2006-10-15

翻訳可能性(2)

 前回、翻訳のことに触れたら、Pensie_log氏から、リクールの翻訳論の英訳が出ることを教えてもらった。邦訳もじきに出るらしい(←これは私の早とちりで、今のところ予定はないようです) リクールの翻訳論としては、Thinking Biblicallyに入っている出エジプト記3章14節に関するリクールの論文が" From Interpretation to Translation"というタイトルになっており、「ありてあるもの」の訳をめぐってリクール独自の翻訳についての思索が展開されている。

 実はPensie_log氏からは、「ありてある哲学者の神」と題する大変興味深い研究論文をお送りいただいてもいたのだが、今それを読んでみると、「ありてある者」についてのリクールの解釈が取り上げられており、その注の中にリクールの翻訳についての考え方が次のようにまとめられている。

リクールの翻訳論の基本的理念とは、純粋言語や普遍言語による完全な翻訳という理念は放棄し、他方で、翻訳不可能性という理論的断念にも与することなく、「実践」の中で常に別様に翻訳しようとすることで他者を言語的に歓待すること、とまとめることができる。(『基督教学研究』第25号、2005年、京都大学キリスト教学会、257頁)

見事なまとめであるが、同時に前回私が述べたことの補足にもなっているように思う。

 翻訳不可能性の主張を批判することは、完全な翻訳が可能であるとか、人類に普遍的な言語が存在しうると主張することではない。そうではなく、異なった言語に属する言葉を、あえて翻訳しようとすることによって、両者の言語=思惟のうちに何らかの変容の出来事が起こるかも知れない。その可能性をつみ取ってしまってはいけないということを私は言いたかった。

 「人類」のような言葉は実体としてあるわけではなく、対話や翻訳といった実践を通して想定される理念だとクレポンは言っていた。クレポンという人を私はよく知らないのだが、リクールの最初期の論文集『歴史と真理』をしばしば引用しているところを見ると、思想的にリクールに親近性を持っている人かも知れない。クレポンが紹介しているベンヤミンの翻訳論、リクールの翻訳論、それに日比野さんが支持しておられるエスペラントの問題なども含めて、一仕事終わったら取り組んでみたいものだ。

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2006-10-06

翻訳可能性(1)

 ここ1,2ヶ月はまともな研究発表はできそうにないので、しばらくは感想、覚え書きのようなことを書き連ねながら、この山場を乗り切ろうと思う。

 先日の学会発表の含意の一つとして、普遍性、翻訳可能性といった問題があった。「枢軸時代」(ヤスパース)に現れた世界思想、世界宗教は、あらゆる人間にとって普遍的な意味をもつ教えの可能性を初めて開いた。しかし、リンドベックらの議論は、そうした普遍的な思想、宗教の可能性に対する脅威となりうるものである。

 リンドベックの議論を、ハンチントンの「文明の衝突」論と比較してみることも出来るだろう。両者の違いは、ハンチントンの理論では、異なった文明の並存は必然的に衝突を生み出すと考えられるのに対して、リンドベックはの理論では、異なった宗教間のあいだには対立もないかわりに宥和もない、という点にある。共通するのは、そこで否定されているのが、文明間、宗教間の翻訳可能性であるということだろう。

 先日マルク・クレポン『文明の衝突という欺瞞』(新評論)を読んだが、そこで著者は、ハンチントンの「文明の衝突」論が、「人類」という概念を拒絶してしまったことを批判して次のように書いている。

われわれが知るべきなのは、「諸文明」は、固定されたアイデンティティーを守ろうとして、それぞれの文明が内向することから生成するのではなく、交換の継続、絶え間のない対話の維持から生成するということである。そしてこの対話が明かすものこそ、おそらく人類の単一性にほかならないのである。(109-110頁)

注にあるように、この人類の単一性は、実体としてあるのではなく、文化間の対話や翻訳という実践を通じて想定されるべき理念だと著者は言う。

 クレポンがハンチントンに向けたのと同様の批判が、リンドベックに対しても向けられなければならないだろう。リンドベックはハンチントンとは異なって、宗教間の対立が生じないことを目指して理論構築をしているが、それは対話や翻訳の可能性の断念を促すという点では同じ危険を犯しているのではないだろうか。

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