翻訳可能性(2)
前回、翻訳のことに触れたら、Pensie_log氏から、リクールの翻訳論の英訳が出ることを教えてもらった。邦訳もじきに出るらしい。(←これは私の早とちりで、今のところ予定はないようです)。 リクールの翻訳論としては、Thinking Biblicallyに入っている出エジプト記3章14節に関するリクールの論文が" From Interpretation to Translation"というタイトルになっており、「ありてあるもの」の訳をめぐってリクール独自の翻訳についての思索が展開されている。
実はPensie_log氏からは、「ありてある哲学者の神」と題する大変興味深い研究論文をお送りいただいてもいたのだが、今それを読んでみると、「ありてある者」についてのリクールの解釈が取り上げられており、その注の中にリクールの翻訳についての考え方が次のようにまとめられている。
リクールの翻訳論の基本的理念とは、純粋言語や普遍言語による完全な翻訳という理念は放棄し、他方で、翻訳不可能性という理論的断念にも与することなく、「実践」の中で常に別様に翻訳しようとすることで他者を言語的に歓待すること、とまとめることができる。(『基督教学研究』第25号、2005年、京都大学キリスト教学会、257頁)
見事なまとめであるが、同時に前回私が述べたことの補足にもなっているように思う。
翻訳不可能性の主張を批判することは、完全な翻訳が可能であるとか、人類に普遍的な言語が存在しうると主張することではない。そうではなく、異なった言語に属する言葉を、あえて翻訳しようとすることによって、両者の言語=思惟のうちに何らかの変容の出来事が起こるかも知れない。その可能性をつみ取ってしまってはいけないということを私は言いたかった。
「人類」のような言葉は実体としてあるわけではなく、対話や翻訳といった実践を通して想定される理念だとクレポンは言っていた。クレポンという人を私はよく知らないのだが、リクールの最初期の論文集『歴史と真理』をしばしば引用しているところを見ると、思想的にリクールに親近性を持っている人かも知れない。クレポンが紹介しているベンヤミンの翻訳論、リクールの翻訳論、それに日比野さんが支持しておられるエスペラントの問題なども含めて、一仕事終わったら取り組んでみたいものだ。
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