。特にそれが相対主義的な世界観を受け入れてしまった上で、教会共同体の内部に自閉しようする傾向を持っている点を見逃しにすることは出来ない。

 以上で、研究発表の準備草稿は終わりである。最後の2回はほぼそのまま当日の発表原稿になるだろう。25分という時間内に収めなければならないので、まるで骨組みだけのような文章になってしまい、自分でも何とも味気なく感じる。特に、リクールとフライを比較する必然性などは、聴いている人には分かりにくいところがあるだろう。ともかく、みなさんにどんどん容赦のないご批評いただいて(少しくらいは容赦もしていただきたいが)、発表に役立てたいと思う。

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神学の二つのモデル――(3)ポスト・リベラル神学への批判

 リンドベックの主張が、これまでの宗教学や神学の理論には無かった視点を与えてくれた点は評価されるべきであり、それが宗教間の協調において何らかの役割を果たすであろうことは期待できよう。しかし、リンドベックはエキュメニズムや宗教間協調におけるプラグマティックな実効性を越えてそれを一つの神学的立場として提示し、自由主義神学の後に来るべき神学と言う意味で「ポスト・リベラル神学」と呼ぶとき、この神学に対するいくつもの疑問が生じてくるのを禁ずることが出来ない。

 第一に、リンドベック自身が認めているように、それはキリスト教神学を自己閉鎖的で翻訳不可能な言語にしてしまうのではないかという疑念がある。それが異なった主張を持つ宗教間の対立を回避させるのは、互いの主張を検討し合うための共通の地盤を放棄するという犠牲と引き替えにである。それは、他者との「共存」の為に他者との「対話」を犠牲にすることではないのだろうか。

 第二に、そのことと深い関係にあるが、このモデルは真理問題を捨象してしまうように思われる。聖書物語が形象化するリアルな世界は、どのようにわれれの日常世界に関わるのであろうか*1。フライは聖書の世界が現実世界を吸収すると言うが、われわれの世界を構成する複雑で多岐にわたる次元に対して十分な考慮がなされているとは思えない。それは結局、ある共同体の中でのみリアルと認められるにすぎないのではないか。このような立場は、一種の「かのように」(als ob)の立場と見なされてもしかたがないのであって、教会の内外にいる者にとってキリスト教を絵空事にしてしまう危険を持っている。

 第三に、ポスト・リベラル神学は、共同体の言語・文化の適切性についての批判的な観点を欠くことにならないだろうか。フライは「物語」(narrative)という概念にいちはやく注目し、「物語神学」の源流の一つとなった人物であるが、物語がキリスト教共同体のアイデンティティー形成に重要な役割を果たすという側面のみを強調し、それが同時に個人や共同体の自己正当化のためのイデオロギーとなるという側面をあまり見ようとしない傾向にある。「物語神学」にとって「物語批判」の契機をどこに見出すかは重要な課題であろうが、フライの神学はそれに対して示唆を与えてくれるものではない。

 第四に、ポスト・リベラルの方法は、宗教活動の最も生き生きとした場面を考察の対象からはずし、もっぱらその文化的沈殿物に考察を集中しているように思われる。「言語・文化」型の宗教理解は、宗教体験を可能にする言語に注目するが、そこでは言葉と体験が同時発生的に生じる言述の出来事に対する関心は禁じられ、ひたすらそのような出来事の沈殿物にすぎない言語体系だけが考察の対象となるっているのである。

 第五に、ポスト・リベラル神学は、キリスト教的な共同体のアイデンティティーを記述することを神学と考えるが、その際、何をもって「キリスト教的」とするのかが不明瞭である。この点についてはトロウ氏から指摘のあったところであり、私も同じ点について「正典をめぐる循環」(『キリスト教学』第47号)に書いている。イェール学派が共通して関心を持つ「正典」(canon)という概念は、本来歴史的に形成されたものであり、現在の形の正典の妥当性に関しても議論の余地があるはずである。しかしながら、彼らの「正典」理解は、キリスト教の共同体によって現に認められているものが正典であるという同語反復的なものであり、そこに議論の可能性ははじめから排除されている。これは、正統が異端を排除していった過去のキリスト教のありかたを、無条件に肯定してしまうことになるのではないか。

 第六に、仮に上のような批判をすべて承知の上で、現在の欧米のキリスト教社会を維持するという関心から、こうしたモデルが有効であると考えられるとしても、それは日本のような非キリスト教社会においてキリスト教を信仰する意義を示すことができるだろうかという問いがある。

 最後に、こうしたタイプの神学に対して、もう一つの神学モデルとしてリクールの聖書解釈学を取りあげたい。(つづく)

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2006-08-28

神学の二つのモデル――(2)内テクスト的方法

 第三の神学モデルを提示するリンドベックの神学的傾向は、彼独自のものと言うよりも、イェール学派全体のものである。ここでイェール学派とは、あのポール・ド・マンの文学評論のグループを指すのではなく、イェール大学神学部の教授達を中心として形成された一群の神学グループのことである。代表的な人物としては、ハンス・フライ(Hans W. Frei)、ポール・ホーマー(Paul Holmer)、デイビッド・ケルセイ(David Kelsey)らがおり、イェールで学んだ研究者達を中心に、アメリカの神学に一定の影響力を与えている。

 これらイェール学派の人々に共通するのは、聖書を聖書外の概念や状況から理解するのではなく、逆に現代の社会的状況や個々人の実存的なありようを聖書から理解するという方法である。たとえばリンドベックはそれをこう言い表している。

世界を吸収するのはテキストであって、世界がテキストを吸収するのではない。(p.118/邦訳223頁

これは、聖書を現代人に理解可能な形に翻訳するというブルトマン的な問題設定に対するアンチテーゼと見なすことができる。人は聖書の言語を、聖書外の現実(たとえば現代人の世界観、人間観、ハイデッガーの実存理解など)に合わせて理解するのではなく、むしろ聖書の言語の中に住まうことで、聖書外の現実を理解すべきだと言うのである。

 イェール学派の中心人物であったフライは、『聖書物語の蝕』(The Eclipse of Biblical Narrative, Yale University Press, 1974)の中で、歴史批評以前の聖書の読みがまさにそのようなものであったことを述べている。かつて聖書は「字義通り」(literal)に読まれていたのであるが、それは決して現代のファンダメンタリストが言うような意味においてではない。聖書物語は、テクスト外の現実に照らし合わせてその真理性が証明されるような意味において字義通り正しいとされるのではなく、それが哲学概念や象徴的な意味へと置き換えられることなく、そこに描かれている物語がそのまま受け取られるべきであるという意味において字義通りなのである。歴史批評の出現によって、この聖書物語の字義通りの読みは崩壊し、聖書物語は「指示対象」(reference)と「意味」(sense)とに分離してしまった。その時代の神学を支配した自由主義神学とは、聖書物語の「指示対象」を捨てるかわりにその「意味」を救い出す試みであったということになる。

 フライは、このような歴史批評によって出現した不幸な分裂を修復し、かつての聖書の読みを現代に取り戻すことが必要であると考えていた。フライは取り戻されるべき聖書の読みを次のように描いている。

聖書的物語を一つのストーリーに結びつけることによって真に提示される世界は、実際のところ唯一無二のリアルな世界であったのだから、それは原則として、いかなる時代のいかなる読者の経験をも包含するに違いない。……(中略)……彼は自分の時代の出来事だけでなく、自分の性質、行動、情熱および自分の生の姿をもストーリーの世界の比喩として見ていたのである。(p.3)

フライが示唆していたこのような聖書の読み方は、イェール学派にとっての共通の神学的方法論となったが、リンドベックはそれを「内テクスト的方法」(intratextual method)と名づける。(Lindbeck, p.114/邦訳213頁) 神学の役割は、聖書の物語をその背後に想定される史実から説明することでもなければ、それを何らかの一般的な概念に置き換えることでもなく、聖書の物語を権威あるテクストとして使用する共同体において、その物語が果たしている役割を記述することとなる。

 前節で述べた神学の類型に即して言うなら、フライやリンドベックが求める神学とは、「認知・命題」モデル「経験・表現」モデルではなく、「言語・文化」モデルでなければならない。この主張は、たとえば一人の非キリスト教徒がキリスト教会の一員となる過程を考えるとき、実際的な説得力を持っているように思われる。「認知・命題」モデルによれば、彼は教会の信仰箇条や聖書に書かれている諸命題が正しく実体を指示していることを認めることによって信徒になることに同意することになる。「経験・表現」モデルによれば、聖書や信仰箇条を文字通り受け取る必要はなく、それらが象徴的に表している宗教体験を共有できた時に、彼は信徒になる条件が整ったことになるだろう。

 これに対して、「言語・文化」モデルによれば、彼は信仰箇条を承認したり、何らかの体験をする以前に、まず聖書物語に深く親しまなければならない。それも、それらの物語が象徴的に何を指示しているか、それらの物語が歴史的事実であるのか、といった問題に関わる以前に、彼はまずこの物語に十分に親しみ、その物語の中を生きなければならない。また、キリスト教的な言葉づかい、儀礼の方法、教会生活のあり方などを教わり、それを実践し、そのような言語・文化的な体系を自らのものとして修得していかなければならない。そのようなキリスト教的な言語や行動のパターンの習得こそが、彼に一定のキリスト教的ともいうべき体験を可能にし、さらには共同体の信仰箇条への同意を可能にするのである。

 さて、ここで私は、トロウ氏がそのブログCafe Eucharistiaの中で論じておられた「洗礼」と「回心」をめぐる一連の論考を想起するのである。もとよりトロウ氏の神学的思索は、リンドベックのようなタイプの神学とは相容れないかに見える。しかし、この論考で氏は、ある意味でリンドベックの議論と近いことを述べておられるように思われる。

「回心の体験について・洗礼」
「洗礼は受けなければならないか」
「洗礼後の生活」 

氏は「回心」がなければ「洗礼」を受けられないという立場を捨て、「洗礼」を一種の「あいさつ」のようなものだと主張されている。「回心」が一つの実存的な体験だとすれば、「洗礼」はより形式的なものだということであろうか。実存論的神学は当然実存的な体験を重要視する神学であるから、洗礼のような形式的なものは排除してよいということになりそうだが、しかし実存論的神学を元にした教会においても洗礼は大切だと氏は言われる。特定の体験が条件となって教会生活があるのではなく、教会生活に入ることによって神との交わりの経験へ迎え入れられるということだろう。そのような形式と体験とのバランスがとれた範例として、氏はウェスレーの教会を挙げておられる。それは、体験的なものと形式的なものの両方をそなえた楕円で表現することができるという。

 私の間違いでなければ、トロウ氏のご意見はリンドベックの議論を部分的には支持しているものと見ることが出来る。ただ、私の考えでは、リンドベックの提案は、形式と体験との相互的な関係のうち、形式が体験を作り出すという側面だけを強調しすぎているように思われる。トロウ氏は次のように書いておられた。

形骸化した檀家制度的なものを採用することがない限り、聖餐式は常に、ひとりひとりの信仰者と十字架のキリストとを結ぶ儀式であり続けるだろう。(「洗礼後の生活)

聖餐式という形式の重要性を述べながら、その条件として、形式の重視が「檀家制度」に陥ることがないように要求されている。しかし、リンドベック流の神学には、その危険がどうしてもつきまとうように思えてならないのである。その点で、トロウ氏の神学は、やはりリンドベックとは根本的に異なっているし、私のリンドベックへの神学への不満もそこにある。(つづく)

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神学の二つのモデル――(1)リンドベックによる類型化

 9月の学会発表の準備草稿をここで発表したいと言ってからだいぶ経ってしまった。私の前で発表されるPensie_logさんはすでにその草稿の一部をご自身のブログで発表されている。私もぼちぼちはじめたいと思うが、まず基本的なことから少しずつ書いていこう。あくまでも準備のための文章で、書きながら考えることになるので、手際よく話は進まないと思うが、そのほうがかえって面白いと思うのでそれでよしとしたい。

 発表で批判的に取り上げたいと考えているのは、「新イェール神学」とか「イェール学派」と呼ばれる現代アメリカ神学の一派である。その中の一人、リンドベック(George A.LIndbeck)の The Nature of Doctrine:Religion and Theology in the Postliberal Age, Philadelphia, The Westminster Press, 1984 が80年代後半から90年代にかけてアメリカの神学界に大きな反響を呼び、イェール学派の主張が広く知られるようになった。この本は、日本でも最近翻訳(リンドベック『教理の本質』星川啓慈訳、ヨルダン社、2003年)が出版されている。

 リンドベックの主張の日本での反響(と言っても、ごく小さなものだが)を見ていると、宗教間対話の問題に立ち向かわなければならないアカデミックな宗教学者と、ポストモダンの時代を生き抜かなければならない教会人との両者に好意を持って受け入れられているという点に、今までにない特徴があるように思われる。おそらくその理由は、リンドベックの提示する方法論が、自宗教を相対化しつつ、なお自宗教への帰属意識を保ち続けるという一見矛盾する課題を同時に実現することを約束してくれているように見えるからだろう。

 リンドベックは、『教理の本質』の中で、神学の三つのモデルを類型化している。彼の神学的発想自体は、イェール学派の中でずっと以前から主張されてきたことの整理にすぎないが、そうした主張の特色をこの類型論によって位置づけたところにリンドベックの貢献があろう。またこの類型論が、現代神学をめぐって多くの人たちが感じていたであろう問題点をうまく説明してくれたところが、リンドベックの議論がもてはやされた一つの理由であろう。しかし、そのことは、リンドベックの神学的な提案そのものを無条件に肯定できることを意味しない。

 そこで、まずその類型論を私なりに解説するところから始めよう。リンドベックの考察は、常にエキュメニズムの問題を念頭においたものである。教理の違いをめぐって対立する諸派が和解するための実際的な解決の道筋を示すことが目指されているように思われる。

 第一のモデルは、「認知・命題」モデルとも言うべきものであって、伝統的な神学が取ってきた立場である。それは、神学をある客観的な対象について知識を与える命題と見なす。神学をそのようなものと考えれば、神学命題(信条)の違いは決定的であって、その点で対立する諸派が一致することは、どちらかが相手を屈服させることなしには不可能となる。

 第二は、「体験・表出」モデルであって、宗教を何らかの宗教的経験の象徴的な表出と見なす立場である。宗教的象徴は異なってもそれによって表現されている体験は本質的に同じであるという考えに立つ。この典型はシュライエルマッハーである。教理や信条を二次的・派生的なものと見なし、その背後に命題化することのできない宗教的体験を想定する。そして、そのような体験の中にあらゆる宗教に普遍的なものを見いだす。リンドベックによれば、これが今日もっとも支配的な神学モデルであると言う。それらはあらゆる宗教に共通する経験を、「聖なるもの」(オットー)、「究極的関心」(ティリッヒ)、「実在」(ヒック)などとして定式化する。このような神学モデルによれば、教理の違いは対立の決定的な要因にはならず、教派間ないしは宗教間の対話は、互いに共通する体験を基盤にして促進されることが期待される。ただし、マイナス面もあって、そのように考えることで、一つの教派、一つの宗教のアイデンティティーが危機に陥る。たとえば、「キリストの復活」というキリスト教に独特の事柄が、「新しい存在」という一般的な宗教体験の象徴と見なされるとき、それは「信念と実践についての永続する共同体の規範となることは、おそらくありえない」(p.79/邦訳149頁)とリンドベックは主張する。

 上記二つの立場に対して、リンドベックが提示するのが、第三の「言語・文化」モデルである。これは宗教を言語やそれに対応する生活形式に類似するものとして理解しようとする立場である。宗教とは、「生活や思想全体を形作る、一種の文化的および/ないし言語的枠組みまたは手段」(p.33/邦訳54頁)であって、このような特定の言語・文化の使用が、特定の宗教経験を可能にする。「宗教的になるとは、所与の宗教の言語や象徴体系に熟達することを意味する」(p.34/邦訳57頁)。こうした捉え方によって、教理や神学的言説は、何らかの真理を指し示しているのでも、普遍的な宗教体験を象徴しているのでもなく、ある共同体における人々の行動・真理・言説に対して権威をもってはらたく規則のようなものととらえられ、それに従って行動することである一つの独特の生活形式を全体として可能にするものと見なされるわけである。この第三のタイプこそが、今日の世界において求められる神学の形であるとリンドベックは言う。

 さて、リンドベックがこの第三のタイプの神学を提唱するのは、それが諸教派間、諸宗教間の対立を克服する上で有効であると考えるからである。彼はこういう例を挙げている。「車は左側を走行せよ」という命題と「車は右側を走行せよ」という命題は、意味としては相反するものである。しかし、この二つの命題を、それぞれ一定の生活形式を可能にする規則と考えるなら、両者は決して対立することにはならない。一方はイギリスの道路交通を可能にする上で役に立っており、他方はアメリカの道路交通を可能にする上で役に立っているのであって、どちらが真理であるかを決定する必要は全くないというわけである。

 もし宗教をそのような規則としてとらえるなら、イスラム教にはイスラム教の規則があり、キリスト教にはキリスト教の規則があって、それぞれにそのような規則のおかげで可能になる独特の生活があるのだという理解が可能になる。それは宗教を「認知・命題的モデル」に従って理解した場合のように宗教間・教派間の深刻な対立を生まない。それでいて、宗教を「経験・表現的モデル」で理解した場合のように、その宗教の伝統的な形を喪失することなく、宗教共同体のアイデンティティーを保つことが出来る。宗教多元主義的な風潮によって揺らぎかけていたアメリカの多くの教会人にとって、リンドベックの提案する神学モデルは、保守的な信仰と現代社会の要請の両方に答えていくことの可能な、希望の持てるモデルと感じられたのであろう。

 私の考えでは、今日の宗教間の対立をめぐる状況を考えるとき、リンドベックが提示したモデルには、確かに他のモデルには無い実効性があるように思われる。たとえば、公平に見て現在もっとも深刻なのは、教派間や宗教間の対立ではなく、教派内部の、あるいは教派を越えた、原理主義とリベラル派との対立であろう。少々乱暴に言い換えるなら、それは第一の「命題―認知モデル」と第二の「経験―表出モデル」との間の対立である。キリスト教の中のリベラルな態度を取る人々が、キリスト教独自のある一つの象徴を、仏教とも共通するような普遍的体験に翻訳しようとするなら、それはキリスト教の中の原理主義的な態度を取る人々の支持を受けることは出来ない。どうしても対話を進めようとすれば、そういう人々を切り捨てなければならなくなる。異なった宗教のリベラル同士の間に対話が成立するのとひきかえに、互いの宗教の内部にリベラルとファンダメンタルという別の深刻な対立が生じてしまうのである。これは宗教間対話を考える場合の根本的なジレンマである。これに対して、第三の「言語・文化的アプローチ」によれば、諸宗教は対話しなければならない、一致しなければならない、という強迫観念から自由になって、互いが互いのルールの中で自足しつつ共存していく道が開かれているように見える。この立場に立てば、各宗教はファンダメンタリストを内部にかかえたままで、何とか他宗教と共存していくことができそうに思えるのである。

 しかし、こうしたエキュメニズムや宗教間対話におけるプラグマティックな実効性ということを超えて、この議論を神学のモデルとして支持できるかと言えば、否である。(つづく)

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